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パンデモニカ / PanDemonicA  作者: フジキヒデキ
それとも人間やめますか?
219/384

23


「禅定門をくぐったであろう」


 そういえば丘のふもとで、そのような朽ちた門をくぐった気はする。

 いや、朽ちていたので、くぐったのか横を通り過ぎたのかはわからない。


「仏教徒の世界なの?」


 サアヤのアンテナがピヨっている。

 一応、彼女にも仏教徒の自覚はあるらしい。


「禅門をくぐった以上、覚悟を決めてもらおう。そもさん!」


「せ、せっぱ!」


 サアヤは、仏教徒だからというより、昭和のアニメでこのくだりを知っていた。

 ともかく空気として、「そもさん」と言われたら「せっぱ」と答えなければいけないのだ。


「僧、曹洞に問う。如何なるかこれ仏」


 仏とはなにか。またざっくりとした問いだ。


「サアヤんち曹洞宗だっけ?」


「うちは父方が浄土系で、母方が禅系だよ」


 いずれも日本では有力な派閥だ。

 日本史において、廃仏毀釈などのムーブメントは適宜あったものの、日本に暮らしているかぎり「檀家」の呪いから免れることはむずかしい。


「禅僧の魔女ってのもまたシュールだな。答えてやりなさい、サアヤさん!」


「ええと、その……南無……」


 手で丸をつくり、それからアカンベーをした。


「それ『蒟蒻問答』じゃないのか」


「よく知ってるな、マフユのくせに」


「あたしは古今亭志ん生が好きなんだよ」


 マフユの落語好きの背後にある悲しい話を、ここで語っている間はない。

 はっ、として瞑目大悟するナーガラジャ。

 どうやら第一問は合格のようだ。


「そもさん!」


「もう、せっぱ!」


「如何なるこれ仏法の大意」


 仏法で肝心かなめなところは、なんでしょうか?

