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2階の一角にたてこもって、だいぶ長い時間が経過した。
非常扉越しに、何度か悪魔との小競り合いがつづいているが、なんとか被害者を増やすことなくもちこたえている。
当初、チューヤの能力に畏怖を抱いていた人間たちだったが、現在は防衛のために欠かせぬ存在として受け入れられた。
価値観の転倒した世界で、これまで信じていた概念がことごとく崩れ去るなか、現に戦果を出している事実は何物にも代えがたい。
戦闘を終え、撤収したチューヤに、暫時の休息が与えられる。
壁際にヒナノと並んで腰かけながら、チューヤは、なにか話さなければならない、というわけのわからない強迫観念に駆られ、言った。
「この戦いが終わったらさ、ど、どうやって帰ろうか?」
当人にフラグを立てているつもりはない。
「すくなくとも、徒歩で帰るつもりはありませんね」
ヒナノはもちろん皮肉で言っているのだが、
「そうだよね、すぐそこに駅あるもんね。俺も半蔵門線で来たんだ」
チューヤは変人なので、文字通りに受け取った。
「いえ、わたくしは……」
「惜しかったよね。成城からだと小田急でしょ。千代田線直通だから、乗り換えないとだもんね。田園都市線からなら、まっすぐこられたんだよ。半蔵門線っていうのはね、川の手線にけっこう似てるんだ。半蔵門駅を除く全部の駅が、他の路線との乗り換え駅になってるんだよ。都内の地下鉄としては唯一、すべての東京の地下鉄に接続できるんだ。全駅が地下になってるのも似てるかな。東京メトロは地下鉄といっても、南北線と半蔵門線を除けば地上区間や地上駅が、けっこう多いからね。路線自体は短いんだけど、東急と東武への直通区間を合わせると100キロ近いから、ほぼ川の手線の長さだよね!」
サアヤなら、いつもの「鬼スルー」か、たまに突っ込みを入れてもらって平和な着地をみられるわけだが、そういうスキルを有さない一般人に対しての鉄ヲタ炸裂は、きわめて危険な行為である。
もう冒頭から、なにが惜しかったのかさっぱりわからない。
そもそもヒナノが、電車などで移動するわけがないのだ。国津石神井に通学するようになるまで、電車の乗り方すら知らなかったくらいなのだから。
「……川の手線、ですか。まさか、それほど恐ろしい意味が隠されているとは、わたくしも思いませんでした」
「え? いや、恐ろしい話、してないけど」
「エジプト神たちが狙うのも、よく理解できます」
その言葉に、ハッとするチューヤ。
いつか訊こうと思っていたが、ちょうどいい。
「そういえば、エジプト神がどうのとか、どうなったの?」
「東郷くんからお聞きになったら?」
「いや、そうだけど。……ナナちゃん元気だった?」
「ナナちゃん?」
いぶかしげな表情に、どうやら彼女とは会っていないらしいと理解した。
「えっと、リョージとふたりで、エジプト勢の妙な動きについて、探りに行ったんだよね?」
「彼らは自衛隊が開発している兵器の情報を狙っている、という話でした。軍事機密なので、簡単には手にはいらないでしょうが」
「ちょ、またそういう厄介な話なの?」
「国際政治のパワーポリティクスについては、あなたも先刻までに垣間見たのではないですか? もう、そういう世界になったのだと理解して、馴染むしかありません。──自衛隊が開発している兵器については、わたくしも詳しく承知はしていませんが、かなり高度な数学が必要ということなので……」
「ケート絡みか。──だよね」
無言でうなずくヒナノ。
ホルスの言っていたことは、いちいち符合する。
川の手線、自衛隊、数学、アメリカ、インド──。
舞台装置はそろっていて、解き明かすための重要なキーワードのいくつかも入手している。
あとは正確に組み合わせるだけで、それなりに正しい絵面が見えてくるだろう。
厄介なのは、いくつかの事象に複数の仲間たちが関係していて、それぞれが相応の情報をもっている、力を合わせて問題に対処すれば、いくつかは解決するかもしれないし、そういう方法をとりたいところなのに、肝心の仲間たち各々が別々の方向を向いている、という事実だ。
必ずしも見当ちがいの方向というわけではないので、手を組むところは手を組めるはずだし、現にそうしている。互いに信用したいし、信用すべきなのだが、けっして信用しきってはいけない。
このむずかしさは、おそらく国際政治に通じるだろう。
世界の動きは、鍋部に凝縮している。
そんな部分は、たしかにある。
「……ところで、上はどうなってるのかな?」
話題を変えるチューヤ。
「いまは、待つ以外にないでしょう」
ヒナノの答えはあっさりしている。
「上にいる敵の目星は、もちろんついてるんだよね」
ヒナノはしばらく考えていたが、神学機構の内輪の恥をさらすことになっても、この情報は伝えておいたほうがいいと判断した。
「携挙システムを歪曲し、私欲を肥やそうとする裏切り者が出ました。いかなる悪魔にそそのかされたにしろ、星天使ともあろうものが、神の国を裏切ることは許されません。ミカエルにより罰されるでしょう」
「星天使……ええと」
「ウェルキエル。ここからすこし西へ行ったところで、異教の神将と対峙していた重要な上級天使です」
ただちに悪魔全書を起動するチューヤ。
先日の校長の授業以来、召喚できない悪魔についても、データだけはこれまでより詳細に参照できるようになっている。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ウェルキエル/星天使/64/16世紀/ドイツ/隠秘哲学/四谷三丁目
「かなり強い天使だね。てかさ、そもそも星天使って」
