36 : Day -40 : Shakujii-Kōen
──部室。
いつものように、料理をしているリョージ。
横ではサアヤが助手をしている。
きょうのメニューは「塩ちゃんこ」だ。
月曜日が中華とインドの合作だったので、水曜は日本文化に敬意を表する、ということらしい。
「リョーちんてすごいよねー。ほんとになんでもつくれるんだね」
サアヤがリョージの手元を眺めて感心している。
「ちゃんこは簡単だぞ。混ぜるだけで、だれでもできる」
リョージにはいつも衒いがない。
──基本的に、鍋はそれほど複雑な調理過程を必要としない。
材料を切って、ぶち込み、味をつけて、煮る。
基本、以上だ。
本日は、鶏団子の塩ちゃんこ。
ボウルに材料を入れてスプーンで混ぜ、丸めて鍋に投入するだけなので、手も汚れない。
あとは野菜を入れて煮るだけで、コクのあるスープになる。
シメは柚子胡椒を振った塩ラーメンがよいだろう。
──放課後。
順次、部員が集まってくる。
ガラッ、とドアが開いて、またひとり。
「物理の宿題か」
ケートの声に、チューヤは顔を挙げた。
「ちょーどいいところにきたな、ケート。速さと速度の問題だ。お母さんがスーパーまで500メートルを2分で歩きました。娘さんはバス停まで400メートルを……」
なんだかんだ言いながら、彼は宿題をちゃんとやるタイプだ。
「ガキの宿題はガキがやれ、あほんだら」
荷物を放り投げながら言うケート。
「いや、問題はこの先でな。お母さんは、4分まえに家を出た息子さんが、お弁当を忘れたことに気づきました。E5系加速度で追いかけてくれるプラレールが故障したため、最近、未来からやってきたドラ猫ロボットを使うことにしました。1メートル毎秒毎秒で加速する浮遊加速装置を搭載しています。駅までの1400メートルを、お弁当を届けてもらうため、お母さんはロボットの加速スイッチを入れました」
「なんだその変態的な問題は……」
ケートはあんぐりと口を開ける。チューヤは言い訳がましく、
「いや、もともとは鉄道の問題だったんだよ。キロメートル毎時毎秒の。うちの物理の教師も鉄ちゃんでさ」
「ああ、起動加速度ってやつな」
一般に鉄道の加速度はキロメートル毎時毎秒を使う。
速そうに見えてE5系だな、と言われたら、スロースターター的な意味になる。
ゆっくりと走り出すが、トップスピードはずば抜けているタイプだ。加速がゆっくりのため乗り心地もよい。
一方、路面電車や通勤電車など、頻繁に加速と減速をくりかえす通勤電車では、短時間で速度を上げる必要があるため、起動加速度は比較的高めに取られている。
「鉄道にしろロボットを飛ばすにしろ、メートルとキロメートルだから、単純に1000倍したらいいだけだよな?」
チューヤの問いに、あきれ顔のケート。
「そんなことしたら、とんでもない数字になるぞ。まずシンプルな毎秒毎秒に合わせるんだよ。1メートル毎秒毎秒は、1秒後に秒速1メートル、2秒後に2メートル、3秒後は3メートルになる加速度だ。駅までの距離くらいなら、ごり押しの足し算でも間に合うかもな。で、キロメートル毎時毎秒は、3600秒(毎時)の1000メートル(キロメートル)を計算するから……E5系の加速度は知らんが」
「知らないの!? 通常は1.71キロメートル毎時毎秒で、E3系の併結時には1.6キロメートル毎時毎秒でしょ、常識的に考えて」
だん、と机をたたくチューヤ。
「やかましい、まずその非常識な顔をドブに捨てろ。……1.71なら、0.475メートル毎秒毎秒だから、ロボットのほうが倍以上速いな」
チューヤは、ドブに見立てた部室のシンクに顔面を漬けてからもどってきて、言った。
「すげえ、さすがインド式暗算!」
