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64 : Day Dreams : Suehirocho


「ぐわぁあぁーっ!」


 のたうちまわり、土間から転がり落ちる男。

 奥では針仕事をしていたおサヤが、かもじに縫い棒を挿しながら、


「騒がしいね、どうしたんだい、おまえさん」


 ぎろり、と甲斐性のない亭主をにらむ。

 裏長屋のチューキチことチュー五郎は、頭と目を撫でながら、ゆっくりと身を起こした。


「おお、変な夢を見ていたぜ。鳥に目を突かれて覚めた」


「バカだね、まったく。起きたら起きたで、さっさとやることやっとくれよ」


 追い出されるように九尺二間の棟割長屋から転がりだすチューヤ。

 いや、この世界ではどうやら、俺の名前はチューキチだ、と意識を改める。

 前回のゾーボクおじさんもそうだが、どうやら登場人物は、冷静に考えることで自分に与えられた役割を「思い出す」仕組みになっているらしい。

 またしても別の夢に放り込まれた、と早々に理解し、しばし首をひねってから、チューヤは逆らわず馴染むことにした。


 裏長屋のチューキチことチュー五郎の表の職業は、大工である。

 明け六つ(午前6時)、長屋の路地の木戸が開く。

 路地をはいってくる納豆売りと蜆売り、豆腐屋とすれちがう。


 「あさァり、むっきん、蛤むっきん」とむき身売り。

 「菜漬、なら漬、南蛮漬、なづけはようござァい」と漬物売りや菜売りがくる。

 これら荷ない売りの食品が、長屋の朝の食卓に乗るらしい。

 ここは大江戸八百八町。


 納豆と蜆に朝寝を起こされたチューキチ、朝飯の支度ができるまでに、朝湯に行く。

 湯から帰ってくると、しじみの味噌汁に漬物で飯を掻っ込んだ。


「忘れないで穏田さまにまわっておくれよ。お届け物があるそうだからね」


「わーってらい、べらんめえ」


 てきとうな江戸弁を吹きつつ、番茶を注いだ椀をすする。

 穏田といえばハロウィンの夜、渋谷で大暴れしたマフユが思い出される。

 あの入り組んだあたりには、かつて忍者が多く暮らしていた。


「さあさあ、食べたらさっさと行っとくれ。働かざる者食うべからず。どこぞの穀潰し高校生でもあるまいし、しっかり稼ぐんだよ! お櫃の蓋が開きやしない」


「空気を壊すようなこと言うんじゃねえ、ちょっとバイトしてるからって偉そうに、このすっとこどっこい!」


 追い出されるように長屋から飛び出るチューキチ。

 大工の仕事は五つ(午前8時)にはじまり、四つ(午前10時)に休憩、九つ(正午)に昼飯の弁当をつかい、九つ半(午後1時)から仕事を再開、八つ(午後2時)に休憩、暮れ六つ(午後6時)で一日を終える。

 江戸時代は不定時法なので、季節によって労働時間は変わるが、おおむね「明るいうちは働く」ものだ。暗くなってからも油を使って働く者はいるが、たいてい油のほうが高いからと火を落とす。

 本日はちょいと出まわりがあるから遅れると、棟梁には伝えてあった。


 一方、亭主を仕事に送り出し、まだ寺子屋に行かせる子どもができないことを悩みつつ、女房おサヤは「井戸端へ人の噂を汲みに行」く。

 共同の水まわりで、食後の片づけや洗濯。そのころには魚売り、豆腐屋、金時売り、金山寺売り、野菜売り、油売り、塩売り、古物の商いなど、長屋の路地にはさまざまな行商人が行き交う。


