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「お嬢、大変だよ。なんか外人さんが叫んでて、納豆がどうとか……」


 チューヤが、わたわたと慌てて駆けもどってきた。


「納豆?」


 首をかしげるヒナノ。

 外人と納豆の組み合わせが、いまいち脳内で結びつかない。

 連れられて行くと、床に座り込み、泣き叫んでいる女。


「……サアヤの叔母さんも、しばらく海外に行って納豆が食べられないと、禁断症状を起こすらしいから、それかな?」


 どぎまぎするチューヤに、


「あなたはバカですか。彼女は、真実とは思われない事態を目にして、混乱しているだけです」


 ナットウではなく、ノット・トゥルー、と叫んでいるだけだった。


「あ、そうなの? いや、リョージの冒険でも納豆中毒者出てきたし、ついに納豆は世界を目指しているのかと思ったんだけど」


 その発想は、なくもない。


「水戸に帰りなさい。……Calm down, take a deep breath」


 ヒナノが外人のほうを受け持ってくれたので、チューヤは視線を転じた。

 ──完全に境界に取り込まれた。ザコのつまみぐいというレベルではない。

 このパターンだとボスを倒すしかないが、問題はミカエルたちが目的を達するまでにどれだけ時間がかかるか、それまで生き残っている人間たちをどれだけ守れるか、ということになる。

 やがて視線をもどすと、ヒナノが女性を落ち着かせ、並んで立っていた。


「彼女はセシール。地下の安全なエリアに連れて行きましょう」


 ヒナノの言葉に、


「セシール♪ しもふさ(→)くん幸せ(↑)そうなのに(↓)」


 イロッフル・サ・コンフィアンス・エ・ソナムール、っぽく言うチューヤ。


「……? 愛と信頼ではなく、彼女を届けなさい」


 3か国語を母国語並みにマスターする、ヒナノならではの突っ込みといえるだろう。


「サアヤに見せられた昭和のCMで、聞いた気がするだけなんだけど……」


 近年も復活放送しているCMなので、懐古趣味の持ち主ではなくとも、知っている人は知っている。

 ──エレベータは停止しているので、階段で下を目指す。

 あちこちの壁に飛び散った鮮血は、境界ならではの光景だ。

 平和な現世で、このような殺伐たる惨状はあり得ない。

 あちら側から、こちら側の生命を奪いにくる、悪魔の世界線。

 断じて、許すわけにはいかない。


 ヒナノは、知り合ったばかりのセシールと、英語で歓談している。

 最初は恐怖に震えていた彼女も、いまではヒナノを信頼しているようだ。

 年のころは20代後半、ブラウンの髪に、そばかすがまだ幼さを残す、白人女性。

 日本の光学機械メーカーに勤務しているらしいが、担当しているのはもっぱら欧米への輸出業務だという。

 日本メーカー勤務のため、日本語もカタコトは理解できるらしい。

 とはいえ、もちろん母国語である英語のほうが楽に話せる。


「あなたは、ほんとうに話しやすい。美しいブリティッシュ・イングリッシュね」


 セシールの言葉に、


「アメリカ式は野蛮ですわ」


 笑うヒナノ。

 ──語彙、スペリングともに、国際会議などでは英国英語が使われる。

 世界はアメリカ英語に満たされているかのように感じられることも多いが、アメリカ式を使用しているのはフィリピンやリベリアなど少数の国にすぎない。


 ヒーナ、セシー、と親しげに話す女子トークを、まったく理解できないチューヤ。

 こんな高性能なナノマシンつくれるくらいなら、翻訳プラグインくらいつくれよ! とイライラしてきた。


「ところでさ、お嬢は、なんで、みんなを名字で呼ぶの?」


 一瞬のスキをついて割り込むチューヤ。

 知り合ったばかりの女性とはニックネームで話すのに、鍋部の友人たちのことを、彼女はなんと呼んでいるだろう?


