52 : Day -39 : Haneda Airport Terminal 3
懐かしい気がするが、文字通り気のせいだろう。
リョージは、いま高級ラウンジの片隅に、居心地悪そうに座っている自分自身の姿を思い出す。
窓の外を見ると、8万年まえも現在も、ほとんど変わらない海がある……かのようにも思われるが、当然、世界はあまりにも変わった。
人類が、どれだけこの「地球の形」を変えたのか。
顧みるまでもない。
「どうしたね、リョージくん」
その声に、リョージはゆっくりとふりかえった。
「ルイさん」
ルイは、表情にわずかな驚きをにじませ、リョージを見つめる。
「ほんとうに似ているな、きみは」
「動物園のサルに、ですか」
言いえて妙だ、と返しかけて自重する。
「私が見た、もっとも古いヒトに、だ」
リョージは真正面からルイを見つめ、問い返す。
「もっとも、古い、ヒト……?」
人類は約25万年まえ、アフリカで誕生したとされているが、もちろんリョージは、そういう意味ではないことを知っている。
科学的事実うんぬんではない。
すくなくとも彼らが俎上に載せている「ヒト」は、アフリカのヒトのことではないのだ。
「そうだ、あれはいまから、だいたい7万1820年ほどまえのこと……いや、7万1810年まえかもしれない。待てよ、もう7万1815年は経つか……」
「どっちでもいいっすよ。……7万? ああ、徐々に出来上がっていったヒトの男女が、ついに和合完成した瞬間ですね」
「そう。そのころ、ヒトの流れはいくつかあったが、重要なのはアフリカから海岸沿いにインドあたりまでたどり着いていた女を中心とした流れと、絶滅しかけて樺太から引き返してきた男を中心とした流れだ」
成績は良くないリョージだが、実体験に即して与えられた学びについては、それなりに血肉になっている。
「オレもそうだろうなと信じてますけど、学問的にどうかって疑問はあるみたいですね。お嬢が言ってました」
原人や旧人のレベルでは、とっくにユーラシアに広く拡散していたが、新人が早期にアフリカを出た証拠は非常に少ない。
ミトコンドリアDNAの多様化の過程をみると、かなり最近までアフリカのなかだけで暮らしていたことが推測される。
だが、25万年まえに出現して7万年まえまで、一度もアフリカを出なかったわけではない。
「何度もトライはしたのだ。東奔西走して、いくつもの小集団が絶滅をくりかえした。きみは分岐点に立ち、新たな道を切り開いて生き残った。そういう人間が、歴史をつくる。私にはよくわかる」
この言いまわしの深い意味がリョージに伝わるのは、もうすこし先の話になるだろう。
ヒナノも指摘していたが、この最終進化理論の最大の問題は、「最初のヒトが黒人ではなかった」ことだ。
皮膚の色はかなり浅黒かったであろうし、黒人に近い部分もまだ多く残っていたはずだが、あきらかに「黒人」とは呼べない変異を遂げていた。
DNA地図によれば、7万~8万年まえあたりで、ヨーロッパ人とアジア人の分岐が起こっている。
たしかにリョージの顔を見ると、日本人でもおかしくはないが、昔のローマにいてもさほど不自然ではないような、濃いところがある。
ヨーロッパ人種とアジア人種が分岐する中間の位置にいた、と言われると妙に説得力がある。
もちろん、1万人程度まで減った人類は、再拡散の過程でアフリカにも相当量の遺伝子をもどしている。
アフリカという故郷の人々と混ざって、黒人の長い歴史的DNAに多様性を積み増した流れ。
ネアンデルタール人らと混ざりながら、その先でヨーロッパ人になった流れ。
アジア人となって、再び東を目指した流れ。
「オレたちの祖先のこと、よく知ってるみたいですね。ルイさん……あなた、原初神なんですか」
一瞬、空間が凍りつくように静止した。
それからルイは、すぐに表情を緩め、あっさりとうなずいた。
「安心したまえ。私は、人類が増える側に賭けているのだ。……そうですね、先生」
ルイの目線が、リョージの横、通路の先へと流れた。
同じ方向に目を向けるリョージ。
そこには欧陽先生──太上老君が立っていた。