 路地を出まわったところ、針仕事のお届け物を大名屋敷まで。

 ちょいと顔を上げると、豪勢に髪を盛った山の手のご婦人。

 大名行列ではないので、町人も端へ寄って頭を下げたりはしない。

 若干遠慮がちに距離はおくが、武家であふれている江戸の日常において、いちいち頭を下げることはない。


「おや、おサヤさん。ごきげんよう」


 上層の武家娘が町人に気さくに声をかけることもあまりないが、どうやら知った顔、それも縫物の手間賃仕事を頼んだ、ごく気の置けない関係だ。


「ちょうどお届けに上がるところだった、ざますよ。おヒナお嬢さま」


 ざっかけない態度を注意されていたおサヤの、わざとらしい敬語。


「ほほほ、無理して山の手言葉など使わずともよろしい。まあ、よく仕上がっておりますこと。……ところで、最近いかが?」


 にょ、と笑うおサヤ。

 察する女子力の高い町娘ならではの、いやらしい笑いだ。


「棟梁ざんすね。ちゃんと頼んであそばします。近いうち、おヒナさまの神棚を修理しに参るでござ候、という手紙が、こちら、お届けするざんす」


 懐からついでのように取り出した手紙には、宮大工・東郷某より、何月何日、神棚修復参る由、書き届けられている。

 日本の識字率は比較的高く、世界でも有数だったといわれている。農村などは別として、江戸では町人に至るまで、すくなくともかな文字くらいは読めたと考えられる。

 それを受け取り、目を細めるおヒナさま。


「……そうですか。師は甚五郎以来の名工と噂の手練。わが南小路家の神棚も、師の修復で一層輝きを増すざましょう」


「にょほほ。その後、しっぽりと濡れる街角であそばすざますね」


「あなたがなにをおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんわ。それでは、ごきげんよう」


 つんと首を振って歩み去るおヒナさま。

 井戸端会議のネタを拾ったおサヤは、にょほほと笑いながら去った。




 江戸。

 それは「入り江」の「戸口」であった場所。

 一面の原野に、12世紀、はじめて名のある関東武士が館を築いた。

 それから太田道灌が城を築くまでに300年。

 さらに百数十年後、徳川家康が入城する。


 銀座から新橋は、ほとんどが沖積層で占められている。

 新しくできた土地、ということだ。

 できた、というよりも、つくられた土地、といっていい。

 しけた漁村にすぎなかった半島「江戸前」を、おそるべき帝都の入り口に変えたのは、徳川家康だった。


 江戸前島沖の埋め立てが開始される。

 そこで漁業をしていた人々への補償として、彼らにはその土地の一部が与えられた。江戸幕府は、そこに大きな職人と商人のネットワークをつくった。

 銀を吹いて加工する職人の組合「銀座」が、いまの地名にも残っている。


 人口が足りない。家康は各地から人を集めた。

 京都からやってきて、埋め立て地に住み始めた銀座者が、奇抜なファッションで耳目を集めた。

 元禄のころ、質のわるい銀貨を鋳造して、ぼろ儲けした金を、湯水のように浪費した。

 銀座の客が一番だ。

 吉原ばかりでなく各地の岡場所で、銀座者はもてはやされた。


「うぇーい! さあ飲め、歌え、金ならやるぞ!」


 金銀をばらまく、派手な衣装の浪人者らしき男。

 いや、女だ。

 チューキチは目を細め、気づかぬフリで道を曲がろうとしたその側頭部に、直撃する下駄。


「ぐはっ!」


「あたしを見て逃げるとは、ふてえ野郎だ。そっ首ハネてくれる」


「やめんか! ……昼間から酔っぱらって、いい御身分ですな、北内の旦那」


 ふてて地面に座り込み、旦那を見上げるチューキチ。


「ふん。無礼を打ち果たしたいところだが、おサヤに免じて勘弁してやろう。元気か、あの町娘は」


 切りかけた鯉口をもどす女浪人。


