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 昼休み。

 校長室にやってきたチューヤとサアヤを眺めて、ため息を漏らす校長。


「ここは、きみたちの遊び場ではないのだよ」


 そう釘を刺されても、チューヤの愚痴は止まらない。


「人類で遊んでたのは校長たちでしょうが。なにが、遊ぼう、阿蘇トバで、ですか」


 あそぼう、あそーぼ、あそとぼ、あそとば。阿蘇トバ。

 こうして、神が阿蘇とトバで遊んだ結果、生み出されたのが人類だ。


「そんなアホな!」


 突っ込んであげるサアヤ。


「神は日本人だった、ってどこぞの集団が喜びそうな話っすよね。それで国津石神井高校の校長の座を射止めたわけですな、ずるがしこいねえ、校長」


 絡むチューヤ。


「そんなこと言ったかね、私は……」


 校長は腕時計を眺めて、早く午後の授業がはじまらないかな、と考えているようだ。


「こちとら遊びじゃないんスよ、校長。だっておかしいじゃない。なんで俺ばっかり、そんないろいろやんなきゃいけないのって。校内の平和は、やっぱり校長が率先して守るべきだと思うんですよ」


「しかし数理部の件には、民俗化学部の部員も、たしか絡んでおったろう?」


「よく知ってんね、校長! わが校の恥になるから警察には黙ってたのかな!? じゃあ百歩譲って、マフユに解決させるべきだと思うな俺は、罰として!」


「学校にいないだろう、彼女は。たまにしか」


 困った生徒だ、とため息を漏らす校長。


「鍋の時間にくればいますよ、校長!」


 あんたが入学許可したんだろ! という突っ込みは一応用意してある。

 そのとき、がらりと開いたドアから、


「毎度、カレー南蛮おまち」


 とはいってくる、割烹着の男。

 どこかで見たことがある、と思ったチューヤの背後で、すかさず叫ぶサアヤ。


「モルテンの飼い主! ニルス!」


「あー」


 なんとなく記憶を手繰るチューヤ。

 そういえば、この割烹着とコック帽には見おぼえがある。

 きょうはガチョウは連れていないようだ。


「さっそくバレたようだな。……朴訥亭主、紹介は必要かね?」


 食べる気満々で前掛けをかける校長。


「ふん。さっさと飯にしよう。いつもどおり代金はバックギャモンだ」


 出前の老人は、さしたる興味も示さない。

 勝手知ったる校長室らしく、朴訥亭主と呼ばれた出前の老人は、サイドテーブルに出前の皿を載せた。

 昼間、忙しい時間のはずなのに、こんなところでアブラを売っていていいのだろうか?

 そういえばきょうは、サアヤもアブラを売りに行く日だった。


「朴訥亭って、たしかカレーラーメンが名物の近所の定食屋さんですよね。そういえばリョージが、アイデアをいただいたって言ってました。いいんですか、この昼間時に」


「店は息子がやっているからね、かまわんのだよ」


 どうやら楽隠居という立場らしい。

 旧知の校長のところに昼食を届けるついでに、自分の分も持ち込んでいるところは、たしかになじみのふたりなのだろう。

 サイコロを振る年寄りふたりを眺めながら、チューヤは言った。


「ええと……原初神、ですよね」


「インド亜大陸の鍵なら、わしが持っている。ブラフマーだ」


 指を立てる亭主。

 瞬間、チューヤの常駐するナノマシンに通知がはいった。

 ──魔神ブラフマー(26)の合体制限が解除されました!