「んなことより、そのドラ猫ロボットに速度の上限は設定されてないんだろ? 鉄道だと最高速度を設定しないわけにいかないが、空中浮遊のロボットなら、ただし空気抵抗はないものとする、って一文を入れるだけで際限なく加速できる。問題を簡単にするためにそうしたんじゃないのか」
「いや、下のほうの問題では、E5系との速度の差も出ている。おかげで理解した。助かったよケート」
満足げに問題にもどるチューヤ。
ケートは短く嘆息し、
「まったく、宿題くらい自分でやれよ」
「なにー? まだできないの、チューヤ?」
サアヤがテーブルに皿を並べていく。
「おまえもやれよ、宿題! 苦手だろ物理」
「あんなん、できなくても困らないよ」
「困るわ! テストで」
「あとで写させてね」
当面困らなければよい、それがサアヤのスタイルだった。
シメの塩ラーメンが、各自に配られた。
きょうは、なぜか全員、口数が少ない。
各自のシナリオが、いろいろ佳境を迎えているらしいな、という雰囲気をチューヤは感じ取っていた。
かく言う彼自身、最近いろいろ起こりすぎている。
それでも宿題をやっている自分を、褒めちぎってやりたいくらいだ。
まだ、やらなければならない宿題は山積みなわけだが。
「ルーズリーフ落ちてんぞ。……ああ、ケートのか」
床に落ちた紙をチューヤが拾ったところから、つぎの物語は転がりだした。
「ケーたんだね」
「チビだな」
一瞥しただけで、全員の意見が一致する。
「……なんなんだ、キミたちは。名前でも書いてあったか?」
いぶかしそうに問い返すケート。
ノートに名前を書く趣味は、小学生のときに卒業したはずだが。
「名前なんぞ書かれていなくてもわかる」
それは、ミミズののたくったような、日本語とは思えない、恨みのこもった悪魔を召喚する呪文を思わせるがごとき、筆致。
ケートの字が特徴的であることは、周知の事実だ。
「左利きって特殊な字を書くよねー」
柔らかい言い方をするサアヤに、
「右とか左とかいう問題ではありませんね、これは……」
だれよりも美しい字を書くヒナノにとっては、別世界の文字体系。
「けどケート、左利きだと大変だろ、インドで」
リョージの問いに、
「不浄の手だからな」
乗っかるチューヤもそのくらいは知っている。
地球の総人口の10~12%を占める左利き。
よって、6人の鍋部に1人の左利きがいるのは、確率的にはありうる話だ。
ただインド人は、100%右利きに矯正される。宗教上の理由からだ。
たとえどんな体質に生まれても、その後、あらゆる手段をもって右利きに矯正されなければ、インドでは生きられない。
ただしケートは、インド人の乳母に育てられはしたが、アメリカで生まれ育った。
もちろん、そのような矯正を受けてはいない。
ユダヤ人に生まれたからといって、長老派教会の信徒になるとはかぎらないのと同じだ。
むしろアメリカに住むユダヤ人の多くは、民主党を支持する人道主義者であることに誇りをもち、イスラエルを非難するときすらある。
「ケーたん、ピンクのサウスポー♪」
たららららら、と歌いながら回転するサアヤ。
──サウスポーという言葉は野球からきていて、19世紀後半のシカゴで生まれた。
スポーツにおいては、左利きであることは有利になる可能性が高いことから、重視されることも少なくない。
もちろん魔球はハリケーンだ。
「なんだよピンクのサウスポーって。ボクは日本語の縦書きに適応してるんだよ。なぜなら書いた文字がこすれないで済むからだ」
右手で書けば当然、右の行の文字をこすることになる。
よって日本語を含む縦書き文化は、左利きの人間が都合いいように考え出したにちがいない、というのがケートの信念だ。
「まあ画期的」
