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「よう、ケートじゃないか」
「待ってたぜー、おまえの頭脳」
そんな声がして、一同はふりかえった。
──その姿が透けて見える、ということはふたりとも幽霊だろう。
「おまえら」
理系特進のクラスメートで、行方不明になっていた生徒のうちのふたりだ、とケートは短く説明した。
複雑な表情で、半透明に揺らめく旧友たちを見つめる。
「幽霊だー」
サアヤは声を上げるが、けっして悲鳴ではない。
もういいかげん、そういうことには慣れる時期である。
彼らは、ケートの手にある『アッピンの赤い本』を見ると、困ったように顔を見合わせた。
「そんなところにあったのか」
「だけど、それなー」
口ごもる幽霊たち。
彼らに導かれるように、一同はオカルト部を出て、隣の数理部へと場所を移すことにした。
机に赤い本を置き、事情聴取モードのケート。
まず前提として、史上に名高い「魔書」について知らされる。
──それは大悪魔バールの力の源とされる。
世の万物すべての「真の名」が記されており、それを唱えられると、唱えたものに絶対服従しなければならなくなる。
これを持っているがために、バールはルシファーすら軽々しく扱えない存在になっていた。が、あろうことかバールは、この本を14世紀のスコットランドで人間に奪われる、という失態を犯してしまった──。
「なんでそんなもんが、21世紀の日本に突然出てくるんだよ?」
マフユの問いを、
「その手の謎は、もちろん『ヌー』愛読者のケート先生に」
流すチューヤ。
「知るか! ボクはオカルト系の記事はあまり読まん。もっとリアリティのある陰謀論にしてくれ」
投げ返すケートに、
「でも、けっこうちゃんとしてる本っぽいよ」
魔法使い気質のサアヤは、まじめに中身を読みながら言った。
チューヤも、サアヤの横で中身に目を通す。
もちろん彼らのような中偏差値普通科アーパー男女に、古文書レベルの内容が解読できるはずがない。
ナノマシンによる「自動翻訳」が頼りだ。
それによると、本にはたしかに、バールに忠誠を誓った悪魔たちの名前に加え、バールの本名も記載されている。
これを正しく発音できれば、その悪魔を自由に使役できるが、ふつうの人間の喉では不可能のようだ。
「逆に言えば、デメトリクス・カプセルがあれば運用は可能、ってことか」
つぶやくチューヤ。
──慟哭、叫喚、福音、聖歌などと呼ばれる波長の振動を加えて、この名を紡ぐには相当の魔術的素養と魔力が必要とされる。
通常は不可能なこの技術を、ごく容易に身に着けるテクノロジーが、開発されてしまった。
「……食いすぎると死ぬけどな」
オーバードーズで死にかけたマフユも、その効果はよく知っている。
「まったく、人類ってのはすごいね。たった数千年で、初歩的な魔術をここまで昇華させちゃうんだから」
幽霊は言った。
──バールはもともと豊饒をつかさどる神で、カナン、フェニキア、バビロニアなど広い地域で信仰されていた。その後、ご多聞に漏れず、キリスト教によって悪魔に仕立て上げられた。
あらゆる知識、策略に通じており、召喚者にその知識を与えてくれる。なかでもよく知られるのは、透明になる方法や変身の術だ。
「おまえら、バールを呼んだのか」
ケートの問いに、
「最初はね」
「そのつもりだった」
幽霊たちは顔を見合わせて答えた。
「どういうことだ?」
首をかしげるケート。
「ある意味、バールのほうが助かったよ」
「あの人、怖いもんねえ」
「怨霊だからねえ」
声を合わせる幽霊。
ぴくっ、とチューヤが反応した。
成田先生に出された宿題。
──怨霊退治。
「部長がさ、やばい悪魔に取り憑かれちまったんだよ……」
うつむきがちに言う幽霊。
「おまえらの状態も大差ないと思うが。自分の状態、わかってるか?」
ケートの問いに、ふたりの幽霊は苦笑いを浮かべ、言った。
「ぼくたち、ついにゼロを理解したよ」
「そう、われわれは、体だ」
言って、腕を組む幽霊ふたり。
──体。
数学における体は、四則演算が自由に行なえる代数系であることを意味する。
ケートはにやりと笑う。
なにがおもしろいのか、チューヤたちにはもちろんわからない。
「人間はゼロを理解するのに、何千年もかかった。この世には有理数しかないと思っていた古代人も、やがて無理数の存在に気づいた。そしてわれわれは、もはや数論における対称性をも理解している」
ひゃっはー、と気勢を上げ、笑顔で手を合わせるケートと幽霊たち。
その手はもちろんすり抜けたが、彼らが同じ地平の数学言語を共有していることは察せられる。
あらゆる意味で、チューヤたちとは別の次元に、この連中は生きているんだなと理解する。いや、一部は生きていないが。
彼らは早くも、自分たちがいま、やるべきことを無言のうちに了解していた。
それぞれがホワイトボードや机に向き合い、なにごとかを「記述」しはじめる。
