31
「行きたまえ、生徒諸君。きみたちの選んだ道へ」
いつのまにか、四辺に、四つのドア。
それぞれのまえに、仲間たちがいる。
「どこ行くんだ、みんな」
チューヤの問いに、
「どこって」
ぽけーっと応じるサアヤ。
「帰るんだろ」
重なるリョージとケートの声。
「このドアから」
同じくヒナノとマフユ。
「家へ」
すべての声が重なる。
四つの道をたどり、それぞれの家へ帰るんだと。
帰り道は、ひとつじゃない。
回転する部屋に立ち、チューヤは「世界」を見わたす。
どこかのドアから、帰るのだ。
つぎの瞬間、4人の姿が消えた。
彼らは、彼らのドアを開き、境界から元の世界へともどっていった……らしい。
だが、ドアが閉じる音は、まだひとつもしていない。
チューヤは慌てて、いちばん近いドアのほうに駆け寄った。
薄く開いたドアの向こう、長い背中が見える──。
「なんだ、おまえか」
マフユがかすれた声を絞る。
「そんなところでウンコ座りしてんなよ。地方のヤンキーか」
チューヤは足を止める。
「うっせえな、疲れたんだよ。帰るぞ、あたしは」
気だるい表情で、ふらりと立ち上がるマフユ。
たしかに、だいぶ疲れた表情をしている。
彼女の脳は、あまり考えることには向いていない。
それが、さっきからめんどくさい話ばかりを聞かされて、正味の話、辟易しているのだ。
「おまえにだけは、なかなか近づきづらいんだが」
チューヤの足は、根が生えたように動かない。
「あ? 近づいてくれって、だれが言ったよ? むしろ離れろ、男なんか」
ひらひらと手を振るマフユに、
「ですよねー。てかさ、おまえの世界の話。業界ってか、背負ってんだろ、一応」
一応、掘り下げる。
「背負ってねえよ。まあ、どっちかっつったら手を貸すぜ、ってだけだ。兄貴だからな」
マフユが動いているのは、ほとんどロキの掌の上ということだ。
「ダークすぎんだよ、おまえの世界。ぶっちゃけ、正してやりたい」
「お断りだ」
「でしょうね!」
マフユはゆらりと顧みて、うっすらと口角を上げた。
チューヤという人間を、ひさしぶりに対等に眺めた、という気配。
「まあ、言いたいことはわかるさ。ポリの息子じゃ、しゃーねーよな。けど忘れんなよ。腐った警官はもちろん、世の中の大半が、あたしの仲間なんだって」
「大半は言いすぎだろ」
「大半が、抱えているんだよ、心のどこかに、闇をな」
ぎくり、と再びチューヤの背中が揺れた。
彼女の言質は、ときどき心に刺さる。
事実、マフユの世界は盤石の「実力」をもって、世界に少なからぬ影響を、創世の原初から与えつづけているのだ。
「世に悪の種は尽きまじか」
「悪? はん、くだらん決めつけだ。だから、貴様らにはヘドが出る」
マフユの物言いはシンプルだが、アテネのタイモンの昔からつづく「人間ぎらい」の系譜は、そこに複雑で歪曲した、しかも説得力のある理屈を築き上げてきた。
厭世観。悲観論。滅びの美学。
すべて、マフユの道に直結している。
「人類なんか終わるのが当然だろ。クズが」
「まあまあ。そういう思想の人々がいるのは事実だけど、どちらも、それはとても極端だと思うよ」
「ふん」
短く鼻を鳴らすマフユ。
ふと、チューヤは背後に気配を感じて、ふりかえった。
そこにもまだ閉じられていないドアがあり、リョージの背中が見えた。
そのとき背後から、ぱたん、とドアの閉じる音がしたが、チューヤはふりかえらなかった。
ふりかえる資格はない、と思った。
「やっぱ、マフユのつぎにくるのは、リョージだよな。おまえも人類の生存圏を縮小しよう、って思想だろ?」
リョージのほうに一歩を踏み出し、チューヤは言った。
「思想ってほどたいそうなもんじゃないが、まあそうだな。人はもう、地球上に居場所を取りすぎた。そろそろ返すべきだよ、自然の生き物たちに」
リョージはふりかえり、ドアをすこしだけ開ける。
「時代は変わったね。カオスといえば、力こそが正義、世界を混沌に帰すんだ、みたいなアブナイ人々のことだったのに」
そのまま進む気になれず、足を止めるチューヤ。
「いや、返すよ、混沌にな。自然とは本来、混沌なんだ。人類が築いた秩序は、行き過ぎたんだよ。幸い、人類のテクノロジーもじゅうぶんに成熟した。
オレたちはもう、それほど広い土地を必要とはしなくなっている。都市に集中すればいい、野菜はビルでつくれる、たぶん動物性たんぱくも。だから土地は、生き物たちに返そうや」
「リョージ、おまえの道は……」
すばらしく思える、チューヤにも。
「いっしょにくるんだろ? チューヤ」
その笑顔は、あまりにも魅力的だ。
あらためて一歩を踏み出し、しかし決意できずに止まる。
「リョージのオヤジ、ゼネコンだよな?」
「お? ああ、そうだぜ。国土を創る会社だ」
にやり、と笑うリョージ。
──オクテート建設。