三人は同じテーブルを囲み、飲み物を傾けた。
紅茶、緑茶、ウーロン茶。
象徴的に対比されていて、おもしろい。
「わざわざ空港まで見送りに来ていただけるとは、恐縮ですね、先生」
「なに、大切な旧友の門出、見送らないわけにはいくまいよ。──きみには、私が本土の雑務を片づけている間、だいぶ世話になった。こんどは私が、きみの仕事を見守ろう」
欧陽氏は言いながら、ちらりとリョージを見やった。
その意味は、ここ数週間、中国本土での仕事が立て込んでいて、リョージのことをルイに任せてしまっていた件だった。
だいぶまえのことのように思われるが、まだ3週間もたってはいない。
神学機構の図書館において、ケート、マフユ、ヒナノ、リョージのバックボーンが集まったことがあった。
ケートはクリス(クリシュナ)、マフユはロキ、ヒナノはガブリエルが後見人として姿を見せたが、リョージのバックとして顔を出すのは本来、太上老君であるべきだ。
しかし、代わって顔を出したのがルシファーだった。
太上老君にも、もちろん多数の有能な部下がいるが、あえてリョージのことを任せたのがルシファーだった。
この意味するところは、決して小さくない。
「アメリカで仕事なんですよね。がんばってください」
バイトをしている店によくくる、ただの常連客という印象が強いリョージにとって、彼がアメリカに行くからといって見送りにくるほどの関係性だとは思えない。
もちろん尊敬する欧陽先生の親友でもあるらしいから、それなりの敬意は持っているし、いろいろ世話になったらしいことも聞いている。
だがリョージにとって喫緊、気になってしかたないのは、原初神という謎の神格について掘り下げた話だ。
いろいろ情報を聞き出して、部活のみんなと共有もしたい。
が、長期の別れを惜しんでいる、尊敬すべき人物らの会話に、下手に割り込むのは気が引ける。
「そう、アメリカだ。私にとっては縁が深い土地でね──北アメリカ大陸は」
北アメリカプレート、という言葉がふっと浮かんだ。
親切心を出したらしいルイが漏らした「原初」の話に、しかし欧陽氏は乗らなかった。
「あの国には、問題も多い。私の口から言えることではないが」
ルイは欧陽氏に視線をもどし、
「いや、あなたはあなたの大陸に対して、じゅうぶんな責任を果たしていますよ。私も負けてはいられません。あのすばらしい大国に、若干の影響を与えてきます」
リョージには、彼らがなんの話をしているのか、まったく読めなかった。
だが、このやりとりが、きわめて重要な直近の過去と未来を暗示している、と気づく日はそう遠くない。
彼らがその出身母体とする集団、中国やアメリカに対して、どのような態度で臨もうとしているかは、これからの展開を大きく左右する。
欧陽氏は短く嘆息し、母国の言葉で言った。
「勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣」
君子は、たとえ勝利しても、それを良としない。もし良とするならば、それは殺人を楽しんでいることになる。殺人を楽しみにする人は、天下に志を遂げることはできない。
──戦争は、どうしても大勢の人を殺すことになる。ゆえに悲哀の気持ちでそれに向かい、葬儀の作法で粛々と終えるべきである。
直近の歴史で、もっともそれをしていない国が、アメリカだ。
戦勝国の態度をみれば、よくわかる。
アメリカは正しかった、敗戦国の人民を殺しまくって勝利した、すばらしい。自国の犠牲を最小限にした。すばらしい。
しかし『老子』(31章)は言う。
まともな人間なら、軍隊はきらいだ。そのような不吉なものは、たとえ使うにしても、あっさりと使って顧みないのがよい。
もし、世界の人口動態に、アメリカが不愉快な影響を与える選択を、これからもつづけようとするならば……。
欧陽氏が大陸でやってきたことよりも、もっと激しい「反応」を、ルイはアメリカで引き起こそうとしている可能性がある。
リョージが、どんなふうに質問しようか頭を悩ませているうちに、搭乗案内が流れた。
ごく自然に立ち上がるルイ、つづいて欧陽氏。