 これもまた、ざっくりしている。

 ──いわゆる禅問答。

 はたからは、なにを言っているかわからない。


 チューヤは手近の枯れ木と石を集めて、ポクポクポクとやっている。

 チーン、と鼻をかむマフユ。

 地団太を踏むサアヤ。


「もう、ふざけないで! みんな協力して考えてよ!」


「そもさん!」


「ひゃああ!」


 突然、目前に現れたナーガラジャの顔面を、思い切りひっぱたくサアヤ。

 ざわっ、と揺れるナーガの群れ。

 ナーガラジャは周囲を抑え、殴られた自分の頬に手を当て、考える。


 ──『碧巌録』にみる公案の例。

 第三十二則、定上座臨済に問う。

 定上座、臨済に問う。如何なるこれ仏法の大意。

 済、禅床を下って擒住し、一掌を与えてすなわち托開す。

 定、佇立す。

 傍僧云わく、定上座、なんぞ礼拝せざる。

 定、礼拝するにあたって、忽然として大悟す。


 ひとりの修行僧が臨済和尚に尋ねた。

「仏法の肝心要のところは何でしょうか」

 臨済は座っていた椅子から下り、その修行僧の胸ぐらを摑んで横顔に張り手をすると、何も言わずに突き放した。

 修行僧はぽかんとしたまま立ち尽くしている。そこで傍にいた別の僧が言った。

「臨済老師はもうお答えになりましたよ。なぜ礼拝しないのですか」

 修行僧はあわてて礼拝をした。礼拝をする最中に、修行僧は悟った──。


 悟ったナーガラジャは、静かに引き下がった。

 どうやらサアヤが、さっきから正解を出しているらしい。

 チューヤはいぶかしげに問いかける。


「なんで知ってんの?」


 いまさらながら自分が正解を出したことを理解したサアヤは、胸を張って言った。


「近所の和尚に教わった」


「サアヤさんの謎っぷりは果てしないですね!」


 サアヤが近所の和尚にいろいろ教わっていることは事実だ。

 格闘家でもある和尚から教わったのは護身術なのだが、合間に仏教の講義を聞くともなしに訊いてはいた。

 同じ場所に、「中尾先生」も居合わせた。

 が、それはサアヤの知る中尾先生ではなかった。ナーガラジャとしての人格に侵食されたのか、あるいは別の理由か、表情にいつもの冴えがない。

 周囲のナーガたちにしても、なにやら動きが不穏だ。


「おまえたちは、闇の者どもではないのか……」


 ナーガラジャの問いに、顔を見合わせるチューヤたち。

 一瞬、考えてからサアヤは答えた。


「こちとら中庸を突き進むよ!」


「なに。闇の女帝ではないのか」


「一部そうだが、俺らはくみしない」


 チューヤとサアヤは、ニュートラルという自分の立場を闡明した。

 ナーガたちの視線が、その横にいるマフユに集まる。

 彼女はあきらかに「悪魔」化している。もちろん相手も悪魔なのでお互いではあるのだが、属性が異なる事実は揺るがない。


 ──中観派、ナーガルジュナの思想は、徹底した相互依存性、相対化だ。

 仏教思想の二大学派の一翼を成している。

 要するに「一切が空(無)」という思想だ、と反対派からはネガティブに評される。

 じっさい古代インドの時代から、いわゆる虚無主義者という目で見られることが多かった。


 日本の宗派で中観派の系譜にあるのは、密教系や天台宗になるが、かなり日本風にアレンジされてしまっていて原形をとどめない、という説もある。

 欧米における、いわゆる「否定神学」に通じる。

 ここにヒナノやケートがいれば、たいへんな神学論争を展開したことも考えられるが、幸い、ここには頭のわるいほうから数えたほうが早い面々しかいない。


「……不快な意思を感じた」


「サアヤもか。なんだろうな」


 気にするな。

 ──ともかく、ナーガラジャはチューヤたちが、自分たちと同じ流れを汲むことを理解した。

 そして、マフユだけが異なる流れにあることも。


「よかろう。全員を殺せとの指令だが、おまえたちは助けよう。その代わり、その細長い女の命だけを捧げるがよい」


「……は?」


 ケートなら即座に了承しただろうが、チューヤたちではそうはいかない。

 おまえたちの命を助ける。ただし、ひとりだけ仲間の命を差し出せ。

 平たくいえば、そういうことだ。


「それは無理だよ、ねー」


「ならば全員、死ぬか」


「……なんだ、欲しいのはあたしの命だけかよ。なら、かかってこい。こいつらは邪魔だ、帰らせろ」


 マフユが一歩を踏み出した。

 ひらひらと手を振って、チューヤにサアヤを連れて帰れと言っている。

 彼女はひとりでも戦う。むしろ戦いを欲している。

 チューヤは迷った。何度か交渉の余地を探したが、結論は揺るがないようだ。


 ──シナリオ分岐。

 このままサアヤを連れて帰るか?

 バカらしい、と一蹴した。考えるだけ時間の無駄だ。


「やるか、サアヤ」


「しかたないねー、そんな無茶言われたら、お釈迦さまの顔もサンドバッグだよ」


 どうやら仲間たちは、自分を見捨てないようだ、と理解したマフユ。

 薄く唇をゆがめて笑い、


「ちっ、足手まといになるんじゃねーぞ。……いくぞ、ゴラァ!」


「南無八幡大菩薩」


 祈るナーガラジャ。

 相手の成仏を願うつもりか、それとも結果的にみずからの墓標に捧げる念仏か。

 戦いは再開した──。




 ナーガラジャは、本来、敵対的な存在ではない。

 だが今回、たまたまベルゼブブの魔力に取り込まれて、敵対した。

 本来、賢明な仏教哲学者であるナーガルジュナは、サアヤとの親和性が高い。

 しかし醸し出された仏教的な空気は、闇の女王の一撃によって粉砕された。


 チューヤたちも奮戦したが、なによりマフユの活躍はすさまじかった。

 蛇の攻撃速度が桁外れであることは、よく知られている。なにより0.1秒で時速100キロに達するほど頭部を加速させても気を失わない、その「攻撃本能」はすべてを破壊する。

 蛇は筋肉の塊であり、どのようにその動きを連動させているのか、まだよくわかっていない。その瞬発力は、ある意味、進化の頂点に達している。


 空飛ぶ蛇、カワサキのケツァルは、ついにナーガラジャの心臓にその腕を突き立てた。

 錐のように刺さる腕、噴き上げる鮮血、これが「殺し合う」ということ。

 目を背けるサアヤ。

 マフユの目くばせの意味を察したチューヤが、マフユとサアヤの間にブラインドとして立つ。

 つぎの瞬間、マフユの口が大きく開いた。


 カパア。


 それは人間の顎ができる動きではない。

 蛇は顎や胸の骨格を広げ、自分の身体よりも大きなものを呑み込む。

 ……彼女は喰った、ナーガラジャを。

 文字通り、捕食したのだ。


 とっくに人肉のタブーも乗り越えているマフユだが、もともと中尾という人間だったかどうかはともかく、現状はナーガラジャという悪魔と一体化している。

 その人間を、人間ではなく悪魔であると規定すれば、「捕食対象」と考えても放送倫理機構に怒られることはないかもしれない。

 だが、それにしても「敵を食う」というのは、あまりにもリアルだ。

 人類のカルマとはいえ、きれいごとでは済まされない。


「もらったぜ、てめえの力」


 ごくり、と呑み込むマフユ。

 身体全体ではなく、臓物の枢要を食っただけだ。

 直後、マフユの背中のガーディアンが切り替わった。

 どうやらマフユは、こうして強制的に新たなガーディアンを獲得するスタイルらしい、とチューヤは理解した。


「お、おまえ、いつもそんなふうにガーディアン増やしてたのか」


「いつもじゃねえよ。何度かだ」


「まだ何度かしかガーディアン付け替えてないだろうに、もう何度かかよ!」


「蛇のキモは、精がつくぜ?」


 マフユが、下からなにかを引っこ抜くような動きと同時に、地面から、さっき敵が使ってきたトゲが突き出した。

 危ないところでチューヤをかすめるトゲ。


「おわっ! 危ないじゃないか、マフユ!」


「ちっ、はずしたか」


「狙うな!」


 もちろんナーガラジャを食った以上、そのスキルも身につけている。

 マフユはこうして、人間をやめる力を積み上げてきたのだ。

 これまでも、これからも──。



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