51 : Day -39 : Gokokuji
背後からの物音に、ガブリエルは椅子に座ったまま、ゆっくりとふりかえった。
「参られたか。罪の作り手たちよ」
美しいフランス語に、
「そのような態度は、ご自身のためになりませんぞ、ガブリエル殿」
年ふりたイタリア語が返される。
──やってきたのは、3名の異端審問官たち。
その表情を一様に曇らせている。
護国寺の近くに、威容を誇る巨大な聖堂がある。
神学機構の拠点、極東カテドラル聖教会だ。
その7階に、慇懃に、しかし無礼にも軟禁されているのが、ガブリエルだった。
かつてはヒナノの教育係としてかかわったが、現在はその任を自動的に停止され、こうして文京区の片隅で無為な時間を過ごしている。
「われわれに、このような茶番を演じている余裕があるとお思いか? あなた方は……シスマをお望みなのか。この期に及んでの大シスマは、己が手足を食うようなもの」
相手の多国籍ぶりを判断し、英語に切り替えるガブリエル。
その言葉に、老人たちの身体がピクリと揺れる。
彼女は、これを「神学機構の内部問題」に集約しようとしている。
──東西のシスマ(分裂)は、484年以来、何度もくりかえされた。
決定的だったのが1054年のシスマだ。
カトリックにかぎっては1378~1417年の「大シスマ」が有名だが、このときはローマとアヴィニョンに、それぞれ教皇が立った。
日本の南北朝と考えれば、構図としては似ている。
「教会史上、大シスマと呼ばれる分裂は存在しません」
中央の司祭が、イタリア語訛りで言った。
「ほう。歴史の教科書には、東西の分裂について書いてありますが」
ガブリエルの反論に、
「内紛という言葉は不快な響きですが、あくまでも形式的な話です」
左の司祭が、ドイツ語訛りで応じる。
──フンベルトゥスとケルラリオスが互いに破門し合ったとはいえ、それは当時、両陣営に属した「個人」を対象としたものであり、教会そのものや市民を排斥しているわけではない。
むしろコンスタンティノポリスを「非常にキリスト教的である」と称えたり、ローマ市民に敬意を表することは、やぶさかではなかった。
大分裂とは言い条、分裂しているのは一部の上層部のみであって、互いに市民まで敵にまわすつもりは皆無なのだ。
「形式的にはそうでも、結果論では分裂しているわけでしょう」
やれやれと肩をすくめるガブリエル。
当事者でさえも気づかぬうちに進行するのが、分裂という事象だ。
──宗教とは、つねに分裂する。
なぜか? 究極的には、もちろん利権だ。
シスマは、互いを非難する。
負けたほうが異端であり、たたきのめされ、殺される。
異端審問の本質をさかのぼれば、教会の本質的カルマに到達する。
「いや、これはあなた自身の問題ですぞ。カルケドン信条によれば……」
いちばん老齢らしい中央の老人が、問題の争点を引きもどそうと試みる。
「私が罪を犯した、白状しろと? キリストは犯した罪を理由に処されたとお思いか?」
あえて乗るガブリエル。
──カルケドン信条によれば、キリストは「神性では父と同質であり、人性ではわれわれと同質である」という。ふたつの本性を持つわけだ。
この点、純粋に聖なる存在である「父」や「聖霊」とは、一線を画する。
人間として罪を犯したゆえ、それを裁かれてもやむをえない。
いや、よもやみずからをキリストに比することのほうが罪深い。
さまざまな議論に発展しうる、難解な言いまわしの応酬だった。
「あなた方ですら、すでに分裂している」
ガブリエルは凄烈な視線で、司祭たちをねめつける。
「なんと恐ろしいことを。たしかに、あなたには問題が多いようだ」
右手のロシア語訛りは東方正教会、
「われわれは、ただ静かに信仰を深めたいだけ」
左手のドイツ語訛りはプロテスタント、
「さよう。すべてはあなたの問題であり、そして、あなたのためなのです」
中央のイタリア語訛りが、カトリックの総本山からやってきた。
