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「禅定門をくぐったであろう」
そういえば丘のふもとで、そのような朽ちた門をくぐった気はする。
いや、朽ちていたので、くぐったのか横を通り過ぎたのかはわからない。
「仏教徒の世界なの?」
サアヤのアンテナがピヨっている。
一応、彼女にも仏教徒の自覚はあるらしい。
「禅門をくぐった以上、覚悟を決めてもらおう。そもさん!」
「せ、せっぱ!」
サアヤは、仏教徒だからというより、昭和のアニメでこのくだりを知っていた。
ともかく空気として、「そもさん」と言われたら「せっぱ」と答えなければいけないのだ。
「僧、曹洞に問う。如何なるかこれ仏」
仏とはなにか。またざっくりとした問いだ。
「サアヤんち曹洞宗だっけ?」
「うちは父方が浄土系で、母方が禅系だよ」
いずれも日本では有力な派閥だ。
日本史において、廃仏毀釈などのムーブメントは適宜あったものの、日本に暮らしているかぎり「檀家」の呪いから免れることはむずかしい。
「禅僧の魔女ってのもまたシュールだな。答えてやりなさい、サアヤさん!」
「ええと、その……南無……」
手で丸をつくり、それからアカンベーをした。
「それ『蒟蒻問答』じゃないのか」
「よく知ってるな、マフユのくせに」
「あたしは古今亭志ん生が好きなんだよ」
マフユの落語好きの背後にある悲しい話を、ここで語っている間はない。
はっ、として瞑目大悟するナーガラジャ。
どうやら第一問は合格のようだ。
「そもさん!」
「もう、せっぱ!」
「如何なるこれ仏法の大意」
仏法で肝心かなめなところは、なんでしょうか?
これもまた、ざっくりしている。
──いわゆる禅問答。
はたからは、なにを言っているかわからない。
チューヤは手近の枯れ木と石を集めて、ポクポクポクとやっている。
チーン、と鼻をかむマフユ。
地団太を踏むサアヤ。
「もう、ふざけないで! みんな協力して考えてよ!」
「そもさん!」
「ひゃああ!」
突然、目前に現れたナーガラジャの顔面を、思い切りひっぱたくサアヤ。
ざわっ、と揺れるナーガの群れ。
ナーガラジャは周囲を抑え、殴られた自分の頬に手を当て、考える。
──『碧巌録』にみる公案の例。
第三十二則、定上座臨済に問う。
定上座、臨済に問う。如何なるこれ仏法の大意。
済、禅床を下って擒住し、一掌を与えてすなわち托開す。
定、佇立す。
傍僧云わく、定上座、なんぞ礼拝せざる。
定、礼拝するにあたって、忽然として大悟す。
ひとりの修行僧が臨済和尚に尋ねた。
「仏法の肝心要のところは何でしょうか」
臨済は座っていた椅子から下り、その修行僧の胸ぐらを摑んで横顔に張り手をすると、何も言わずに突き放した。
修行僧はぽかんとしたまま立ち尽くしている。そこで傍にいた別の僧が言った。
「臨済老師はもうお答えになりましたよ。なぜ礼拝しないのですか」
修行僧はあわてて礼拝をした。礼拝をする最中に、修行僧は悟った──。
悟ったナーガラジャは、静かに引き下がった。
どうやらサアヤが、さっきから正解を出しているらしい。
チューヤはいぶかしげに問いかける。
「なんで知ってんの?」
いまさらながら自分が正解を出したことを理解したサアヤは、胸を張って言った。
「近所の和尚に教わった」
「サアヤさんの謎っぷりは果てしないですね!」
サアヤが近所の和尚にいろいろ教わっていることは事実だ。
格闘家でもある和尚から教わったのは護身術なのだが、合間に仏教の講義を聞くともなしに訊いてはいた。
同じ場所に、「中尾先生」も居合わせた。
が、それはサアヤの知る中尾先生ではなかった。ナーガラジャとしての人格に侵食されたのか、あるいは別の理由か、表情にいつもの冴えがない。
周囲のナーガたちにしても、なにやら動きが不穏だ。
「おまえたちは、闇の者どもではないのか……」
ナーガラジャの問いに、顔を見合わせるチューヤたち。
一瞬、考えてからサアヤは答えた。
「こちとら中庸を突き進むよ!」
「なに。闇の女帝ではないのか」
「一部そうだが、俺らはくみしない」
チューヤとサアヤは、ニュートラルという自分の立場を闡明した。
ナーガたちの視線が、その横にいるマフユに集まる。
彼女はあきらかに「悪魔」化している。もちろん相手も悪魔なのでお互いではあるのだが、属性が異なる事実は揺るがない。
──中観派、ナーガルジュナの思想は、徹底した相互依存性、相対化だ。
仏教思想の二大学派の一翼を成している。
要するに「一切が空(無)」という思想だ、と反対派からはネガティブに評される。
じっさい古代インドの時代から、いわゆる虚無主義者という目で見られることが多かった。