東京の地下を掘りまくり、億の暮らせる帝都を創ろうとしている中堅ゼネコンだ。
圧倒的な機能集中型都市。
世界中にシンガポールをつくるようなものだ。人類はそこに集まって暮らし、あとは自然に返せ、というのがリョージの思想であると理解している。
大都市に暮らすかぎりは、一生守ってくれる。
住民に、そう約束できるレベルの安全性を、ある地域にかぎって提供する。
それ以外の地域の安全は、自分で守れ。
そう突き放すことで、住民の意識を変える。
一生安全に暮らしたければ都市へ、安全は自分で守るつもりなら地方で。
そうやって、ゆるやかに人間の流れを変えていく。
「すごい思想だな、それ」
あらためて感心するチューヤ。
「遠大だろ。さすが老先生だよ。百年の大計どころか、千年、万年の都市計画が必要なんだって。それが本来あるべき国家の考え方だとさ。国土うがつ者、すなわち国士たれ」
老先生は、老子『道徳経』から引用して、このように表現した。
鑿戶墉以為室、当其無、有室之用。故有之以為利。無之以為用。
門や窓をうがつことで、家屋は生まれる。家屋は空間があることで、家屋として用いられる。「有」は人の利便にくみし、「無」によってその効用は発揮される。
この老子の考え方は、アメリカの近代建築科フランク・ロイド・ライトにも影響を与えたことで知られている。
オクテート建設は、その考え方をさらに発展させ、億の帝都という思想に到達した。
人の利便を極点まで高めた「都市」を築こう、あとの世界は「自然」に返そう、と。
「なんちゅうか、国士無双な先生だな」
「なんちゅうか、ほんちゅうか!」
日本や中国は、この計画を推し進めるのには向いている「国民性」だという。
体制的に進めやすいのは中国なのだが、技術レベルでまだ日本に優位性がある。
そこで老先生は、日本を実験台にすることにした。
「わるくない選択肢のはずだ。オレも賛成する」
「都市に全人口を集めて、ほかは自然に返す、か。……いや、いいのかもしれない。それ自体、あんまり反対する要素はない気はするよ」
「地方の鉄道に乗れなくなるけどね」
「それな!」
だん、と激しく足踏みをするチューヤ。
しょせん鉄ヲタの考えなど、その程度だ。
「それかよ。そんなもん、自然に消えてるだろ」
「言うな! 俺は泣かないぞ!」
チューヤはリョージを見つめる。
彼の道も、正しいように見える。
彼とともに進んでも、よいのではないか。そのくらい魅力のある考え方だ。
ただ、チューヤの問題点は、ケートと話していても、たしかにそうだ、説得力がある、と思ってしまう点だ。
彼は他人に影響されやすい。
プロレスも、ソシャゲも、完全に他人の影響ではじめ、ハマった。
だが今回にかぎっては、安易に決めていい問題ではない。
しばらく黙ってチューヤを眺めていたリョージは、うっすらと笑みを浮かべ、腕を引いた。
チューヤの目前で、ぱたり、とドアが閉じた。
目のまえにはヒナノが立っている。
思わずその身体を追いかけたくなるが、さすがに自制した。
彼女は誇り高い無表情で彼を迎え、まっすぐに孤高の位置から託宣する。
「神の名を唱えなさい。その唯一の名を」
「お、お嬢」
ふざけた回答のつもりは、当人にはない。
「このドアの鍵は開かれています、世界の半数に対して」
あくまでも孤高のヒナノ。
ぞくり、とチューヤの全身がふるえた。
この物語の主人公はヒナノ。どこかのだれかの言葉が、脳裏をよぎる。。
「お嬢は、どういう思想なの?」
どきどきしながら問うてみると、
「すべてを都市に、という考えは極端すぎるとは思いますが、同じ地球という箱舟に暮らす者として、自然を保護する必要は認めます」
どうやらリョージとの会話も聞いていたらしい。
「なるほど、お嬢の思想は、つまり両極端な世界は拒絶しつつ、中庸を行くと。気が合いそうだね、俺たち!」
調子に乗るチューヤを見つめるヒナノの視線は、
「神の名のもとに、ね」
アブソリュートのように冷たかった。
「無理して合わせようとするな、チューヤ」
背後からの声に、ふりかえる。
「ケート」
そこではドアを大きく開けたまま、ケートがチューヤを見つめていた。
「やつらは古い西欧文明で、世界を塗り上げるつもりなんだ。一神教っていうアイデアは事実、世界の半分を塗っちまった」
ケートがヒナノを批判するのは、いつものことだ。
「新しいものが正解とはかぎりませんよ。あなたの世界こそ、どうなのですか?」
いつものように、背後からはヒナノの反駁が聞こえる。
ケートはゆっくりと視線を挙げる。
チューヤを境にして、巨大な組織をバックに屹立する両者が対峙する。
ケートの道と、ヒナノの道。
「箱舟の話なら、まさにそれが答えだろう、お嬢。キミらは、自分たちに都合のいい動物だけをひとつがい、選んで船に乗せたんだろう?