──相手の正体を看破しつつ、考えるガブリエル。
これまでの手ごたえからして、あまり緊急性は感じない。
毒にも薬にもならないような、中途半端な異端審問官が選ばれている。
上層部も、まだこの件をどう取り扱っていいか、判断に迷っている部分が大きいのだろう。
「私のため? これはしたり。ここは、あなたの場所と存じるが。もっとも積極的に言葉をいじりまわし、文法的に罪と罰を決定することに積極的な、あなたの」
強烈な個性を筆頭として、シスマは引き起こされる。
その意味では、彼女は早いうちに摘んでしまったほうがよかった芽が、いまさら排除不可能な癌細胞に育ったものか、あるいは──。
調べなければならない、という決意で、中央の老人が一歩を踏み出す。
「かつて高貴だったルシファーのように、魂を明けわたしたとみられる」
あえて用いる鋭い言辞。
「だとして、それは罪なのか? それとも罰なのか? 神の救いを求めるよう駆り立てる狂気は、罪か罰か?」
福音を説くべく地上に遣わされた神の子ですら、磔刑に処されている。
天使が悪魔の手に落ちるなど、日常茶飯事だ。
「不服従の行為と受け取りますぞ」
右手の司祭が指さす。
「あなたの仕事をなさるがよい、ド・ランクル殿」
冷たく言い放つガブリエル。
異端審問官の表情が、極度に緊張した。
──ド・ランクルは17世紀フランスの有名な弁護士兼悪魔学者で、600余人の魔女を死に追いやったとされている。
「口を慎みなさい、いくらあなたが」
左手の司祭に対しては、
「おや、本日は検事局のお仕事は? いらっしゃい、ニコラ・レミ殿」
ロレーヌ地方の高等裁判所検事ニコラ・レミは、900人を火あぶりにしたと自慢する『悪魔崇拝』の著者である。
ガブリエルの態度は、あきらかに硬質すぎる。
「神も照覧を。あなたの態度は、無数の目によって裁かれるでしょう。そう、すべての目によってです」
匙を投げたように、中央の司祭は言った。
ガブリエルから表情が消える。
──無数の目。
神学機構内に巣くう蛇たち……無数の「派閥」が譴責を求めている、と言いたいらしい。
低級で俗悪な人間が陥りやすいレトリックだ。
「ダメだよ、みんな言ってるよ」──それはみんなの意見(だから自分は責任を取らないよ、恨まないでね)。
キリスト教の歴史は、近世においてはカトリックとプロテスタントという二大派閥の戦いがクローズアップされるが、歴史的には東方正教会が、いわゆる西方教会に対峙する状況だった。
あらゆる神学論争は、ローマとコンスタンティノポリスのあいだで行なわれた、といっても過言ではない(もちろんエルサレムやアレクサンドリアなども重要だが)。
両者が明確にわかれた時期には諸説あるが、おおむね5世紀前後と考えられる。
そこからプロテスタントが産み落とされるまでの約1000年、キリストの知らぬ場所で、人と神の派閥がしのぎを削っていた。
いや、そもそもキリストからして、母体となったユダヤ教からの分裂なのだ──。
「それほどまで、ご覧になりたいのですか、すべての目によって」
応じるガブリエルの口元には、笑みさえも浮かぶ。
部屋の中央に進んだ右手の司祭が、テーブルに置いたのは、一着のサンベニート。
異端者が着せられる服で、たいまつと清めのロザリオが添えられている。
中世の宗教生活が生み出した異端審問は、その伝統にのっとって、罪人を裁きにかける。
「あなたの選んだ道だ。これに着替え──」
「なによりも先に、悪魔の烙印を探したいのでしょう、あなた方の目は。よろしい、ごらんなさい」
挑戦的に言い、ガブリエルは立ち上がった。
するり、とその肩から衣服が落ちる。
敬虔な司祭は一瞬、目を背けるふりをする。
──スティグマータ・ホリ。
魔女と通じた悪魔は、その爪を押しつけて印をつけ、傷ついたそこから流れた血をもって、契約の証とする。
あるいは魔女は、使い魔を養うために、副乳やイボのようなものを持つという。