「みなさんが、その名字だからですよ、中谷くん」


 うざったそうにふりかえって答えるヒナノ。


「いや、じゃなくてさ、なんか距離を感じるじゃん。外人って、けっこうみんなすぐファーストネームとか、ニックネームで呼ぶでしょ。セシーとかさ! なれなれしいなー、というか、もちろん当人がよければいいんだけどさ!」


「では、正解ではないですか。わたくしは日本人ですし、なれなれしくしないほうがよいのでしょう?」


「いやその、えっと……鍋部はさ、もうみんな仲良しでいいんじゃないかなー」


「……なれ合いはしません。ほとんどの場面では、伝統的な形式を守っていたほうが無難なのです」


 社交界のプロトコールにどっぷりと漬かっている名門貴族としては、過去に苦々しい思い出があるのかもしれない。

 彼女は、おそらく最後まで、孤高を貫くのだろう。


「いやまあ、俺たちもお嬢をお嬢と呼んでるのは、どうかと思うけどさ。わるいのはサアヤだからね、言っとくけど!」


 一年まえ、鍋部の部室に集まった6人のファースト・ミーティング。

 最初の5分ほど、素でヒナノのことをヒバリだと勘ちがいしていたサアヤが、ヒバリといえばお嬢だよね! と言った瞬間に、ヒナノのあだ名が決定した。

 名づけた当人は、自分の勘ちがいを恥じているらしく、けっしてそうは呼ばないが。


「あなた方にどう呼ばれようが、どうでもよろしい」


 いっさい興味がないらしいヒナノ。


「冷たっ! どう、たまにはダーリン、ハニーと呼び合ってみ……ごめんなさい」


 思い切って軽口をたたいてみたチューヤの心臓が、凍りついた。

 炎の魔法を駆使するヒナノは、人間の心を凍りつかせる視線も体得しているらしい。


 ──しかし世の中には、高嶺の美女から罵詈雑言を受けることで快感を覚える男というのが、一定数存在する。

 むしろ懸念されるのは、チューヤがそちらの趣味に陥るリスクのほうかもしれない。

 しょんぼりと肩を落としつつ、イヌのようにヒナノの尻を追いかけるネコ派のチューヤの明日はどっちだ。




 ミカエルの言葉通り、2階には生き残った人間たちが集まり、非常扉を封鎖して、数十人がかろうじて生き延びていた。

 自分たちが人間であることを告げ、入れてもらう。

 ここで扉を守り、境界が溶けるのを待つという戦略は現状、おそらく最善なのだろう。


 1階のロビーには悪魔がうろうろしている。

 チューヤの見たところ、がんばれば外に出ることは不可能ではない。

 外に出たからといって境界は解けないが、閉鎖空間で敵の襲撃を待つより、逃げ道の広がる外に出たほうがいい、という考えの人々も一定数いるようだ。

 警察を中心とした数人が、強行突破の戦術を練っている。


 セシールは友人たちを見つけて、その仲間にもどった。

 ヒナノも誘われたが謝絶し、やや離れた場所でチューヤと並んで立つ。

 現状、この悪魔使いとプランを練ったほうがよい、という判断だ。


「──そろそろ教えてもらっていいかな? この境界を結んでいるのは、どんな悪魔か、お嬢は知ってるんだよね?」


 チューヤの問いに、ヒナノは眉根を寄せてしばらく考え込んだ。


「悪魔アザゼルが裏で糸を引いた奸計であることまでは、判明しています。しかしあくまでも黒幕です」


「……実働は別と。じゃ、ミカエルさんたちが天罰をテキメンに行ったのは?」


 ヒナノからの説明が少ないということは、神学機構内部のモメゴトが絡んでいるのだろう。

 ロイヤルアークを訪れた目的は、一義的にはもちろんヴァチカンから盗まれた聖遺物なるものの追跡なのだろうが、事態がその一点に収斂するとも思えない。

 ヒナノは短く嘆息し、口を開いた。


「──どの組織にも、裏切り者というものは存在します。当然、それに対抗する監査組織もある」


「異端審問だね……いや、それで?」


 ヒナノの表情の厳しさに、チューヤは慌てて先を促す。


「裏切り行為は、当然に罰されねばなりません。ただし、神ならぬわれわれの目では、正しい判断が下せるともかぎりません」


「そう、ね」


 いろいろ突っ込みたい部分はあるが、これ以上空気を冷やしたくないので、黙っていた。


「とはいえ手つづきが煩瑣になると被害が拡大します。じゅうぶんな証拠を得れば、その場で判決を与えてよいと、許可を得ています」


「まるで軍法会議だね」


 それよりも厳しい、事後承諾に基づく即決裁判である。


「非常事態には、非常の法規によるのです。──ところで、あなたのほうはどうなのですか? 上層階で殺された政治家というのは……」


 反問するヒナノに、


「よくわかんない。オヤジが捜査に向かってる。オヤジの部下の嫁のおじいさんの……ともかく関係者らしいから」


 首を振るチューヤ。


「日本の政治家、ですか……」


 顎に手を当て、考え込むヒナノ。

 タイミングといい、集まった人種といい、その動き方といい、とても偶然とは思えない。

 事態は収斂どころか、輻輳している──。



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