65 : Day Dreams : Kamiyacho
こんな夢を見た……。
チューヤは暗い道を歩いていた。
道しるべの文字は、闇なのに赤い。イモリの腹のような色だ。
愛宕神社──。
山上に梅が咲いている。
崖をまわりこむようにして、登りはじめる。
重い。
六つになる子をおぶっている。たしかに自分の子である……。
「くそ、なんで童貞なのに子どもいる設定だよ。早く覚めてくんねえかな、夢」
東京のどまんなかを、真夜中、こうして歩かされていること自体、完全な悪夢だ。
ぶつぶつつぶやきながら、背中をふりかえって考える。
どこかで見た顔だが、思い出せない。目がつぶれて、青坊主になっている。最近、ひどい虐待を受けたのではないか、と思われる顔だ。
「もうすこし、いくと、わかる。──ちょうど、こんな晩、だったな」
きっと、こんな重苦しいセリフを、背中のバケモノは吐き出したのだろう……ですよね漱石さん。
すこしずつ思い出す。
現国の授業で課題図書だったから、しかたなく読んだ『夢十夜』はたいへんおもしろく、たしかにその晩、夢に見た。
「そこだ、ちょうど、そこの杉の根のところだ!」
背中のバケモノが叫ぶ。
「文化五年辰年? そんなわけが……ああ、そういや、そうだったかもな」
記憶を探る。
「そうだとも、おまえが、俺を殺したのは、ちょうど、こんな晩だったね!」
座頭殺し。
『夢十夜』で有名なエピソードだ。
ここに至って、ようやくチューヤも理解した。
そして半ば安堵した。
これは俺の夢だ。
どうやら自分は、サアヤとケートの悪夢に巻き込まれたらしいが、目を犠牲にして、そこから抜け出した。
つぎはリョージかヒナノか、マフユだったらそうとう悲惨な目に遭わされるにちがいない、という漠然とした不安は、どうにか拭い去れた。
まだ問題が解決したわけではないが、他人の夢にいるよりは気楽だ。
このまま、どこかのタイミングで目を覚ませば、もとにもどれる。
そんな気がする。
「家に帰りつくまでが遠足ですよ、か」
よっこらせ、と立ち上がる。
どのタイミングで目を覚ますのか?
目を覚ますという確信はあるのか?
ほんとうに目を覚ますのか?
そもそも人が毎日目を覚ますなんて、奇跡のようなものだ。
眠ったら、二度と目を覚まさないかもしれない。むしろ、そっちのほうが、より確からしい未来なのではないか?
変な思考が脳内をぐるぐるしはじめる。
なるほど、俺の悪夢らしいや。
短く嘆息する。
自己嫌悪と内罰的な性格が、最悪のケースを想定させざるを得ない。
だが待てと。
目を覚まさないことが不幸だろうか? 最悪だろうか?
もし生きていることが、ほんとうにつらかったら、きつかったら、地獄だったら、拷問だったら、死はそこからの解放ではないのか?