悪魔名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅

ブラフマー/魔神/26/前10世紀/古代インド/クツァーヤナ讃歌/西葛西


「おおお! ちょいちょい空白あって気持ち悪かった、低レベル悪魔の制限が」


 喜ぶチューヤに、


「低レベルとは失礼だな。使い手を選ぶ老舗企業とでも呼んでもらいたい」


 定食屋の亭主は、言ってサイコロを振った。


「彼は()()()()()()ことで有名なんだよ」


 遠慮のない物言いの校長。

 テーブルの中央にはバックギャモン、左右に老人がふたり、飯を食いながらサイコロ遊びに興じている姿は、それ自体ほほえましい。

 その堂に入ったありようは、あたかも何億年もまえから、彼らがそうして遊び暮らしてきた姿をほうふつさせる。


「ふん、事実だからな。インドの創造神であるブラフマーなど、いまでは、だれも名を呼ばぬ」


 自虐的な老人に、


「それほどでもなかろうが、たしかにシヴァやヴィシュヌに比べれば存在感はないな」


 若干のフォローを入れてやる校長。

 ──ヒンドゥーには、三神一体トリムールティという思想がある。

 第5のヴェーダと言われる「プラーナ」で説かれている、注目すべき思想だ。


 神話的な起源、系譜、習慣、制度、哲学などを記しており、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが、それぞれ創造、維持、破壊を担っているとする考えである。

 ただし、ヴィシュヌ教ではヴィシュヌが三つの役割を持つし、シヴァ教でも同様に取り扱われる。必ずしもブラフマーでなくてよいわけだ。

 ブラフマーは、ウパニシャッドで中性名詞であった創造原理ブラフマンを男性名詞にして人格神化したものだ。

 したがってこの考え方は、当時人々が信仰していた二大宗教、ヴィシュヌとシヴァに、バラモンが考え出した神ブラフマーを付け足したもの、といえる。


「もともとあった思想を勝手にこねくりまわして、新興宗教のバラモン教徒がでっち上げた神がブラフマー、ともいえるわけだ」


 飯を食う朴訥亭主。


「そもそもブラフマーは、エネルギーそのものを意味していた。本来は神などではなかったのだから、扱いが地味になるのもやむをえんだろう」


 サイコロを振り、駒を移動させる校長。

 ──それでも、第5のヴェーダとまで言われる経典に出てくる思想なのだから、なかったことにするわけにもいかない。

 根本原理ブラフマンの顔を立てる形で、そういう名前の神様も付け加えてあげよう、ということになった。


 もともとヴイシュヌ教徒は宥和的であり、他の宗教の偉人ですら、みずからの宗教の化身に組み込んでしまうようなところがある。なにしろヴィシュヌの9番目の化身が、仏教の開祖ブッダだったりもする。

 最近ではマハトマ・ガンディーやクリシュナムルティも、ヴィシュヌの化身と言われたりするようだ。


 神として最高に人気があるのは、やはりクリシュナである。

 とくに幼児クリシュナが人気で、いたずら好きだが、女たちにもて、たくさんの子どもをもうけて、英雄的な活躍をするが、最後には非業の死を遂げ、ヴィシュヌの天界へ帰る、といったエンターテインメント要素に事欠かない。

 このクリシュナを変なキャラに仕立てては、まかりまちがえば文明の衝突ということにもなりかねない。


「クリシュナか。宇宙の謎を解き明かしそうではないか?」


 さして興味もなげに言う亭主。


「きみの愛弟子といっていいのではないか、あの極端少年は」


 校長は、おそらくケートのことを言っている。

 チューヤは悪魔相関プログラムを脳内に起動しながら、


「原初神には力がないって、ほんとなんですねえ」


 一瞬、動きを止めた校長と朴訥亭主は、なにも言わず、そのままゲームをつづけた。

 彼らにとって、強いとか弱いとかいう考え方は、もはやとうの昔にどうでもよくなっているのかもしれない。

 現状、空間は現世側なので、悪魔の影も形も見えないし、そもそも出現できないわけだが、境界化すれば、おそらくこの割烹着の老人は魔神ブラフマーのスキルを発揮するのだろう。