中世、街中で裸に剥かれた犠牲者の多くが処刑されたことから考えて、身体からイボなりホクロなりを発見するのは、それほどむずかしいことではなかったのだろう。
だが、彼女の体のどこにも、一片の瑕疵すらも見つけられはしない──。
「美しい……」
思わず嘆息が漏れるほど、ガブリエルの肉体に一片すら、消し炭ほどの汚れもない。
神が完璧な美というものを形作られたとすれば、それこそが、ここにある。
「さあ、見つけてごらんなさい。悪魔の烙印を」
強力な力場が形成されている。
このままでは、大天使「ガブリエル」が降臨する。
一同が法悦と同時に恐懼をおぼえ、ガタガタと震えはじめた、そのとき。
「服を着ろ、ガブリエル。きみは美しい、それは認めよう」
ドアのほうからの声に、一同の視線が集まる。
「……ミカエル」
「中途半端な審問はやめておけと言っただろう。行け」
そこには、スーツ姿の長身の男がひとり。
北欧系らしい顔立ちに、鋭い視線が象徴的な30代前半の男。
逃げ出すように老人たちが部屋から出て行くのと入れ替わり、室内にはいって、持ってきた服をテーブルに置く。
召喚しかけた大天使の力をもてあますガブリエルは、
「恩に着せるつもりではないでしょうね、ミカエル」
「いいから服を着ろ。なんでフランス人ってのは、すぐに脱ぎたがるんだ?」
肩をすくめ、背を向けるミカエル。
しかたなく、新しい服を手に取るガブリエル。
「北欧人こそ、性的に放埓なところがありますよ」
「裸同然で踊るラテンの血に言われてもな」
「抑圧されたイタリアの司祭が脱がせたがった結果です」
「……怒られるぞ、きみがいくらガブリエルとはいえ」
言葉のうえでは注意しているが、漏れる笑みは隠しきれていない。
いい年をした権力者が、エロサイト閲覧履歴をバラされたのに近い。
「すでに蒙昧な譴責の結果として、ここにいる」
「それは私のせいではないが」
ミカエルがガブリエルに背を向けている間に、彼女は服を着た。
北欧系の質素だが肌触りのいい高品質なワンピースは、するりと一瞬で着替えられる。
彼は最初から、こうなることを見越していたのだろう。
ミカエルはテーブルの上の書類を見ながら、
「仕事がはかどっているようで、けっこうじゃないか、ギャビー」
すべての罪人が労働を強制されるわけではないが、彼女は罪人ではなく、いぜんとして推定無罪の未決囚だ。
そこが牢獄だろうが自宅だろうが、証拠隠滅の恐れがないかぎり、現世で抱える仕事を持ち込んで進める権利は、いくらでもある。
「これでも翻訳家が本業なのでね。あなたこそ、聯合国のお仕事は順調? ミッヒ」
聯合国は、ユナイテッド・ネイションズのことだ。
かの枢軸国に対して戦い、完全勝利を収めた「聯合国」である。
日本はこの同じ言葉を、戦後、国際連盟を連想させる「国連」という略語に捻じ曲げて、統合した。
当時の国民感情を背景にした苦肉の策と言えるが、正確には、枢軸国は負けたので聯合国に入れてください、という形になる。
「きみは、いつから日本人になったのかね?」
「オランダ系なので敵国条項にはあてはまらないけれど、どちらかといえば枢軸国のほうに思い入れが強いことは事実ね」
ガブリエルは机に浅く腰掛け、腕組みしてミカエルを見つめる。
彼がこの場に姿を現したことには、当然に理由があるはずだ。
くだらない前置きで時間をつぶすつもりはない。
しかつめらしい表情で、ミカエルは単刀直入に言った。
「──どうやら、携挙歪曲の図面が描けてきた」
「まだ私から情報を絞り出してはいないはずだけど? ──ああ、これからあなたが話す内容を、私から聞き出したことにしたいの?」
「皮肉はいらないよ、ガブリエル。きみにも興味はあるはずだ」
見つめ合うミカエルとガブリエル。
北欧と南欧の中間に、隙間風が渦を巻いている。
「ないわね。携挙システムは星天使の仕事のはず。私たちの本来の使命とは異なる。……もっとも私は、さしあたり本来の使命にすら必要とはされていないようだけど」
