45 : Day -39
「死者への冒瀆って言葉、知ってる?」
悲鳴のような声で訴えるチューヤに、
「黙って歩け、カンカンおどらせるぞ」
冷酷に命じるケート。
現状は、あきらかにエキセントリックである。
チューヤが宇多田の死体を担いで部屋を練り歩き、その背後にケートがむずかしい表情でついて行く。
どうみても罰ゲームかなにかのようであるが、現実にはもっと数学的だ。
「ほんとにサアヤたち、同じ部屋にいんの?」
チューヤの問いに、
「いんだよ。現にボクが、こうして話してる」
断言するケート。
彼が、複雑な計算を魔術回路に乗せて走らせると、すぐに室内のホワイトボードに文字が浮かび上がった。
「カンカンおどらせるぞ」とサアヤの字で書いてある。
「カンカンてなんだよ……」
「フレンチカンカンとかいうダンスだってよ。ともかく死体を担いでおどらせると、いろいろ都合のいいことが起こるらしい」
落語『らくだ』によれば、嫌われ者の「らくだ」という男がフグで死んで、その兄貴分という男が、たまたま通りかかったクズ屋と「らくだ」の死体を使い、近所の者から葬式代や香典として金品を巻き上げる、という話だ。
ちなみに、らくだが躍るのはカンカンノウであり、フランスのカンカン踊り(フレンチカンカン)ではない。
期せずして、カンカンノウは文政3年(1820)の難波、フレンチカンカンは1830年ごろのモンパルナスに発祥したと言われており、同じ時期に別の場所で、同じ名前の別の踊りが誕生していたことになる。
「俺はクズ屋かよ……」
「キキという女は、そもそも、その宇多田に惚れて拉致監禁を企んだわけだからな。宇多田のほうが強すぎる霊に取り憑かれていたから返り討ちに遭うような流れになったが、いまや怨霊は打ち払われ、残るは宇多田の死体のみ。利用しない手はあるまい」
「だからそれを冒瀆というんですよ!」
「いいから歩け。おまえが宇多田を動かすほど、隣り合った境界が引き寄せられる」
こちらがサアヤたちの境界に歩み寄るのと同じ距離だけ、キキもサアヤたちの居場所に近づいているのだ、という。
「ケートはなんでも計算しちゃうんですね!」
「それは皮肉のつもりか?」
「いーえー、とんでもない! それで、あと何億光年ほど歩いたら目的地ですかね!?」
「言っておくが、ボクはサアヤが、それはぜひチューヤにやらせてあげてと言うから、苦渋を呑んで任せているだけだぞ」
「きみたち、ほんとにいい性格してますよね!」
もう議論をするのも疲れたとばかり、チューヤは硬直しかけた死体を担いで、ぐるぐると部屋を歩きまわった。
つぎの瞬間、空間からぐいっと腕が伸びてきて、死体の腕をつかんだ。
同時に空間が反転し、混じり合う。
パン、と弾けるような音がして、視界が融合する。
そこにはさっきまでいなかったサアヤとマフユが、さっきからずっといたかのように立ち尽くしている。
旧懐を喜ぶいとまは、しかしなかった。
「まずい、特異点が……っ」
天才ケートをもってしても、まにあわない計算。
反転した空間はそのまま反対方向へと歪みつづけ、ブラックホールのごとき特異点を形成する。
しばしばモデル図で表現されるとおりの、歪んだ空間が無限の底へと落ち込んでいく現象が、引き起こされた。
それは、まっすぐに、深い井戸へと落下する感覚だった。
前後左右の感覚が消失し、ただ重力井戸の底を目指す感覚だけに満たされる。
無限の彼方へ。
堕ちる。
そこは井戸。
深く深く、地の底を目指して掘り抜かれた井戸。
この世のすべてを呑み込むような暗がりのなか、しばらく待つうちに、目が慣れてきた。
空井戸の底。
闇夜の星光、ヒカリゴケ、ヤコウタケ、あるいはウィルオウィスプの微光が、かろうじて人の気配を感じさせる。
「よう、俺。ひさしぶりだな」
井戸の礎石に腰掛けて待っていたのは、自分自身だった。
まるで死んだ自分を見つめるかのように、チューヤは深く吐息した。
「おまえか」
ぼうっ、と浮かび上がった小空間には、いわゆる「あちら側のチューヤ」。
これがドッペルゲンガーなら、死を約束されているところだが。
「ひさしぶりだな。元気そうでなにより」
「ここは……」
「境界の境界だ。おまえと会えるのは、この領域しかない」
「境界の境界? なんだそりゃ」
ふたりのチューヤは、ゆっくりと回転するように歩み寄りながら、互いの近況を理解する。
両者の差異は、さしあたり片方には実体があり、もう片方にはない、ということだ。
「境界ってのは、物理世界であるそちらの世界線と、魔法世界であるこちらの世界線の中間地点だ」
「それは知ってる」
「同時に、この世とあの世にも、生死の境界っていう軸がある。ここは、その両方を兼ねた空間というわけだ」
「生死の境界? じゃ俺は臨死体験中ってわけか?」
だとすれば、あちら側のチューヤに実体がないのもうなずける。
「まあ、当たらずとも遠からずかな。井戸の底ってのは、たいていどこの世界でも、あの世に通じているものさ」
「墓場、病院、井戸の底ってか」
トイレや井戸は、この世とあの世を結ぶ場所だという考えは、古くからあった。
井戸を覗くと異界に引き込まれる、などの言い伝えは、もちろん子どもの転落事故を防止するためという意図もあったが、背景にはあの世の入り口という観念がある。
京都には、あの世と行き来した貴族・小野篁の井戸が、いまも残されている。
