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巨大な手が消えた空間の、どこをどう探しても、サアヤとマフユの姿はなくなっていた。
「また行方不明かよ!」
うんざりしたように叫ぶチューヤ。
一方、ケートは嘆いている暇があったら、分析にとりかかっている。
空間に満ちた魔術回路を、解析可能な順に切り分けていく。
その耳ではハルキゲニアのピアスがリンリンと揺れている。
ケートのナノマシンの「解析」性能は、どんなチューリングマシンよりもシンプルかつ高度だ。
「くそ、こんな魔術回路もあるのか。あちら側でも抽象概念の取り扱いはお盛んらしいや。完全に数式化してくれやがって、こうなったらもどるには方程式を解くしかないぞ」
「ケートの得意なやつだね」
チューヤの目にも、ケートが目のまえの空間を数式化して、解き明かそうとしているらしいことは理解できる。
もちろん問題の意味はまったくわからない。
それでも半ば安心している。
なぜならケートは天才だからだ。
「こっち側だけの計算で完結すりゃいいけどな。ボクたちのいる左辺と、サアヤたちのいる右辺を、どう取り扱う? N≠NP問題どころじゃないぜ」
N≠NP予想は、現代数学における未解決問題のなかでも、もっとも重要な問題のひとつとされている。
「要するに?」
「チューヤとして決定されたクラス……いや、要するにだ、チューヤとサアヤはイコールか、それともノットイコールか?」
「ノットに決まってんだろ」
「だとしたら、それを証明してくれ」
「……要されても、さっぱりわからんことがわかった」
ナッシュとゲーデルの手紙を起源とし、無数の天才たちがその困難な証明のまえに散っていった。
「ともかく、こっちの問題を解いてしまうことが肝心じゃないかな」
幽霊の言葉は、このさい正しそうだ。
幽霊の案内で、部室棟を進んでいく。
ほどなくたどり着く、ビリヤード部の部室。
その部屋からは、たしかにボスキャラらしい雰囲気が溢れていた……。
実体のない幽霊に代わって、ドアを開けるケート。
とくに開けてもらわなくてもはいれるのだが、先に入室する幽霊。
つづいてケートが足を踏み入れた瞬間、
「ようこそ、天才。おかげでこの部屋のIQも頂点を極めた!」
栄光を寿ぐかのごとき声が響きわたる。
「なんだ?」
最後にチューヤが入室すると、
「おっと、残念。平均が一挙に下がった」
自己批判的な高校生は、ただちにその言葉の意味を把握した。
「すいませんでしたね、普通科で!」
言いながらも、「場」の解析は悪魔使いの本能だ。
部屋には天才が2名と、その天才性を担保するガーディアンたち。
あとは秀才の幽霊と、一般ピープルが約1名。
「宇多田部長。もうやめましょうよ。部長はもう……」
部屋の奥にいる高校生に向けて歩み寄る幽霊。
「黙れ! 西原を連れてきたことは評価する。おまえにもう用はない」
甲走った声で幽霊を排除する宇多田。
生身のように見えるが、どこか濃厚な死の気配を帯びている。
チューヤは、さっきから注意深く、部室のまんなかでえらそうに場を支配する、宇多田とやらを観察している。
宇多田自身というよりは、その背後にいる悪魔の正体を見定めるためだ。
「宇多田。おまえには無理だ」
ケートが冷たく言い放つ。
宇多田と呼ばれた生徒の表情が、ぴくりと跳ねる。
「また、ぼくをバカにするのか。ちょっと数学ができたくらいで」
「英語の成績で勝負でもしたいのか?」
「おまえはアメリカで生まれ育ったろ!」
「わかったわかった。じゃあ国語で勝負してやる、それでいいだろ」
相手にとっては魅力的な提案だ。
ケートは偏った天才であって、理数系の脳は飛び抜けて高いが、日本の国語能力がそれほど高いわけではない。
「だれがテストで勝負したいと言った?」
「なんだよ、喧嘩か? それはそれで、シンプルでいいが」
互いの筋肉と魔力をぶつけ合って決着をつける。
境界では、そのパターンが多い。
「ふん、くだらん。なぜぼくが、ここにいると思う?」
宇多田の言葉と視線を追って、ケートも部室の中央にデンと置かれた遊具に目を向ける。
「…………」
ケートの視線を感じ、チューヤはぶるぶると手を振った。
「勝負だ、西原。負けたほうが、その脳を支払う」
意味がよくわからない。
だが、あまりいい意味は予想できない。
要するに「殺される」のだと理解しておけば、当たらずとも遠くはあるまい。
「ビリヤードか。つまらんゲームだが、まあいいだろう」
アメリカ出身のケートは、じつはビリヤードが得意だ。
ケートの言葉に同意するように、大きくうなずく宇多田。
「そうだよ、ただのテーブルじゃつまらないよなあ、西原?」
つぎの瞬間、宇多田の背後の空間から、巨大な手が2本、ぬうっと伸びてきた。
先刻、チューヤたちを右辺と左辺に分けたのと同じ手だ。
その手が、部室の中央にあったビリヤード台を、ばつん、と包み込んだ。
そして、手のなかで、しばらくグニグニと粘土を揉むような動き。
やがて、開かれた手のなかには、奇妙なビリヤード台があった……。
ケートはキューの先で、その奇妙に歪んだ台を突ついた。
非可積分の性質を持つ凸な曲線のクッション。
眉根を寄せるケート。
これは、見た目以上に……。
「どういうこと、これって?」
首をかしげるチューヤに、
「ビリヤードやったことあれば感覚でわかるだろ、チューヤ」
理論で理解しているケートが答える。
「ああ、これってもう、ほとんど運ゲーだよな?」
数学の成績に関係なく、理屈以前に明白だ。
ビリヤードは縁が直線だからこそ、成立するゲームである。
もしこれが曲線であった場合、入射角と反射角を計算する方程式は幾何級数的に複雑化し、ゲームの難易度はもはや不可能領域へと突入する。
いちばん単純な例はクッションが円形である場合だが、このビリヤード台は楕円ですらない。
つまり非可積分系なのだ。
可積分とのちがいは一目瞭然、あらゆる計算がその先で散乱する。
それは、やる気の出ないほど分厚い計算ドリルのよう。
床に砂がばらまかれているなかを、目を閉じて、砂を踏まずに歩けるか?