あわててリョージも立ち上がる。
「では、行ってまいります。欧陽先生」
「成功を祈っているよ。再見」
「あ、あの、行ってらっしゃい」
軽く手を振り、踵を返すルイ。
北アメリカ大陸で、彼はどのような原初の責務を果たすのか──。
高空に舞うジェット旅客機を見上げ、つぶやく声。
「ルシファー」
うっすらと笑うマヤの神が、重なる細い身体。
「あれが」
マフユは、静かに見つめる。
黒い人影が、マフユの斜め後方にいる。
「おもしろいことになってきやがったな、なあ、マフユ」
「ロキ兄……」
ふりかえるマフユに表情はない。
彼女はあまり考えることをしない。その必要がないし、考えたところで正解などわからない。
──あのクソチビなら、考えて答えを出そうとするのかもしれないが。
「まさか、こんな形でゲームを引き継ぐことになるとはな」
「ゲーム」
「われわれの直系の祖先だよ。人類の最初期を支えた1万人から、人と神々は拡散を開始した。ルシファーも含めて、われわれは、われわれを信じる、おまえたち人類の歴史に寄り添って存在した。──シュメールが携えていた文明も、マヤの精密な天文学も、われわれがともに生み出し、歴史をその先へとつなげていこうとする努力だ」
マフユは理解しようともしていない。
彼女にとって、「過去」などどうでもいいからだ。
彼女が見たいのは、ただ人類がすっきりと滅びた「未来」だけ──。
「あたしはどうでもいい。ロキ兄がやりたいこと、やってくれよ。手伝うから」
ロキは青ざめたような唇をゆがめ、いつにも増して猛毒の言葉を吐く。
「ああ、手伝ってもらうぜ。おまえの命、きっちりと使い倒してやる。──まあ、まだもうすこし余裕はある。あと2~3週間は好きにしな。暇なら、小さい仕事はいくつか手伝ってくれてもいいけどよ」
しゅるり、とマフユの頬を羽毛のような感覚がこすっていった。
カワサキのケツァル。
なぜかマフユの脳裏に、かつての自分のあだ名がよぎった。
「……見たことあんな、こいつ。原始時代によ」
つぶやくマフユの追いかける視線の先には、たいてい闇堕ちした影がのたうっている。
強力な悪魔たちの影。
そのうちのひとつには、たしかに「原初神」の風格が漂っていた。
「神が人類をつくり、人類が神を育てた。……そういうことさ、なあ、渋谷の蛇神さん」
ロキの言葉に応じる声は、マフユの首の後ろから聞こえた。
「それほど大きなことを言うつもりはない。私は子孫に対して、あまり過大な主張をするつもりはない。どこかの唯一絶対を自称するものとちがってな」
「いまいましいやつだ──たしかに、あんたの気持ちはよくわかる」
深い笑みを刻むロキ。
あふれ出そうとする憎悪と怨嗟の濁流を、コップの端ぎりぎりで押しとどめている緊張感を、心から楽しんでいる。
「われわれは、古代マヤの遺跡を築こうとする人類に、すこしばかりの知恵を与えた。おまえたちがオルメカと呼ぶ時代のすこしまえ、彼らが起点にする年代について、ほんのすこしばかりの知恵を。──ルシファーもよくおぼえていたな、7万1815年もまえのことを」
尊敬すべき原初神たちの記憶を、掌の上に乗せて転がせるほどのトリックスターは、世界広しといえどもロキくらいだろう。
彼は慎重に、そこにある「因縁」の苗に養分を注ぐ。
「すばらしい遺跡だ。偉大なる文明、マヤの長期暦。あのすばらしい文明を、根絶やしにしようとした連中がいましたね」
原初神に敬意を払うかのごとき語調を装うロキ。
どんな憎悪を煽ろうとしているのか透けて見えても、原初神はあえて乗ろうと決めた。
──マヤの記録、人類の記憶。
神と悪魔は、ときおり人類に取り憑いて、その背中を、そっと押し出してやることがある。
結果、一部の人類が天才となり、神の代理となり、あるいは預言者となって、その背後にある神意を体して偉大な業績を残す。
そうして神と悪魔は、人類そのものに寄り添い、進歩を見守り、かかわりつづけてきた。
彼らの魂を、より美味に育て上げ、それを手に入れるために。
あるいは、その過ちをも最大限に味わい尽くすために。