「お仲間は、3人だけかい?」
幽霊1。
「気をつけてくれよ。状態を変更したら、計算がむずかしくなる」
幽霊2。
「ああ、ほとんど終わりだろう。それをこいつらに理解させるほうが、もっとむずかしいだろうがな」
そうして侮蔑的な視線を持ち上げるケート。
見つめられ、どうやらひどく自分たちを蔑んでいるようだ、と気づくチューヤたち。
そんなケートとふたりの幽霊たちに、
「理解できるように説明する能力がないだけでしょ」
と皮肉を返すのが精一杯だ。
ケートは完無視で、わが道を行く。
「チューヤ、サアヤ、蛇女、そしてボク。これらは、可換か斜体かにかかわらず、自由に群を成す。この抽象代数学の概念は、ボクらが個別の属性を体現しながら、じつはひとつの環を形成していることを意味する」
「そーらきた。もういいから、そういうの」
「包含の鎖によって、われわれは一体的に処理されている。……だれの脱落も許されない。ボクたちは一蓮托生、五次元の方程式として記述されているんだよ」
ケートの言葉に合わせるように、空間には数式が浮かんできた。
本来は悪魔召喚にまつわる魔術回路の記述だが、今回はそこに高度な数学が絡みついている。いや、そもそも魔術回路そのものが、異次元的な世界線の数学なのだ。
──すでに縛られている。
チューヤたちも、とりあえずその事実だけは理解した。
「つまり、どういうことだ?」
チューヤの背を冷や汗が伝う。
「状態を変更するな。サアヤ、すぐにチューヤのかすり傷を癒せ。われわれは、この空間にはいった時点のステータスと、ほんのわずかでも変更された状態では、ここから出られない」
空間は数式である。
五次元方程式は代数的に解けない。
この不可能の証明を、どう解決していくのか。
「こんどは数学悪魔かよお」
ため息交じりに首を振るチューヤ。
多彩な敵に立ち向かう経験値を積むことにより、少年たちは強くなる──。
「それで、あちら側とのルートを構築できると思うんだ」
幽霊の言葉に、
「なるほど、ルート2を含む2次方程式で表せるのか、よく気づいたな」
ケートが応じる。
──まえを行く幽霊たちとケートの会話は、あいかわらずわけがわからない。
だが、それが重要な内容をはらんでいる事実は、どうやら認めないわけにいかない。
ともかく頭のいい連中というものは、勝手に好きなことをやらせておくにかぎるのだ。
「フユっちは、商業の友達を探してるんだよね?」
やや後方、声を潜めて問うサアヤ。
「ま、あいつに関してはあたしも、ちょっとは責任を感じてるからな。──キキーモラって悪魔の力を手にしてるはずだぜ」
まえを行く男子の会話について行けないので、チューヤは後方の女子に混ざることにした。
あらかじめ敵の正体がわかっているのは、悪魔使いとしてもありがたい。
チューヤが心のホワイトボードにメモを取っている間、先を行くケートたちの会話も重要な情報をなぞっている。
「……それで宇多田のやつは、どんな状態なんだ?」
ケートの問い。
「どんなもなにも、完全に取り憑かれているとしか言いようがないんだよ」
幽霊1。
「たしかに、むずかしい問題はどんどん解けるようになったんだけど」
幽霊2。
「きっかけは? ボクに数学のテストで負けたことか?」
「ああ、それもあるかも……いや、まあ、おかしくなったのはあの日からだよな」
「そうだね、受験の成功を祈願して、みんなで湯島にお参りに行って以来だ」
まえもうしろも、会話はチューヤに重要な「気づき」を与えてくれた。
とくにまえの会話は、とても「いやな予感」をおぼえさせた。
湯島の悪魔は──あいつか。
「それで、宇多田はどこにいる?」
「変な女の子にストーカーされて、そいつを数理迷宮に落としたまではいいんだけど」
「結局、むこうを落とせば、こっちも落ちるってわけで」
「人を呪わば穴二つってか。自分で掘った迷宮から抜け出せなくなったって?」
肩をすくめるケート。
ため息を漏らす幽霊たち。
「だけど、この世界はゆっくり考えられるからいいって、負け惜しみ言ってたよ」
「ああ。ここに住むどんな悪魔も、自分には勝てないからって」
「その湯島の悪魔ってのは、そんなに強いのか。それで宇多田はどこにいるんだ?」
「そういえばビリヤード部で見かけたかな」
「ちっ。行くぞ、チューヤ」
ふりかえったケート自身を含む空間に、恐るべき「分割」は引き起こされた。
その瞬間、どん、と天井から手のひらが降ってきた。
──ほかに言葉はない。
「手のひらが降ってきた」のだ。
「ああ、部長。また……」
「分割される」
「割り切れる数だから」
「そうだね、ぼくたちも」
幽霊たちが、すーっ、と左右に切り分けられていく。
チューヤ、ケート、幽霊1。
サアヤ、マフユ、幽霊2。
それは、6個のボールが転がる箱のなかに手を入れて、左右に3個ずつ分割して分けた、という作業である。
単純な「分割」が、ゲームを変えていく。




