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いわゆる「怨霊」という語が史上初、記載されるのは『日本後紀』延暦24年(805)の条という。
それに先立つ延暦16年、『扶桑略記』では、早良親王の事績に言及し、「怨」の取り扱いなどを説いている。
当時、仏教が日本の「ファンダメンタルズ」を染め上げていた時期であり、各種の経典の読誦によって、怨霊対策をしましたよ、という僧侶がどんな評価を受けたかが各種文献から判断できる。
それぞれの経典に特性があり、当時から僧侶たちの「住み分け」が進んでいたこともわかって、非常に興味深い。
貴族や民衆というターゲットごとに、仏教システムを供給する僧侶というベンダーが、いかなるマーケティングを繰り広げてきたか。
かの有名な『源氏物語』や『枕草子』にも、多くの「生霊」が挙げられているが、このようなマーケットにおいては、必要欠くべからざるキャストとして、僧侶たちは非常に重宝されていた。
「おのれ、いつから」
怨霊が恨み言を漏らす。
「序盤、はいったと思ったボールが外れたときだ。もちろん、反動で跳ね返って飛び出ることはある。偶然と片付けてしまえばそれで終わりだが、違和感が残った」
ケートは、相手が見せた失敗それ自体にも、意味を探っていた。
こいつほんとに同級生かよ、天才すぎんだろ、と呆れるチューヤ。
「序盤で終わってしまっては、おもしろくないからな。たかが幸運で、結果が決まってたまるか」
これはどうやら怨霊に身体を貸している宇多田の意思のようだ。
「それは同感だが、イカサマなら、バレないようにやれよ」
ケートは最後に、ポケットにはいった9ボールを、真下からキューを突いて叩き出した。
悪魔は憎々しげに言った。
「……なるほど、帳尻合わせか」
彼は9ボールがポケットにはいる、という結末から逆引きして、不確定動作の範囲を決めた。
「ジャンプボールは不確定要素だ。真上に叩き上げて的玉に当てれば、なにが起こるかはわからない。もちろん確率は低いだろうが、確実性を求めるなら」
「確実性? そんなことを考えていれば、最初のショットで決めておったわ。悪魔はギャンブルを好むのだよ、少年」
悪魔の表情からは怒りが消えつつあり、むしろ笑みさえも浮かべている。
宇多田の影は、もうほとんど出てきていない。
完全に乗っ取られたと言っていいだろう。
それでも、悪魔はいぜんとして人間らしい。
悪魔とは人間を意味する、という使い古された言葉もある。
そもそも彼は「怨霊」なのだから、人間らしくて当然なのだ。
「いいやつだとばっかり思ってたよ、スガワラさん。もう神頼みとかしないからな!」
チューヤの変な恨み節。
菅原道真が怨霊であったことは、意外に知られていない。
学生服の名前になるくらい、日常生活レベルで有名な「学問の神」だが、おそらく意図的に、かつて怨霊であった事実を隠蔽している。
マーケッターの言い分としては、あえて言う必要がない、ということだろう。
「すべる」とか「おちる」が禁句になるような迷信、しょせん縁起物のギャンブルのような世界では、なるべくわるい情報を出さずに、いい話だけ聞かせて商売をしたい。
そういう需要と供給の話だ。
日本最古の「御霊」となった、菅原道真。
通説では、藤原氏による「他氏排斥」の一環で、カンコー鳥も飛ばされた。
「スガワラ? フジワラじゃないのか」
いまさらのケート。
相手の名前もよく知らないで戦っていたわけだ。
もちろん彼は「日本史」など、ほとんど眼中にない。
さすがに怒る天神さま。
「おのれらァ!」
降り注ぐ電撃。
「くわばらくわばら」の語源にもなっている伝統的な攻撃だが、いまさら感はある。
悪魔使いとしては、とりあえずナカマを電撃耐性でそろえ、効率のよい反撃を模索する、といった戦略が妥当だろう。
それにケートは電撃属性の男の子だ。
ほとんどダメージはない。
幸い、そのまま戦闘モードへ移行することはなかった。
すでに勝負はついている。
宇多田の肉体は、死後硬直しているかのように動きがない。
事実、彼は「完全に死んだ」ようだ。
それでもまだ名残を惜しむかのように、ミチザネは遺体のうえに宿っている。