「おかげさんで。──てか穏田に隠れてなくていいのかよ、おまえ忍者だろ、役どころ」


 一応、声を潜める。


「冷めるようなこと言うんじゃねえよ。いいか、この浪人も世を忍ぶ仮の姿なんだ。知っとけ、岡っ引きだろ──てめえ!」


 最後だけ語気を強め、チューキチを蹴り飛ばすマフユの旦那。


「石川島の真砂は尽きるとも、世に極道の種は尽きまじか。……寄せ場からの手紙、たしかにわたしましたよ」


「おう、ごくろう。穏田には行かんでええでん」


「……用は済んだからね、行きませんよ!」


 語気を荒げ、踵を返すチューキチ。

 ──石川島の人足寄せ場は、当時社会問題となっていた無宿人対策の一環として運営されていた。

 そこは江戸に流入した無宿人などを強制収容し、手に職をつけさせる留置所兼授産所であった。

 明治以降、巣鴨に移転するまで、罪人の懲役場として運営された時期もある。


 まさに、マフユがアクセスするのに最適の場所だ。

 体制転覆をはかろうとするなら、とりあえず石川島を暴動の火種として使うのは、わるくない選択だろう。

 ちなみに幕末、この島の北部に水戸藩が造船所をつくったことから、石川島播磨が誕生する。


 マフユが、どこの手の者かは重要だ。

 忍者には、さまざまな流派があり、有名なのは伊賀者と甲賀者であろう。

 その他、伊達政宗の使った黒脛巾組、北条氏の風魔党、上杉謙信の軒猿、武田信玄の三つ者、真田一族の草の者、毛利の鉢屋衆、薩摩の山潜り、などがある。

 体制側も多くの忍者を有したが、反体制側もそれに負けず多くの「情報収集要員」を使っていた。


「なかなかセンスのある舞台設定だな。インテリの夢にちがいないぞ」


 内心北叟笑みながら、神田上水の溜まり井戸の横を駆け抜けるチューキチ。

 この夢に放り込まれて以来、だいぶ自身と世界の来歴が判明してきている。

 ──文化文政のころ、伝説の岡っ引きとして名の知れた、石川島の中谷大親分の隠し子として生誕。

 神田三河町の小間物問屋に預かりとなり、幼少期を過ごす。

 大工仕事の傍ら、問屋からの発注を受け、銀座の小間物職人、今戸の狐職人などに仕事を割り振る。

 足りない分は町娘のおサヤが内職をしてやっつける。

 やがて、その町娘と結婚し、一男一女をもうける──のは先の話。

 宮大工のリョージ親分、若隠居学者のケート先生などと通じながら、江戸の八百八町を生きている──。


 一度通り過ぎてから、造作のりっぱな門前に引き返す。

 柱の質は一等なのに、妙な飾りつけが台無しにしている建屋だ。


「毎度! エレキテルとかいう、ハイカラなもんが入荷したんだって、若先生」


 大工仕事を忘れたように、声をかけるチューキチ。


「なにがハイカラだ、ミーハーめ。時代考証はともかく、まあ見ていけ、ぼんくら」


 平賀源内然として、ケートが部屋の奥を指す。

 盆が暗い、ぼんくらチューヤは、へいへいと手もみしながら、暗がりの奥へと足を踏み入れた瞬間、感電した。

 び、び、び、とマンガのように骨格をさらすチューキチ。


「ひいぃい」


「はいるときは足元の線に気をつけろ。ハイボルテージでチャージしているからな」


「理屈はともかく、早く言え!」


 謎の和算をしていたケートは、不意に立ち上がるとチューキチを顧みて言った。


「で、ついに女房を売る決心がついたのか」


「売らねえよ! おまえこそ陰間茶屋に売り飛ばすぞ」


「アキバの裏なら常連だよ」


 ぞっとするようなことを言いつつ、ケートはぷかりとキセルをふかした。

 当時の秋葉原には、のちの銀座へと受け継がれる男色喫茶の原型があった。


「おい未成年」


「元服はした。それにこれはタバコではない。そこなエレキテルにより電気的に加熱された蒸気だ」


 基本原理は1965年、アメリカ人によって考案された無煙非タバコ喫煙具が特許付与されている。


「時代の空気を読まないやつめ」