日本の宗派で中観派の系譜にあるのは、密教系や天台宗になるが、かなり日本風にアレンジされてしまっていて原形をとどめない、という説もある。
欧米における、いわゆる「否定神学」に通じる。
ここにヒナノやケートがいれば、たいへんな神学論争を展開したことも考えられるが、幸い、ここには頭のわるいほうから数えたほうが早い面々しかいない。
「……不快な意思を感じた」
「サアヤもか。なんだろうな」
気にするな。
──ともかく、ナーガラジャはチューヤたちが、自分たちと同じ流れを汲むことを理解した。
そして、マフユだけが異なる流れにあることも。
「よかろう。全員を殺せとの指令だが、おまえたちは助けよう。その代わり、その細長い女の命だけを捧げるがよい」
「……は?」
ケートなら即座に了承しただろうが、チューヤたちではそうはいかない。
おまえたちの命を助ける。ただし、ひとりだけ仲間の命を差し出せ。
平たくいえば、そういうことだ。
「それは無理だよ、ねー」
「ならば全員、死ぬか」
「……なんだ、欲しいのはあたしの命だけかよ。なら、かかってこい。こいつらは邪魔だ、帰らせろ」
マフユが一歩を踏み出した。
ひらひらと手を振って、チューヤにサアヤを連れて帰れと言っている。
彼女はひとりでも戦う。むしろ戦いを欲している。
チューヤは迷った。何度か交渉の余地を探したが、結論は揺るがないようだ。
──シナリオ分岐。
このままサアヤを連れて帰るか?
バカらしい、と一蹴した。考えるだけ時間の無駄だ。
「やるか、サアヤ」
「しかたないねー、そんな無茶言われたら、お釈迦さまの顔もサンドバッグだよ」
どうやら仲間たちは、自分を見捨てないようだ、と理解したマフユ。
薄く唇をゆがめて笑い、
「ちっ、足手まといになるんじゃねーぞ。……いくぞ、ゴラァ!」
「南無八幡大菩薩」
祈るナーガラジャ。
相手の成仏を願うつもりか、それとも結果的にみずからの墓標に捧げる念仏か。
戦いは再開した──。
ナーガラジャは、本来、敵対的な存在ではない。
だが今回、たまたまベルゼブブの魔力に取り込まれて、敵対した。
本来、賢明な仏教哲学者であるナーガルジュナは、サアヤとの親和性が高い。
しかし醸し出された仏教的な空気は、闇の女王の一撃によって粉砕された。
チューヤたちも奮戦したが、なによりマフユの活躍はすさまじかった。
蛇の攻撃速度が桁外れであることは、よく知られている。なにより0.1秒で時速100キロに達するほど頭部を加速させても気を失わない、その「攻撃本能」はすべてを破壊する。
蛇は筋肉の塊であり、どのようにその動きを連動させているのか、まだよくわかっていない。その瞬発力は、ある意味、進化の頂点に達している。
空飛ぶ蛇、カワサキのケツァルは、ついにナーガラジャの心臓にその腕を突き立てた。
錐のように刺さる腕、噴き上げる鮮血、これが「殺し合う」ということ。
目を背けるサアヤ。
マフユの目くばせの意味を察したチューヤが、マフユとサアヤの間にブラインドとして立つ。
つぎの瞬間、マフユの口が大きく開いた。
カパア。
それは人間の顎ができる動きではない。
蛇は顎や胸の骨格を広げ、自分の身体よりも大きなものを呑み込む。
……彼女は喰った、ナーガラジャを。
文字通り、捕食したのだ。
とっくに人肉のタブーも乗り越えているマフユだが、もともと中尾という人間だったかどうかはともかく、現状はナーガラジャという悪魔と一体化している。
その人間を、人間ではなく悪魔であると規定すれば、「捕食対象」と考えても放送倫理機構に怒られることはないかもしれない。
だが、それにしても「敵を食う」というのは、あまりにもリアルだ。
人類のカルマとはいえ、きれいごとでは済まされない。
「もらったぜ、てめえの力」
ごくり、と呑み込むマフユ。
身体全体ではなく、臓物の枢要を食っただけだ。
直後、マフユの背中のガーディアンが切り替わった。
どうやらマフユは、こうして強制的に新たなガーディアンを獲得するスタイルらしい、とチューヤは理解した。
「お、おまえ、いつもそんなふうにガーディアン増やしてたのか」
「いつもじゃねえよ。何度かだ」
「まだ何度かしかガーディアン付け替えてないだろうに、もう何度かかよ!」
「蛇のキモは、精がつくぜ?」
マフユが、下からなにかを引っこ抜くような動きと同時に、地面から、さっき敵が使ってきたトゲが突き出した。
危ないところでチューヤをかすめるトゲ。
「おわっ! 危ないじゃないか、マフユ!」
「ちっ、はずしたか」
「狙うな!」
もちろんナーガラジャを食った以上、そのスキルも身につけている。
マフユはこうして、人間をやめる力を積み上げてきたのだ。
これまでも、これからも──。