「携挙システムの運用管理責任者です。──あなたなら知っているかと思いましたが」
やや意外そうな表情で、ヒナノはチューヤを見た。
「まあ、データ上は。『デビル豪』では、仏教の12神将と対峙する形で紹介されてるよね」
このゲーム脳が、という冷たい視線については、気づかないふりをした。
──ウェルキエルを含む12の星天使たちは、アグリッパのオカルト哲学で知られ、黄道十二宮に関連づけられている。
仏教の12神将と対峙することの意味は、これまでのところ掘り下げられていない。
「携挙システムについては、もちろん承知していますね?」
アホの子に説明するレベルまで下げることにしたらしいヒナノ。
「う、うん。小菅で教えてもらったからね。人間の魂をぶんどる……天国に導いてあげる、神学機構のシステムだよね」
「そもそもはプロテスタントの終末論の一種ですが、アメリカの福音派がもっぱら主唱しています。それ自体を批判する他の宗派も多いですが、神学機構が採用している携挙システムは、現象としてこの携挙に似ています」
「それってさ、悪魔がやってる〝侵食〟と同じだよね。局所的に異世界線を動かして、人間ごと空間を呑み込み、死体が残らないように捕食……」
「お黙りなさい! 悪魔によって虐殺され食われることと、神によって天国に引き上げられることを、同列に扱うことは許されません」
もちろんヒナノとしてはそう主張せざるを得ないところだが、客観的現象としては、たしかに同じなのだ。
彼女のなかで、この事実をどのように整合させているのかは、チューヤにとっても深い謎だった。
現状、日本社会はこの異世界線による侵食に対して、世界でもっとももちこたえている国として、評価されている。
死体が残らないからこそ社会の混乱が少なく、その数も全人口の1%以下となれば、地域レベルで見れば、いわゆる超巨大災害の被災者数と比べても穏当ですらある。
人類は、なにもしなくても毎年、1%以上の人口が入れ替わる。
その数が、1年のある時期にやや集中し、しかも無作為である、という部分が問題点といえば問題点だが、それでも日本社会は現状ぎりぎり「ふつうに運用」されている。
死体が出ない、というのは事程左様に重要なのだ。
それに比べれば、悪魔に喰われるか天使に喰われるかの差など、たいした問題ではない。
結果として、その人間が社会からいなくなることは変わらないのだ。
捕食される当事者にとっては、大きな問題ではあろうが……。
「わかった、まあそれはいいけど、つまり天使による捕しょ……携挙をコントロールしているのが、星天使なんだね」
「……先日、校長の授業であらためて確認させられましたが、人間の魂は神によって救済されなければなりません。それが、われわれ人類にとっての至福であり、順路なのです。言い換えれば、邪教によって永劫の地獄に落とされると約束された魂を、われわれには救済する責務がある、そう信じます」
このヒナノの発言には、いろいろ問題がある、とチューヤすら思った。
キリスト教徒というのは……いや宗教全般の問題なのかもしれないが、自分の考えを他人にも押しつけたがる傾向がある。
もちろん自分の考えが正しいと信じるのはいい、しかし、そこに「他人を巻き込む」という半ば不可避的な動機が強く加わることが問題だ。
とくに「啓典の民」(アブラハムの宗教)には、誤解する余地のない「文章」が与えられてしまっている。
敵は地獄に落ちるし、自分の正しい考えを周囲に伝え導かなければならないし、一度それを信じたら考えを変えることは許されない(変節した場合に受ける凄惨な拷問の詳説つき)。
いいかげんに卒業してほしい妄想本を、いまだに教材として教育を受ければ、そうならざるをえないというのはわかるが……。
「俺を邪教呼ばわりするのはいいけど──てかそれ以外に呼びようがないけど──仏教を邪教と呼ぶのは、やめたほうがいいんじゃないかな」
要するに宗教者同士によるかぎられたパイの食い合い。
という露骨な表現はヒナノの手前差し控えたが、星天使と神将の戦いは、世界宗教であるアブラハム系と仏教系の戦い、という構図が非常にピッタリくる。
ここにサアヤがいなくてよかった、と思ったが、考えてみればサアヤはべつに仏教を代表しているわけではない、ただの一介の信者だ。
腐っても世界宗教、その意地とプライドの張り合いが、星天使と神将の繰り広げている魂の「ぶんどり合戦」なのだろう。
「神学機構も、それほど盤石の統一がとれているわけではありませんが、仏教ほどの雑多さはありません。とくにウェルキエルは、信濃町に近い仏教系の新興宗教団体がコントロールする神将に、かなり不利な戦いを強いられていたようです。問題は、そこに付け込んだ悪魔の存在……」
「なるほど、結局、ウェルキエルという星天使が裏切って、神学機構が捕しょ……携挙すべき魂が、どこぞに横流しされた。それが証明できれば、ガブリエルさんも助かるってわけだね!」
「そう簡単にいけばいいのですが」
当然、そう期待しての行動だが、ヒナノも楽観はしていない。
現在までに、神学機構内部に渦巻くむずかしい問題についても、いろいろと知らなければならなかった。
あまりにも巨大な「アブラハムの宗教」は、一朝一夕に取り扱えるものではない。
「で、捕しょ携挙は順調なの?」
「そのホショケーキョというのはやめなさい、腹が立つ。ホトトギスですかあなたは」
「はい……。でも携挙ってさ、魂を取り扱ってるわけでしょ? 肉体はどうしてるの?」
「それは……神のみぞ知るのです」
口ごもるヒナノ。
どうやら彼女のレベルまでは周知されていないらしい。
捕食であれ携挙であれ、いよいよ怪しい神学機構。
ラスボスの可能性はきわめて高い、かもしれない……。