自分たちに都合のわるいものどもは絶滅しろ、と聖書に書いてある通りだよ。ただ、ボクたちは別の聖書を読んでいる、ってだけだ」
「別の聖書?」
「科学、なかんずく数学だよ。世界は数学の言葉で書かれている、って名言の通りだ。紆余曲折はあったが、結局はこれが答えなんだよ。
科学がやりたいことは、全部やらせてやれ。
地球を自然に返す? はっ、ちゃんちゃらおかしいな。地球は、もう人類がつくり変えて、すべて都合の良い形に更新しちまうべきなんだ。自然? そんなものは、もうないんだよ。いや、新しい自然を人類がつくるんだ」
瞬間、その言葉にひそむ極端さに、チューヤはゾッとした。
ある種、マフユの思想に接したときに近い恐怖だった。
これは、彼の思考がゆがんでいるためではない。むしろ鋭敏に、本質を的確にとらえているからこそだ。
ケートとヒナノの思想も鋭く対峙してはいるが、同時に両極端と思われるケートとマフユの思想が、異常に接近する瞬間がある。
ただ、言葉の一部を置き換えるだけでいい。
それだけで、対極であるはずの道が、並行することもある──。
「似て非なるもの、ということかな」
校長のかすれた声が、場をまとめるように低く響いた。
ぱたん、ぱたん……。
ドアがふたつ、同時に閉じる音がした。
チューヤははっとして、周囲を見まわした。
せきをしても、ひとり……。
「犀の角のように、ただ独り歩め」
どこかから、そんな声が聞こえた気がして、部屋の中央、チューヤは立ち尽くした。
「……サアヤ?」
「って、ゴータマさんが言ってたよ」
にっぱり笑う、サアヤがそこにいる。
考えてみれば、彼女の背後にも「勢力」はあるのだ。
「そうか、仏教か」
日本は「仏教国」である、と主張する人々は少なくない。
チューヤ自身は、八百万の神道に近いはずだ(悪魔使い的に)という気がするが、どこかの先祖や親戚が仏教徒であったことも、かなりあった。
じっさい実家を含めた葬儀万般は、ほぼ例外なく仏教式だった。
しかし初詣をする自分の姿を「しっくりくる」と感じているし、八百万かどうかはわからないが、この世には神さまがたくさんいる、とも思っている。
日本人としての最大多数の領域に、たしかに彼は立つだろう。
──日本史において、キリスト教やイスラームは無視できても、仏教を無視することはできない。
神仏習合は、たしかにある種の「答え」である。
「だれひとり、選ばなくても、私はそばにいるよ。ねえ、そうでしょチューヤ」
そうなのだ。
サアヤという道が、あまりにもあたりまえすぎて忘れていたが、たしかにここに、つねに開けている。
彼女の言葉を聞いた瞬間、チューヤは心から安心した。
その事実を否定するつもりはないが、同時に、曰く言い難いべつの思いも、全身を駆け巡っていることを感じないわけにいかなかった。
昔から、一心同体で、兄妹のようにしか思っていなかった時期が、とても長い。
いろいろ混ざった怪しげな念仏を唱える、サアヤの魔女おばあちゃんと笑い合った記憶もある。
違和感は、ほとんどなかった。
世界をどちらにもどすとか、進めるとか、唯一の神の名を呼ぶとか、欲望を認めるとか、そういう高邁で原理的な思想をすべて捨象したところに、サアヤの笑顔を見つけたら、反射的にその手をつかんでしまっても異とするにはあたらない。
そんな彼女の言葉を虚心坦懐に受け止めつつ、チューヤは言った。
「ゴータマさん、か。そうだな、たしかにゴータマさんの思想には、共感する部分が多い」
そうやって学んだ高校生は、やがて、この世と、かの世とを、共に捨て去る。
蛇が脱皮して、古い皮を捨て去るようなものである。
──ぞわり、とチューヤの背筋が震えた。
ゴータマさんのむこう側に、開けている道が一瞬、見えた気がした。
それは永劫への回帰か、あるいは破滅の門か──。