「ふん、ようやく気づいたか。いや、最初から知っていたはずだがな。あの女の毒気にアテられて、別のぬるい思想を信じ込むフリをしていたんだろう?」
再び背中から声が聞こえる。
ふいと思い出した。それはサアヤの親戚、天彦くんだった。
仲間たちを殺し、罰として殺されかけたところ、サアヤの力によって生き返らされた。
いまもベンサン・ショップで、地獄のような日々を生きているのだろう。この生々しい傷が、すべてを物語っている。
生きることが地獄になることも、たしかにあるのだ。
もちろん人を殺したら、罰を受けるのは当然だ。
父親がそういう仕事をしているが、その生きざまはともかく、思想自体は正しいと思う。
人を殺したら、あるいは殺さなくても、生きている資格も能力も、意志さえも失ったときに、死という解放に進んでも──。
「こらーっ」
落石が叫んでいる。
慌てて飛び退くが、つぎからつぎへと落ちてくる。
サアヤの顔をした岩石。それ自体のシュールさはともかく、背中で直撃を受けた天彦くんは泣きながら砕け散った。
目を覚ましたのだろうか。
茫洋としてふりかえった顔面に、直撃。一瞬、死を覚悟したが、血も出ない。
若干痛いものの、岩石と思えぬ柔らかさと軽さ。
「変なこと考えたら、ぶつよ! メッメ!」
叫ぶ岩が転がり落ちていく。
彼女といっしょに転がり落ちようか。
そんなことを考えて、ハッとする。
チューヤは視線を山道に向け、歩き出す。
つぎに目を止めたのは、歩きやすい道。
平らに整備されていて、小石ひとつない。
路傍の樽に潜り込んでいる──少年。
ジャミラコワイ博士かと思ったが、ふりかえった美しい顔で、彼の正体を理解した。
「ケート」
彼は答えず、樽を横たえた姿勢のまま、木の棒で地面に数式を書いている。
「そこに立て。太陽がまぶしい」
樽から指示され、チューヤは指示された場所に立つ。
さっきは深夜だったのに、もう真昼間の太陽が昇っている。
いや、太陽ではないかもしれない。とにかく明るいものだ。
ケートのような種族は、どうやら地上にすら太陽をつくりだしてしまうらしい。
「なにやってんだ、ケート、そんなとこで」
問うてから、愚問だと気づいた。
彼がなにを考え、どうしたいかは、夢の主人であるチューヤの想定の範囲内でなければならない。
するとケートは腕を持ち上げ、平らな道を指さした。
「順路だ。進め。よかったら、この樽に乗せてやってもいい。いや、ぜひ乗って行け。夜はこのなかで眠るといい。温かいぞ。……そうだ、これが順路なんだ」
青い澄んだ目で見つめられると、信じたくなる。
事実、信じている人々は多いのではないだろうか。
広く、平らで、まっすぐな道。
快適で合理的、高度に整備された計算どおりの道。
この道に、俺は──。
「いいよ、ありがとう。俺、この山に登ってみたいんだ。さよなら、ケート」
チューヤの言葉に、ケートはふりかえりもせず、ただ数式を書きつづけた。
ひどく悲しそうだと思ったが、気づかないふりをした。
サアヤとケートの夢を逃れ、その誘いを蹴った自分に、この先、選ぶべき正しい道があるのか自信はなかったが。
捨てたものは、もう、手にはいらない。
しばらく進むと、元気な掛け声が響いてきた。
山の中腹に切りとおされた平場に、動物たちが集まっている。
中心に、赤い腹巻を巻いたサル……いや、強そうな人間。
考えるまでもない、リョージだ。
多くの動物たちと相撲をとっている。
彼は世界の主人公。
強いものが勝て、弱いものもがんばれ、みんながみんなの場所で生きろ、みずからを磨き、限界に挑戦しろ、そうだ、自由に挑戦していい、もっとかかってこい!
現代風に言えば、自由競争とセーフティネットの両立、というやつだろうか。
リョージに負けたクマが、腹いせに手近のウサギをぶん殴っている。
その後頭部を、リョージがぶん殴る。
「弱いものイジメすんな! 戦いたいなら、強いやつと戦え! おまえのようなやつは、箱庭行きだ!」
クマを蹴り込んだ先は、洞窟。
ふと見ると、そこには無数の樽が並んでいた。
圧倒的な数の樽。洞窟は、ほとんど無限のように広がり、並べられた無数の樽のひとつに、さっきのクマがはいりこんだ。
……これが、リョージの世界。
「世界は自然に返す。道具を手にした人間は、都市にこもれ」
チューヤも、その思想を理解している。