「丹念な時代考証は岡本綺堂に任せておけ。……で、さっさと言えよ、用件を。拙者はこれでも忙しいのだ」


「どうせまたろくでもない……いや、そうだな。じつは」


 声を潜め、手短に用件を述べる。

 黙って聞いていたケートは、しばらく無表情で蒸気を吹いていたが、やがて眉根を寄せると、ポンとキセルを置いた。


「蛇の巣には貴様が行け。権現のほうには拙者が参る」


「人足寄場には危険がいっぱいなんだぞ。できれば武器をお借りしたい」


「最初からそれが狙いか。……これを使え」


「だれが孫の手を貸してくれと言った」


「先端の金属を見て、手元の引き具をひねってみろ」


 直後、ピカッ! と鋭い光を直視し、チューヤはその場でのたうちまわった。


「うわぁあぁ! 目が、目がァア!」


「だから先端は見るなと言ったろ」


「見ろと言ったわ!」


「敵に見せろという意味だ。バカなやつめ」


 ケートは何事か考えながら、奥に呼びかけた。

 おう、と出てくる巨漢。目を細めるチューキチ。


「なんだい、リョージ親分。あんたも昼間からこんなところで、いい御身分だねえ」


「チューキチ、おめえがそれを言うかよ。言っとくが、権現でネタ仕入れてきたのはオレだぜ」


「親分はモテっかんねえ。吉原権現も、そりゃあ大事にしてくれようさ」


 吉原。

 遊女三千人の地獄極楽。

 当初は江戸の中心・人形町あたりにあったが、火災を起こし、現在の南千住のほうへと移された。時代的には、この新吉原のことだろう。


「……キミたち、この世界になじむのはいいが、そろそろ目を覚ます算段を立てようじゃないか」


 きょとん、とした顔でケートを見つめる、江戸化著しい男子二名。

 目を覚ますという大義名分を振りかざされると、八百八町の観光もおぼつかない。

 せめて吉原くらい行かせてくれよ、という顔のチューキチをじっと見つめ、その手から孫の手をひったくると、ケートは言った。


「この先端を見ろ。わるいようにはしない」


「やだよ! ピカッて光るじゃないか、2度も食らったら目がつぶれるわ!」


「それだ。2度で覚めるのだ」


 顔を見合わせる一同。

 まじめに考え込むリョージに、不安がいやますチューヤ。


「……なんで俺だよ!? おかしいだろ!」


「論理的に考えれば、そうならざるを得ない。──これは()()()()だからな」


「え、なんで、どういうこと!? どうしてケートがこんな夢を……」


「キミたちの好きな遊女三千人の地獄に、ちょっと用があってな。いずれキミにも付き合ってもらうが……南千住には、いろいろあるんだよ」


 ぞくり、とチューヤの背中に走る悪寒。

 たしかに南千住界隈には、例の場所を含めて、いろいろありすぎるくらいある。


「前回はサアヤの夢だったよな?」


 リョージの問いに、


「今回はボクの夢。このことにも、たぶん意味はあるんだろうさ。知ったことじゃないが」


「知ったことだよ! どういうこと? やめて、目はやめて!」


「論理的に考えて、やはりキミがキーパーソンなのだ」


「なんで!? ねえ、おかしいよね、それ」


「いいから食らえ。リョージ、しっかり押さえておけよ」


 いつのまにか壁のような巨漢が、背後からチューヤを捕まえ、羽交い絞めにした。

 いかにチューヤをもってしても、本家リョージの技を抜けることはむずかしい。


「や、やめろー、ショッカー、ぶっとばすぞうー」


 涙目で叫ぶチューヤ。


「そうだ、もっと開け」


 ちょっと楽しそうなケート。


「観念しろ、チューキチ」


「よし、これでも食らえ!」


 ピカッ!


 鋭い光でつぶされる、チューヤの目。

 とどろく悲鳴。

 まわる世界──。



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