「あきらメロン、怨霊さんよ。憑代の肉体がそこまでぶっ壊れたら、もう無理しないで、あの世へ帰ったほうがいいだろ」
ケートが言うと、
「ふん……どうじゃ、麿を新たなガーディアンとせぬか。やり残したこともあるでのう」
誘い水を向けるミチザネ。
「たしかに、なんか雰囲気似てるね、ケートとスガワラさん」
チューヤも認めた。
──ものの文献によると、菅原道真は小柄であったという。
藤原時平に背の低いのをバカにされ、怒った道真が時平らの顔を打った、とする記述がある。これを恨んだ時実が延喜帝に讒言し、道真は筑紫へ流された、というエピソードが後世の『御伽草子』にある。
「子どもっぽいところが、と言いたいのかチューヤ」
血管を浮かせるケートに、
「そういうおとぎ話もあるよって、悪魔相関プログラムの備考欄に余計な情報載せるプログラマがわるいと思うな、俺は!」
しどろもどろのチューヤ。
──ともかく、祟る道真、というフレームワークの再生産が、こうしてはじまったわけだ。
いちばん成功したのは浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』で、悲劇性を高めた荒々しい姿で描かれている。『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』と並ぶ、歌舞伎の三大名作とされている。
寺子屋で、学問の神様として名高くなっていくのも、江戸時代からである。
明治時代には「忠臣」としての姿がクローズアップされ、何度も紙幣に登場するほど人気の人物となった。
歴史上の人物を、どのように活用するかは、その時代の人々が決める。
「そうか、歴史上の人物の活用か」
ミチザネをじっと見つめるケート。
「三大怨霊のひとりまで数えられれば、それはそれで満足だろうね、スガワラさんも」
チューヤの浅はかな物言いに、
「満足なのは、それを用いるおのれらであろうがよ」
言い当てるミチザネ。
──死人は、なにもできない。
なにかをするとしたら、生きている人間だ。
死体や、その名を使って。
「的確なご指摘」
チューヤごときでは、頭を下げるしかない。
「生きている人間に利用された、と言いたいわけか」
皮肉っぽく返すケートに、
「神頼みとはそういうものであろう」
循環論理を避けて、ミチザネは断定した。
受験の神さま、安産祈願、水子供養、勝負の神さまからトイレの神さままで、すべては生きている人間の都合である。
神さまの言葉、いわゆる「神託」は、史上もっとも人類に利用された概念といっていい。
対立する勢力があり、あるいは主流と傍流の確執があって、洋の東西を問わず、しばしば歴史を動かすのに使われた。
神とは、つねに利用価値の塊だった。
「あんたの祟りも、だれかにとって都合がいいから、ってわけか」
ふと考え込むケート。
「敵の敵は味方、っていう論理かもね」
チューヤの考えは浅めだ。
「悪魔には悪魔の理屈があるだろう。それが噛み合うときもあろうさ。しかし、主役を張るのはすべからく、こちら側の人間じゃ」
ミチザネの思惑はわからない。
いずれにしても、響く言葉だ。
どんな幽霊よりも、生きている人間が恐ろしい。これは真理である。
「道理だな。いいだろう、取り憑かせてやる」
「ちょ! 気をつけたほうがいいよ、ケート! そいつ怨霊だから、取り憑かれると魂吸い取られるかもよ!」
ミチザネは、天井から釣り糸で吊られているような死体から距離をとり、冷たい目でそれを眺めた。
見ようによっては、たしかに利用するだけ利用して使い捨てているように見える。
「こやつは弱かった。そもそも最初から、怨望の塊であった。そのような魂の持ち主には、当然、それにふさわしい報いをもってなす。……おぬしにも、つけこまれる悖りがあろうや?」
ケートに視線を転じる。
ケートは肩をすくめ、
「煽るなよ。コンプレックスのないやつなんて、この世にいないだろ。──怨霊に祟られるとどうなるんだ、チューヤ?」
「将門の首塚に祟られたという話は、現在進行形で再生産されているけど」
チューヤにとっては、いちばんなじみのある怨霊。
「くくく、マサカドか。おぬしらが、三大怨霊とやらを、どうやって使いたいのかがよく見えてきて、おもしろい」
「……なんか知ってるのか。いや、そりゃ当事者だもんな。教えてくれよ、神さま」