棒読みチューヤ。
「ケートの場合、縦書き横書き以前の問題だと思うが」
率直なリョージ。
「人間の字じゃねえよな」
マフユさえ。
完全におかしい姿勢で、巻き込むようにペンを握り、奇妙なミミズがのたくる。
ケートの文字は、いろんな意味でおかしい。
「いいんだよ。マーヤ・ママは、それが書きやすいならそれでいいって言ったんだ」
「なんたる親だ。甘やかすにもほどがある」
「天才を育てる最善の方法をとったんだろ。事実、IT系の不可触民は、そんなん気にしないよ。というか、海外でそんなこと言ってるやつ見たことないな」
「あくまで国内法というか因習みたいなもんか」
多文化主義に染まっているチューヤ。
「で、これなんの授業? 象形文字?」
ミステリーなノートを手に取って問うサアヤに、
「どこの高校に象形文字の授業があるんだ!」
半ば本気で突っ込むケート。
「本人は読めているようですから、それはそれですごいとは思いますわ」
ノートの回覧に参加するヒナノ。
考古学者でもむずかしかろう、と彼女は断定している。
「バランス感覚が皆無だよな。左側に大きい字で書くから、右のほうで書けなくなって小さくなる」
つづいて受け取ったリョージも驚きの下手さだ。
「小学生並みだな」
あざ笑うマフユ。
「つぎの行に書けばいいのに、どんどん字のほうを小さくしていって、しまいにはルーズリーフの穴の隙間にまで書き出す。それでも足りないと、行が曲がって縦書きになる」
チューヤの細かい観察に、
「幼稚園児並みだな」
あざ笑うマフユ。
「そもそもミミズがのたくったような字だから、それだけで読みづらいんだよね。そのうえ、こういう謎の体裁をとられちゃうと、解読するのも困難だよねー」
サアヤの追い打ちに、
「謎の古代文字を解読する考古学者の練習問題には、ちょうどいいかもしれませんね」
重ねて腐すヒナノだが、当人にその自覚はない。
黙って聞いていたケートは、ついに立ち上がって机を叩きつけた。
「バカにすんな! 字なんかうまくなくても、伝わればいいだろうが!」
「だから伝わらないんだと……」
両手を挙げるチューヤに、
「どんな字で書いたところで、どうせキミたちには理解できないだろうが!」
だんだん、と机をたたくケート。
「ちなみに、これ、なんの授業? 英語?」
ノートを指して問うサアヤに、
「すべての素数の積が4π2乗であることの証明、っていちばん上に書いてあるわ!」
読もうと努力すれば読めるはずだ、とケートは信じている
ゼータ関数の展開、logとテイラー展開、リーマン・ゼータ関数の導入、オイラーの積公式、ゼータの特殊値の代入──。
書いてあることは非常に興味深いのだが、いかんせん、だれにも読めない。
「数学できる人って、字は汚いよね」
フォローしたつもりのサアヤだが、当を得ているとは言い難い。
「だからそれ以前だ。直線が波打ってて波線に見えるし、1とカンマとiとダッシュが、まったく区別つかないし」
チューヤも理解しようと努力はしている。
「ノートの端に枠みたいなの、たまにつくるよな。書ききれない分を別のところに書いておくんだけど、それが増えて小さく並べちゃったりすると、どういう順番で読めばいいのかわからなくなったり」
リョージも一応、フォローしているつもりのようだ。
「矢印でつないであるだろうが! もういい、よこせ!」
ケートはぷんぷんしながら、暗号化されたルーズリーフを奪い取った。
「まあ、オイラーって字は読めたよ。オイラには理解できないこともわかった」
冗談ぽく笑って言うチューヤ。
するとケートは不意に、真面目な表情でチューヤを見つめる。
他のメンツはともかく、キミには理解してもらう必要がある、とでも言いたげに。