人が亡くなった直後、その人の名前を呼ぶ「魂呼ばい」をする風習は、各地にある。屋根に上がって叫ぶ場合もあるが、井戸のなかに向かって叫ぶパターンもある。
番町皿屋敷のお菊さん、リングの貞子も、井戸には因縁が深い。
境界の境界は、あの世とこの世の境目で現れやすい。
歴史的に死者の多い場所、事故現場、怨念の吹き溜まりなど、心霊スポットと呼ばれる場所も、ことさらなりやすいという。
ふと、あちら側のチューヤは、こちら側のチューヤが手にしている剣を見て、うれしそうに笑った。
「おお、さすがだな。ヒノカグツチまで育てたかよ」
「ああ、おまえのくれたクチナワの剣、最終進化だろ?」
「最終かはわからないが、終盤まで使える武器だ。──サアヤも元気そうだな」
「元気すぎて困ってるよ。そっちは」
言いかけるチューヤを遮るように、あちらのチューヤが口を開く。
「頼みがあるんだが」
「なんだよ、あらたまって。他人じゃないんだ、遠慮なく言え」
「いつか、くることになるとは思うが、できれば早めに、こっちの世界へきちゃくれないか」
侵略者の住む世界線。
もちろん可能であれば、こちらから攻め込んで滅ぼしてやりたいと思っている人類は、相当数いるだろう。
「こっちって、そっちか。だけど、それは不可能だって」
「ああ、熱力学第二法則か。たしかに、熱は高いところから低いところへ移る。逆は絶対に起こらない。それはそうだが、マクスウェルの悪魔っていう例外もあるだろ?」
一見、熱力学第二法則に反するように見える悪魔の問題。100年以上解決されなかったが、1980年代に一応、解決した。
このことは、生命にとって深い意味をもつ。
生細胞は、低いエントロピー状態をとらえることができる。
細胞が陽子または電子の動きを測定して、情報を得る必要がある。
ここで量子力学が登場する──。
「さっきのやつか。だけどあれは」
「そう、あれはただの思考実験だ。けど、おまえの親友くらいの天才だったら、なんとかできるんじゃないかと思ってな」
「ケートの秩序に与するのか?」
「そういうことになるのか……いや、別の方法でもいいんだ。とにかく、こっちにきてほしいんだよ」
どこか切羽詰まったような語調。
あちらのチューヤにも、こちらのチューヤに負けないほどの事情があるのだろう。
「なんで?」
「頼みたいことがあるんだ。おまえの持つ、その剣で……」
「ほつれたTシャツの糸でも切るか?」
冗談の通じない男であると信じたくはなかったが、あちらのチューヤは笑わなかった。
「とにかく待ってるから。どうせあと何週間かの話だけど、できるだけ早く」
「あと何週間? ──なあ、教えてくれよ。そっちでは、なにが起こってるんだ? これからどうなるんだ?」
「ただの恨み節だよ。そちらが豊かで、こちらが貧しい。そういう構図を想像してみるだけで、自然にどうなっていくか、わかるだろ」
ある意味、聞き飽きた議論だ。
被害者意識と恨み節だけで生きている、どこぞの民族をほうふつとさせる。
「それだけなのか?」
「いや、ちがうな。呼んだのは、そっちだから」
「またその話かよ……。こっち側の、頭のおかしいやつが、そっち側の世界線を呼び寄せたとか、そういう話だろ?」
「まあ、言ってしまえばそうだが」
「俺たちには関係ないじゃないか。それで、これからどうなるんだよ」
付き合っていられない議論は、早々に脇に置く。
現実主義を貫かなければ、生存する時間そのものが無駄になる。
「侵食が臨界点に達するのが、Day0──12月21日だ。日本時間では19時02分。その日、世界がどうなるかわかる」
「きっちりと終了時間まで決まってるのかよ。てことは、ケートの領域ってことか」
「べつに数学の天才じゃなくても、これくらいの計算はできるんだよ。最初からあった予定表の通り、悪魔たちは侵食を開始した。俺は賛成しなかったが」
「ああ、そりゃ悪魔使いのひとりやふたりが反対したところで、世界の動きなんてどうにもならんわな」
ニシオギのアクマツカイが侵食に反対していた、という話をピクシーから聞いたことが、チューヤの冒険のはじまりだった。
懐かしいものを感じるが、まだまだ終わりは見えない。
「そういうことだ。……そろそろ行く。またどこか、境界の境界で待ってる」
「ああ……てか、どうやって行くんだよ、その境界の境界って」
「いま、いるじゃないか」
「落とされたんだよ! そうだ、思い出した。まず、ここから出る方法を教えてくれないか?」
あちら側のチューヤは、やや疲れた表情で、こちら側のチューヤを見つめた。
「魂の時間から抜けるのと同じだよ」
言いながら、稼働した魔力回路の影響か、周囲の景色が徐々にあきらかになっていく。
──静止した時間。
見まわせば古井戸の底、四隅に三人の姿が見える。
「そういうことじゃなく、この井戸から這い出せばいいのか?」
「ここでは、どうやら蓋は閉じられているようだな。このあたりにはあった古井戸は、おまえたちの側では埋め立てられているようだが、こっちでは半屍体たちが生爪剥がしながら横向きに掘り抜いてくれたおかげで、かなりの広さになっているはずだ。
だから横に移動はできるだろうが、縦に移動するのは、おまえの状態だとむずかしいかもしれないな……」
メタファーに満ちた物言いを残して、薄れていく存在感。
いろいろ引っかかるが、追及している間はなかった。
あちら側のチューヤが立ち去ることにより、ゆるやかに世界が閉塞する。
4人寄って、もんじゅを上まわる知恵を絞り出すしかなさそうだ。