「文明の利器を使って、自分が強いつもりになっている、そうして弱いものをいじめる根性のねじ曲がったやつらは、箱庭にもどれ! そこで死ぬまで生きる自由だけは許してやる。だが、おまえらにこの自然を破壊する権利はない!」
猟銃と通信機を手に、野生のライオンを狩るハンター。
リョージにとって、もっとも忌むべきカリカチュアだ。
ライオンと戦いたいなら、パンイチで勝負しろ。文明の利器が使いたいなら、都会へ帰れ。そこで、その自分の樽のなかで、好きなことをやればいい。
人類は強い、それは認める、だから都市を築け、その場所はおまえたちにやる。
だが、それ以外の場所へ出てきて、自分自身が強いかのように勘ちがいして、醜い武器をふりまわすのはやめろ。
美しい。
たしかに心に響く。
一見、正論にも思える。
人類は生物たちの一員であることを忘れた瞬間から、彼らとともに生きる資格をなくした。
それでも死ねとは言わない。都市に引きこもって、死ぬまで生きればいい。
彼はやさしいのか、それとも厳しいのか。
チューヤには、もうよくわからない。
「よう、チューヤ。おまえもこいよ。戦おうぜ、いっしょに。オレたちより強いやつらは、いっぱいいる。楽しもうぜ!」
「……楽しそうだけど、俺はそういうの苦手だから。遠くから見守ってるよ、リョージ、がんばれな」
そう言って、チューヤは山道に向き直った。
愛宕山の山頂は、もうすぐ、そこにある。
頂上に近い一瞬、殺気を感じた。
すばやく飛び退いた場所を、鋭い切っ先が切り裂いた。
「ちっ、勘のいいやつだ」
「マフユさん、あんた、そのキャラゆがみネェっスね!」
片目に眼帯をし、左手の義手にはナイフが仕込まれている。
薄汚れた衣装は盗品の重ね着らしく、高価そうな宝石がのぞく。
あきらかに山賊の体。異常に似合っている。
「さあ、身ぐるみ剥いでやんよ。全部置いていくか、それともあたしの仲間になるか?」
「なるほど、話はわかっ──って、答えるまえに殺そうとすんなよ!」
あきらかに致命傷の鋭さで、さっきまで首のあった空間が切り裂かれている。
「てめえの答えはわかってんだよ。最初から、あたしといっしょにくるつもりなんてねえんだ。まともな連中は、みんなそうさ。まあ、自分がまともだと思い込んでるだけの病人にしか思えねえけどな。
いいよ、好きにしろ。勝手に群れて、適当に奪われて、順番に死んでいけばいい。ときどき見舞われる災難は、サイコロの出目のせいだ。あきらめて野垂れ死ね。そんなつまらねー世界、べつにいいだろ、終わってもよ?」
「おまえだけはさ、ダメだよ。たぶん、俺は……」
「だから最初からわかってるって言ってんだろ! わかりきった答えは聞きたくねえ、さっさとくたばれよ!」
刀をふりまわすマフユから、一目に逃散する。
背後からしばらく聞こえていた叫び声は、すぐに遠くなった。
最初から本気で自分を殺すつもりはなかったのかな、と考えて、ざくっ、と背中に刺さった矢をふりかえり、そうでもねえな、と考えを改めた。
山の頂点は、もうすぐそこだ。
「狭き門より、はいりなさい」
ヒナノは言った。
順番的に言えば、そうなるだろうな、と納得する。
チューヤは山頂の手前で垂訓する女を見上げた。
昔、ナザレに生まれた偉い人が、こうして山のうえで愛を説いた記録が、有名なベストセラーの本に残っている。
アホな農民よろしく、まぶしそうにヒナノを見上げるチューヤ。
ヒナノはしばらく、その存在に気づかないように、自説を力強く主張する。
周囲に集まった人々は全部、書割だったが、それはチューヤの想像力が足りないせいであろうとみずから戒めた。
なにしろここは、彼の夢なのだ。
ほどなくヒナノが、チューヤに視線を止めた。
そろそろ気づいてもらってもいいころだ、とチューヤが思いはじめたピッタリのタイミングだった。
「さすが俺の夢」
「そこの農奴。話はわかりましたか? 貧しき者は幸いですよ」
「はあ……そうスね」
お金持ちに言われてもな、と思ったが言わぬが花だった。
「あなたがこの道を歩きたいなら、いいでしょう、ついて来ることを許します」
「……はあ、いや、いいっス。俺ちょっとこの道、登ってみます」
「この先に道などありません。これが最後の、そして唯一の道です」
「いや、ほら、一応、ありますよ、道」
「ラクダが針の穴を通るより困難ですよ」
「がんばります、それじゃ……」
てくてくと歩き出す。
もう、彼にはその道しか残っていない──。