 それにしても、いますぐチューヤにも使役できるくらい、レベルが低い。


「朴訥亭主! カレーラーメンおくれ!」


 イヌのように、エサを求めるサアヤ。

 しばらく、テーブルの横に立つサアヤを見つめていた亭主は、ちょいちょいと彼女を招き寄せた。

 エサがもらえるらしい、と尻尾を振って近寄るサアヤ。

 直後、両手でしっかとサアヤを抱きしめる亭主。


「愛すべき娘よ」


 直後、チューヤは駆け寄って、サアヤをとりもどした。


「なにしてくれてんすか、うちのサアヤさんに! 校長、神聖な学び舎である高校内で、許しがたい淫行ですぞ」


「えへへー。チューヤ、ヤキモチだー」


「ちがうわ! てか、娘? サアヤ、パパがふたりもいたの?」


「知らなーい。はじめて会ったー」


 あらためて拳を握るチューヤに、亭主は右手を挙げて言う。


「落ち着け、おまえたち。そこな娘、ウパニシャッドの香り漂うゆえ、抱いただけだ」


「抱くな! ウパニシャッド?」


 ブラフマーによれば、こういうことだ。

 ──たしかにヒンドゥーは、ヴェーダを原点とし、この思想的パラダイムを昇華させたインドの土着宗教である。

 ヴェーダ思想の核心は、宇宙における超越的原理、すなわち「ブラフマン」と、自己の内在意識「アートマン」の一致(梵我一如)を究極の目的とする。


「わが校の生徒に手出しはすまいよ、腐れ梵天」


 今回ばかりは校長も、生徒を守る側に立つ。


「でーだらす、おまえもか」


 鼻白んだように、サイコロを手にする亭主。

 彼らの三文芝居はともかく、このヴェーダ思想を利用しているのが、本来はバラモン教=ヒンドゥー教の系脈から分かれて、まったく異なる一派をなしたはずの仏教のうち、最後にやってきた大乗仏教の掉尾、すなわち「密教」である。

 仏教で、それまで「隠されていた教え」こそ、大日如来との一致だ。

 これは、ウパニシャッドの思想そのままなのだ。


「わしという本質を省みず、現世利益を追い求め世俗化したヒンドゥーなどに、もはや、さしたる感興もない。なんだあの顔色のわるい神像ども(ヒンドゥーの神々の表現は一般に青や緑の原色が多い)は。親に首を切られたガネーシャのことかのどこに利益があるのだ。むしろ、そこな娘のまとう密教にこそ、わしの神髄がある」


 その点では、密教は、仏教にとっては異端児ということになる。

 7世紀。ヒンドゥーの勃興に時を合わせ、異端の仏教・密教も産声を上げる。


「大悲廬舎那仏、常恒に三世に住せる一切の身口心の金剛の如来」


 『金剛頂経』によれば、大日如来のことだ。


「あびらうんけん、そわか!」


 思わず応じる程度には、エセ尼サアヤにも、仏教的素養がある。


「内輪揉めをしているのは神学機構ばかりかと思っていたが、仏教とヒンドゥーにも、いろいろあるんだな」


 顎をひねるチューヤ。


「そもそも仏教はインドで生まれたわけだし、まあ、そうなるであろうよ」


 つぶやく校長。

 それでも一神教ほど血みどろの戦いがあったわけではない。

 比較的温厚なのが、多神教(仏教をそう呼んでいいかはともかく)のいいところだ。


「困ったことがあれば、朴訥亭を訪ねるがよいぞ、ウパニシャッドの娘」


「なんかわかんないけど、わかったー。あ、午後の授業はじまるよ、チューヤ。じゃねー、アクマダモン、ボクトツさーん」


 元気に手を振り、校長室を後にするサアヤ。

 さまざまな伏線が、さまざまな方向から絡みついてくるような気がしたが、チューヤの知識ではとうていその深奥を探りえない。

 結局、なるようにしかなるまい……。




 ひさしぶりに、丸一日学校にいた。

 もう、一年分、勉強した気がする。

 疲れ果てて机に突っ伏すチューヤを駆り立てたのは、


「おい、チューヤ! 帰るよ、きょうは鍋ないんだから」


「帰ればいいでしょ。さすがに家と学校の往復くらい、ひとりで平気でしょーが」


 動く気のないチューヤ。


「バイトの店長に紹介してあげるって言ってんの!」


 サアヤの言葉に、


「あ、そういえばそうだっけ。きょう火曜か……」


 むくりと身を起こすチューヤ。

 七人組のアブラ売りバイトに組み込まれたサアヤ。

 どう考えても、これも強力な伏線……いや、むしろメインシナリオであるにちがいない。

 なにしろ物語の重要なヒロインが、主人公をほっぽって、かぎられた貴重な残り時間をバイトなどに費やそうというのだから……。



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