悪魔使いの問いに、
「この国を守りたい者もおれば、壊したい者もおる。麿は、いずれにも与しないがの」
胡乱な答えのミチザネ。
名前にふさわしい力を与えられてはいるが、好き勝手に生きている。
いや、死んでいる。
複雑怪奇な設定で知られる『デビル豪』でも、御霊の取り扱いには謎が多い。
「壊したい?」
「崇徳よ。きゃつの呪いは深いでのう」
「じゃ将門は」
「当人が望むかどうかはともかく、守り神ではあろうよ」
顎に手を当て、考え込むチューヤ。
一応、筋は通っている……ような気はする。
「日本史の先生が、最強の怨霊は崇徳院だって言ってたけど」
「崇徳は北の者らと親しげのようじゃな。将門は国粋者どもに祭り上げられておる」
「……あんたは? 学問の神さま」
「麿は高みの見物よ。まあ、あえてどこに共感するかといえば、おぬしの仲間ではあるかもしれんぞえ」
言って、細く長い爪を、ケートに向けた。
「人を指さすな、無礼なやつめ」
憮然とするケート。
「三大御霊だし、心強いことはたしかだ。話を聞くかぎり、害は少なそうだね」
戦った敵と和解して、力強い味方になってもらう、という少年漫画の展開はリョージ向きだが、ここでその流れを汲んでもわるくはない。
「三大? まだこんなん、いんのかよ」
「うん! 日本が誇る世界の怨霊、菅原道真、崇徳院、そして平将門だよ!」
「楽しそうに言うなおい。あとのふたりは、キミが責任を持って対処しろよ」
「力を合わせて戦おうよ!」
「いや、結局たいして戦ってなかっただろ、チューヤ」
最後にちょっとだけおいしいところを譲ってもらった。
自覚するチューヤは、ケートにハルキゲニアを返しつつ、てへへと笑った。
ピアスが持ち主の手にもどると、ハルキゲニアは、黒く膨らんだ腹をさらして姿を現した。
道真は目を細め、自分が道具として用いた(利用されたとは考えていない)悪魔を眺めやる。
「……ほう、そういう回路に閉じ込めておじゃるか」
その名は「情報熱力学」。
マクスウェルの悪魔は、不可逆的であるはずの事象の原因と結果を、逆転することができる。
その確率の触手は、情報を熱力学的に元の状態へもどす。
結果、勝負は長引いたが、最後まで長引かせることは許さなかった。
ケートの勝ちだ。
「この悪魔も、さぞかし不満だろうさ。余裕かまして大逆転とか、少年漫画の悪役みたいなこと、あんたがしてくれたおかげで」
「いや、成果がないわけではなかった。おぬしのことは、よくわかった。理性の人よ」
歩み寄るケートとミチザネ。
たしかに両者の視線の高さは、ぴったりと一致している。
「……ホモ・サピエンスを代表する気はないよ」
「どの道、おぬしは何者かを代表しなければならぬ」
「金持ちの宿命ってやつかい。それともお嬢の言う、ノブレスオブリージュかな」
「サイエンスの呪縛であろう。おぬしには、わかっているはずだ、秩序の者。いや、インドの代理人か。三国一の知性、守護してくれようぞ」
「……いいぜ、憑けよ」
ケートがナノマシンを操作し、背後を解放した瞬間、ガーディアンが入れ替わった。
瞬間、どさり、と倒れる宇多田。
助けようとしても無駄だろう、おそらくサアヤでも。
ガーディアンにするには危険すぎる御霊に喰い尽くされた、それはかつて人間だった器の残り滓にすぎない。
そもそも最初から、チューヤの目には彼が死んでいるようにしか見えなかった。
と、そのとき死体の口が動き、何事かを口走る。
「最適数学は玄宗皇帝の夢を見るか……?」
そう聞こえたが、気のせいかもしれない。
現に、死体はもう二度と動かなかった。
「……どういうことだ? ケート」
ふりかえり、問いかけるチューヤに、
「なんだ、読んでないのかよ。ボクの愛読する数学ジャーナルにも紹介されてるぞ」
ケートはあっさり答える。
「全国で3人くらいでしょ、そんなジャーナル読んでるの」
「失敬なやつめ。一見つながらない玄宗皇帝との関係とか、そもそも最適数学の定義とか、めっちゃおもしろいから読め」
専門書のタイトルとしてはめずらしい『最適数学は玄宗皇帝の夢を見るか』という著書を著したのは、ケートも尊敬する日本人の天才数学者だという。
「字だけの本は読まん」
「蛇女か!」
その瞬間、彼らは空間にはいるヒビを見た。