「ルールは9ボールだ。1ゲーム先取の一発勝負。ブレイクショットは譲ろう。それなら運でも勝てるだろう?」
余裕の表情で言う宇多田。
たしかに、テーブルがどんな形だろうが、ブレイクショットだけは運だ。
「そうかい。練習もさせてくれるつもりはないってわけだな。いいだろう、やってやんよ」
ケートはキューの先にチョークをつけながら、歪んだ台をじっと見つめた。
「ゲームスタートだ」
宇多田が告げる。
「運否天賦なら、サアヤに任せたいところだが……なっ!」
ケートは鋭い一撃で白球を撞き抜く。
多くのボールがぶつかり合い、不規則に跳ね返りながら、6つのポケットのいずれかを目指して転がるが……。
「残念、ノーポケットだ。選手交代だな」
にやにや笑って、宇多田がテーブルに近づく。
──作為があるとは思いたくない。
チューヤは慎重に警戒していたが、不自然な動きはなかったように見える。
前回、恵比寿では「ズル」があったから、心理的にも堂々とやり返せた。
だが、今回は相手も「まともに」やっている──ように見える。
両方が「同じ条件で」戦っているとすれば、邪魔するほうが無粋だ。
緑のクッションは、凸な曲線という条件の範囲内で、複雑かつ微妙に曲がりくねっている。
凸な曲線、つまり縁に任意の2点を選んだ場合、その間をクッションに衝突せずにたどり着けるビリヤード台であることが、この場合の唯一条件となっている。
宇多田は、トン、と手球を撞いた。
的球の1が直線上にあり、そのまま7に当てて落とす。
「そうだ、クッションに当てない。さしあたり、そうやってゲームを進めるしかない……」
ケートは唇を噛んだ。
あくまで可能性の問題だが、自分にブレイクショットをさせたのは、一発で負けるリスクをとってでも、こうして「つなげやすい状況」からはじめたかったからなのではないか。
いや、必ずしもつなげやすい状況になるとはかぎらない。
このテーブルであるか否かにかぎらず、ビリヤードはそれほど単純なゲームではない。
「……おっと、失敗した。きみの番だ、西原」
失敗したというのに、宇多田の態度にはまだまだ余裕がある。
どういうことだろう。
このゲームのどこに、どんな罠を仕掛けられるというのか?
ケートの目が、クッションの一点を見つめる。
的球を直接狙えない配置だからだ。
こうなったらクッションの曲線を見極めるしかない。
彼の目と頭は、ターゲットとするボールから逆算して、手玉の位置まで軌道を引っ張ってくる方法を探っている。
ごくシンプルな方法だが、もちろん困難で難解な測定と計算を必要とする。
最後の衝突から計算し、その結果に基づいて1回まえの衝突を計算、さらに2回まえの衝突、3回まえの衝突と、丹念な計算をくりかえす。
組み立てられる数式と、それを実行する力。
ケートは、ぶつぶつとつぶやきながら、テーブルを見つめる。
「……最後、高さが2分のωの水平線にはじまる、定間隔(=ω)で衝突が並んだ軌道のファミリーから計算。しょせん2次元の因果律、いくぜ、ハルキゲニア」
「きみの計算した結果を貫けるものがあるとしたら、それはこの針の穴を貫く針という自家撞着にも似た撞球、盤上に具現するのは立ち上がる平面」
ピアスからは、いつものハルキゲニア節。
「寝てろよ、平面!」
ケートが計算し、出した答えをトレースする微妙な筋肉の動きを、悪魔の力で補正する。
文字どおり、針の穴を通す撞球。