「諦めたらそこで試合終了だぞ、チューヤ。──忘れるな。現に〝無限〟を取り扱う必要はあるんだ。人間の直感では理解しづらい領域を、機械的に矛盾を生まないように定義する、その必要がな。最大の武器が数学だ。あいまいな定義からくる矛盾を解消するためには、絶対に数学が必要なんだ」
文系女子ふたりと、ガテン系男子、あとは退廃的バカ女。
このメンツのなかでは、唯一、分析的マニア気質を多分に含むチューヤだけが、ケートの思想に接近しやすい位置にいる。
数学はある時点から、人間の感覚を越えた領域を取り扱うようになる。
「なんだこれ、おかしいな」と、理性が感じた瞬間から、数学の世界が開始されるのだ。
「いいけどさ、もうちょっと読める字を書けよ」
「ふん。クソの役にも立たないお習字でもやって暇潰してろ、バカどもが」
両手を挙げて切り上げるケート。
一方、切り捨てられた女子らは平然としている。
「あたしより字が下手なやつがいて、それはそれで安心したけどな」
マフユの字は意外に読める。
「ヒナノンってさ、字うまいよねー、飾り文字とか、デザイナーみたーい」
サアヤは特徴的な丸文字だ。
「淑女のたしなみですから。サインして差し上げてもよろしくてよ?」
ヒナノは、まさに「うまい」としか言いようのない字を書く。
きゃいきゃい話し出す女子に背を向け、ケートはチューヤを見つめる。
「ごく近い未来、自然数の総和が収束する結果を、キミたちは見るだろう。そのときに理解しても、いや理解できないだろうが、どのみち手遅れだ」
「あのさ、ケート……」
「答えが知りたいなら、ボクといっしょにこい。目を背けるなら、文系とかいう閉鎖空間で遊んでろ」
どちらかといえば閉鎖しているのは数学のほうだろう、という狭い視点は鼻先で嘲弄される。
その深遠なまなざしの奥深くに隠されている謎の真相が、チューヤにはまだ見えない。
そこでようやく、ケートで遊び過ぎたことを反省したサアヤが、その手からルーズリーフをとりもどして言った。
「ごめんって、ケーたん。私ちゃんとわかってるから。えーと、これがxだね、でこれがyと。ちゃんと見ていくと解読できるね。あー、このヒョロヒョロしたヒゲみたいなやつ、まちがったらちゃんと消さないから見づらいんだよ?」
「古文書みたく言うな! だれがどう見てもインテグラルだろそれは、ライプニッツに謝れ!」
微積法といえばニュートンが知られているが、彼は積分記号を考案しなかったので、ドイツの数学者ライプニッツの演算子インテグラルが採用された。
「積分? なにそれ、食べれるの?」
アホの子らしく、アホ毛をくるりんとまわして、サアヤは言った。
──数学の授業にも変遷がある。
微積は数Ⅱか? いやⅡBだろ。数Ⅲです……などという時点で、世代がばれてしまうこともある。
ゆとりある教育の成果はともかく、普通科でも文系を選択する生徒に合わせて、積分をスルーするところもある。
サアヤ属する国津石神井高校普通科の場合、微積(数Ⅲ)やベクトル(数B)は選択授業になっている。
ちなみにケート属する理系特進の場合、数Ⅲや数Cの大部分は2年生のうちにやり、3年生になると進学先に合わせた徹底的な個別指導が行なわれる。
ケートは量子計算まで進んでいるが、これはじっさい「前期量子論」として高校物理でも出てくる。
ただし本格的な量子力学は、受験範囲ではない。
「けど数学なんて役に立たないよな」
リョージは言ってから、禁句に気づいた。
かちーん! ときたケート。
「バカちんどもめ! 世界は数学でできているんだぞ! そこに座れ、者ども」
こうなるとケートも止まらない。
そのとき天井裏では、数学の悪魔がギラリと目を光らせていた……。