「……神の子の話なら、すでに発見した」
がたり、とガブリエルは腰を浮かせた。
「それは」
「代々木上原にいるようだ」
ガブリエルの表情が目まぐるしく変化する。
ミカエルから伝えられた情報の意味が、さまざまな角度から、神学機構にとっての問題点として浮き彫りにされていく。
「それで、あなたは」
「彼らの取り扱いは、私よりきみのほうが向いている。この点は認めるよ、ジブリール」
複雑な感情が往来する。
ミカエルがガブリエルをどう呼ぶかで、その立ち位置もある程度、明確にされる。
長大な歴史を踏まえたガブリエルという名の天使は、一神教の世界で、ほとんど最上位を占めるといっていい。
なかでもイスラームにとって、預言者マホメットとマブダチに近い関係を築くのが、大天使ジブリールなのだ。
「それで例の携挙もどきは、代々木上原のしわざだったの?」
「……いや、どうやら冤罪だったようだ。巧妙だよ。ソロモンの奸計といっていい」
「ユダヤ?」
眉根を寄せるガブリエル。
ソロモンについての問題を詳述しようとすれば、さらに長い時間が必要だ。
「そのくらい忌まわしい……いや、内部ではないのだ。この国には、仏教系の新興宗教、舎利学館というものがあるらしいな」
「ああ……」
ガブリエルは、ふっと気が抜けたような、どこか馬鹿にした笑みを浮かべて、テーブルのうえに腰をもどした。
舎利学館なら、ガブリエルが対応すべき相手ではない。それこそ星天使の仕事のはずだ。
「くらやみ坂、という象徴的な場所で」
「戦うのは星天使に任せておけばよい。仏教の輪廻に、われわれの魂を奪われるとしたら、それは彼らの責任だ。そんなことより」
ガブリエルの視線が厳しさを増す。
そんなことより、彼らにとってより重要なのは「神の子」のほうだ。
「フィリウスの降臨。たしかに、そちらのほうが重要ではある」
「代々木上原のタマネギ屋根が、彼を奪ったと?」
「わからないが、その可能性はある」
「さっさと確認すればいい。それこそ、私たちの仕事のはずだ」
ミカエルはしばらくガブリエルを見つめ、肩の力を抜いて言った。
「きみの友人たちに相談する方法もある。成功すれば、きみの罪はなかったことになるだろう」
「罪?」
「いや、疑惑にすぎないが。汚点として残らないようにする」
「恩を着せているつもり? 冤罪との二人羽織でも演じましょうか」
「神学機構がどんなところかは、いまさら私から説明するまでもないだろう。きみには、たしかに疑うに足るじゅうぶんな証拠があったのだ。だが、それらをことごとく廃棄し、きみを元通りの地位、職責にもどす準備がある。……あの弁護士も、それが適法だとさ」
一瞬、両者の表情が重なった。
「あの弁護士」に対するスタンスは、ふたりともあまり変わらない。
「醜く膨らんだ悪魔の弁護士か」
「古参は見果てぬ第三の神殿でも探していればよいものを」
アブラハムの宗教ほど、どろどろした根深い問題を抱えたメルティポットはない。
それでも彼らは、それをひとつの組織──神学機構にまとめ上げた。
この一点のみをもって、まさに「神の手」が働いた成果と考えざるを得ない。
──神学機構。
語源はラテン語の「テオルジア・アジェレ」。
直訳すれば「神学的行為」で、六芒星の直線を長さ別に3本だけ残した意匠が、略称の「TA」を意味するトレードマークとなっている。
アジェレはエージェンシーの語源であり、その構成員「エージェント」は、世界のすべての国・地域に常駐している。
一神教国においては小ゆるぎもしない巨大組織であるが、そうではない日本のような無宗教国においても、存在感はきわめて大きい。
そのとき、背後からの気配にふりかえるミカエル。
視線を挙げるガブリエル。ミカエルの横には、彼の愛玩する「神の鈴」である少年、南小路ミツヤス。
そして、その横には。
「マドモワゼル」
ヒナノが複雑な表情で、ガブリエルを見つめていた──。




