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パンデモニカ / PanDemonicA  作者: フジキヒデキ
最適数学は玄宗皇帝の夢を見るか
239/384

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 まず1回、球を落とした。

 それ自体、すばらしい成果だが、ケートは奇跡をつづけるつもりでいる。


「負けるわけにはいかないんだよ、ボクの計算秩序が!」


 非楕円形のビリヤード台は、カオス系の運動である。

 コスモスは、けっしてカオスに屈してはならない。


 コン……コロコロ……。

 ポケットの角に弾かれ、ケートのショットはミスとなった。


「くくく……残念だったな。いかに頭のいいエリートくんでも、カオス系の計算はむずかしすぎるよなあ?」


「くそ、どこでまちがった……」


 まちがえるのは一か所でじゅうぶんだ。

 誤差は蓄積していく。

 積もり積もって、しまいには破裂する。


 端数処理を1桁怠っただけで、答えが大きく変わる。

 いや、そもそも無限に端数処理をしなければならない問題なのだ。

 どんな数学者も、そんな計算はやりたがらない。


 だから最後の最後、直観で切り込んだ。

 それは、一種の量子計算に近い。


「不可能だ。西原。きみは勝てないよ」


 ケートが勝てなければ、必然的に宇多田が勝つ。

 いや、()()()()()()()()()()()のかもしれない。

 不可能な配置だけを用意して、相手の自滅を待つ方法でいいのだ。


 このビリヤード台で、長期予測は不可能である。

 無限に近く散乱していく計算をくりかえすのは、ほとんど無駄な行為に近い。


「5回が限度か……」


 ケートのつぶやきを耳にして、ぴくり、と宇多田の肩が揺れた。

 5回だと? このカオス系の台で、5回も先の衝突を計算し、実行できるのか。

 どこまで天才だ、貴様は……。


「よかろう、ライバルと認めよう。それでは、ぼくも全力で撞かせてもらおうか」


 そのとき、宇多田のうえに浮かび上がったガーディアンの姿を、チューヤはたしかに見た。


名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅

ミチザネ/御霊/38/10世紀/大宰府/菅原伝授手習鑑/湯島


 日本三大御霊の一角、学問の神様、名のある古今の天才を相手に、ケートはどこまで戦えるのか──。




 非楕円形のビリヤード台の運動は、一般解を持たない。

 これは、時刻0から時刻tにおける状態を、直接計算する方法がないということだ。


 もちろんケートがやったように、順番に軌道を追いかけていけば時刻tの状態は計算できる。

 だがその方法でやるかぎり、しばしば系のために増幅される丸め誤差が大きくなって、破綻の不安が増す。

 戦略の幅がきわめてかぎられるのだ。


 5回以内の衝突で、目的の球に当て、あるいは落とすこと。途中にぶつかる球の軌道と、タイミングまでも計算したうえで、だ。

 あまりにも難易度が高い。

 あれから宇多田は、球を1個だけ落としたが、そのあと再び失敗した。

 いや、言い換えれば「不可能配置」をした。


「……ポアンカレか」


 ケートは卒然として理解する。

 気づくのが遅すぎた……。


 ポアンカレ予想。

 そもそも高校生が、そんな高度な数学にたどり着けると期待すること自体がまちがいなのだが、このさい、それに気づいて最初から戦えていれば、こうはならなかったという後悔がある。


「そう、モーペルテュイの原理だよ」


 余裕の表情で、宇多田は壁に背をもたせかけた。

 ──最小作用の原理。


 計算が早々に破綻する非可積分系において、唯一にして最大の効果を発揮する数学的手法。ビリヤードの場合、作用量は単に軌道の長さのことだ。

 ある種の軌道をピンポイントで取り出し、それらを数学的に正確に追いかけることができる──。


「……わざとか。わざと、数回以内の計算でかじりつけるように、球を配置したな」


「そこまでは言わんよ。ただ、きみに食いついてきてもらうのは、それなりに楽しかった」


 にやりと不敵に笑うのは、もはや宇多田ではない、菅原道真その人だ。

 ──現代のカオス理論の基礎を築いた、アンリ・ポアンカレの『天体力学の新しい方法』は、今日まで数学の古典として高く評価されている。

 今回のケースでいえば、停留作用の原理を使って、非可積分系の閉じた軌道を求める方法のことだ。


 ニュートン以来、数学者や天文学者の多くが無駄な努力をくりかえしてきた、天体の理論。

 非可積分の長期的ふるまいを計算するのは不可能で、わずか数世紀先の月食を求めるのが精いっぱいだった時代。

 わずか数回先の衝突を計算するのが精いっぱいのケートと同じように、昔の天才たちが寄ってたかって、無駄な努力をくりかえしてきたその答えは、すでに出ていたのだ。


「方程式を解かずに、解を見つける。きみほどの人間の目なら、もう見えてきただろう?」


 誘うように言う宇多田。

 倒すべき天才が、どのくらいの器量なのか、見定めたいというかのよう。


「不可能だと? 冗談じゃない……」


 ケートの脳が、さらに加速する。

 ナノマシンの能力を解放し、計算結果を空間に投影する。

 複雑な形をしたビリヤード台の上に、等高線のようなラインが引かれる。

 ふつうの人間は、ここまで到達するにも、いくつもの山と谷のあいだに横たわる峠の問題をわたり歩いて、何度も挫折する必要があるだろう。


 だが、天才の直感は停留作用の原理を適用して、すでに峠の半ばをわたりきっている。

 A、B、M、N、Fという各点と、よぎるオイラーの公式。

 これは純粋な幾何学だ。数も、式の計算も、必要ない。

 最終的な結論は、


「任意の素数pと任意の正の整数qに対し、1周期にp回クッションに衝突しながら、ビリヤード台をq周するような閉じた軌道が、すくなくとも2つある」


 ぱちぱちぱち、と悪魔が手をたたく。

 この方法の威力を、だれよりも理解している。


 ビリヤード台がデコボコしていたら、さらに問題は複雑になる。

 ポアンカレの時代には、これらの困難を乗り越えることはできなかった。

 が、()()()()()()()()()()()()()問題である。


「気づくのが遅かったな。終わりだ、少年よ。きみは手玉をファウルし、余が自由に置いたその位置から、9ボールを落とす」


 もはや宇多田の影は見えず、歴史的な天才と、現代の天才だけが対峙している。

 意地悪な悪魔が用意した要塞の向こう側に、答えが隠された。

 問題は、解決不可能になった──。


 ゆっくりと顔を上げる。

 悪魔は薄ら笑いを浮かべている。

 ──適当にジャンプボールでも打って、賭けてみるか? まあ、そうだろう。それ以外の方法はないのだから。

 菅原道真の表情は、結末を見透かして落ち着いている。


「だいじょうぶか、ケート」


「うるさい、あっちへ行っていろ」


 ケートの払った手の動きが、チューヤの頬をかすめる。

 言われるまま、引き下がるチューヤ。


 まだケートは、あきらめていない。

 チューヤにも、その「意志」が伝わった。

 事実、ケートは恐るべき集中力で、じっとビリヤード台を凝視している。

 その時間が長引くほど、悪魔の表情には、なぜか焦りのようなものが浮かぶ。


「運を天に、任せるんじゃ……ないのか」


「運? 運だと? らしくないことを言うじゃないか、悪魔さんよ。ボクは()()()()()()()()んだ。()()()()()()()()()()()()な」


 ナノマシンが描く数式に、奇妙な記号が増えていく。

 ポアンカレから1世紀も経てば、使えるツールは増えている。


 測定の限界を超えることはできない。

 あいまいな部分を含めて不確定性領域を設定する。

 Δx1、Δy1を不確定度とする。


 最初の衝突を測ったら、あとはもう()()()()()

 その後の軌道は、計算だけで求めていく。

 これは、じっさいは不可能な計算なのだが、ケートには最初から磨きぬいてきた、量子計算とも呼ぶべき「直観」がある。


 神様のくれた「ギフト」によって、ケートだけができる計算をつづけたと仮定する。

 最初の衝突は、不確定性の領域のどこかに位置している。

 2回目の衝突も、その点を含む不確定領域のどこかに位置する。


 これを表す等式は単純だ。

 不確定度は、最初の衝突から2回目の衝突に()()()()持ち越される。

 その精度は高まりも下がりもしない。

 ケートは呼吸を整え、その小さな身体を台の端に乗せると、ジャンプボールの体勢をとった。


「行け、不確定性、ショット!」


 たたきつけたキューの先が、反動で手玉を高く舞い上がらせる。

 ジャンプボールで運を天に任せる。

 行動としてはそのように見えるが、そうではない。


 すべての球が弾かれ、不確定な動きを見せる。

 その全不確定度Uは、ケートが与えた最初の値に等しい。

 どこまで運動が複雑になっても、与えられた値Uは一定でありつづける。

 個々のボールの動きは変動しているが、それらは互いに補い合って、()()()()()()()()()()なる。


「バカな、なんだこの、収束は……」


 悪魔の目にも、ケートがやらかした計算の結果が、検算されて見えてくる。


「計算、通りだ」


 がこがこ、がこ!


 殴りつけるように、的玉がポケットに落ちていく。

 モーペルテュイを葬り、新たな不確定の奇跡を見せること。

 不確定度は、結果の位置を厳密に決めることはできないが、ある範囲には収めうることをも意味している。


 神のような計算機か、量子コンピュータ。

 いずれかをもってすれば、ビリヤード台ひとつ分の量子計算くらい、できてあたりまえだろう。とでも言いたげに、ケートはにやりと笑った。


「バカな、不確定性を、計算したというのか」


 悪魔の見開かれた眼は、いぜん不確定のまま動きつづける9ボールを注視する。

 計算できないからこそ不確定のはずなのに。

 ありえるのか、いや。


「ちがうね。計算結果の不確定な()()()、ある領域に()()しただけだ」


 弾かれた9ボールがクッションを蹴り、ころころと()()()()()ポケットに向けて転がる。

 21世紀の数学は、ポアンカレが夢にも見ていないような計算を、実行できる段階まで達した。

 じゅうぶんに発達した()()()()()()()()()


 9ボールがポケットにはいった瞬間、悲鳴が響く。

 ケートが冷たい目で眺める視線の先、チューヤのヒノカグツチが菅原道真の腕を貫いている。

 正確には、その腕から伸びた黒い悪魔の手を。


「そうくるだろうことはわかっていたよ、マクスウェルの悪魔」


 チューヤの耳には、ケートのハルキゲニア・ピアスがある。

 ショットのまえ、ケートはチューヤを邪険に振り払ったように見せて、敵のイカサマを破る準備をしていたのだ。


 ゲームオーバーだ。



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