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「……あたしはもう、とっくに人間じゃねえんだよ」
ギロリ、と睨むマフユの目は、あきらかに爬虫類だ。
──人間をやめる。
薬物依存防止のキャンペーンとして有名なキャッチコピーだが、薬物依存から回復しようとしている人間まで「ヒトをやめたゾンビのようなもの」と扱うのはいかがなものか、という指摘がある。
言葉尻に噛みつきたがる社会学者ならではの指摘だが、人間であることを証明するのはなかなかむずかしい。
サイコパスも、人間といえば人間だろう。
彼女は人間をやめたかもしれないが、みずから望んでそうしようとする人々もいる。
超人への進化と、依存心理、社会規範と倫理、オーバーテクノロジーなど──絡み合った諸問題は、それぞれが答えを出すべき「自由な選択」だ。
マフユが、マフユの答えを出したように。
「マフユ、おまえ」
チューヤは、いまだ声の震えを隠せない。
「サアヤが怖がるから、化けの皮1枚かぶってっけどな。──これがタイプRだ。おまえなら、わかんだろ」
現状、見た目はマフユだ。
──全人類に適用を拡大した悪魔相関プログラム「ARMS」。
チューヤをはじめとするタイプS(悪魔使い)は、進化した悪魔召喚プログラムを用いる(サモナー)が、マフユをはじめとするタイプRは、自分の肉体を改造する「リフォーマー」として、自己にプログラムを適用している。
他のタイプが魔法やスキルを「学習」するのと同様、タイプRの肉体改造者は、物理的な「変身」を蓄積する(上書きされる場合もある)。
改造された肉体は、もとにはもどらない。
異世界線における変更なので、現世側でその変化を見ることはできない(現世に悪魔が物理的に出現できないように)が、境界では変更(強化)を適用できる。
逆に言えば、現世側の「化けの皮」をまとったまま行動することも、一応は可能だ。
「だけどまだ、人間っちゃ人間だろ」
チューヤの見たかぎり、一応はそう言える。
「まーな。まだギリ、人間の姿かたちは保ってる。だが、いつまで見ればわかる状態でいられっかな」
とくに、わからなくなっても悔いはなさそうな口調だった。
女は「変身」に対する拒否反応が、あまりない。
美容整形手術というものが人口に膾炙する以前から、彼女らは「化粧」という変身経験を積み重ねてきた。自然のまま、ありのままなどという「ただの言葉」がキレイゴトに過ぎない事実を、だれよりも知っている。
さまざまな文化において、女が「景品」「トロフィー」として扱われてきた歴史も、その信念を支えている。
売り払われた先、獲得者の好みに合わせて「染まる」ことは、女にとって必要不可欠の処世術だった。
もちろん男も、不自然な筋肉増強などに走る者は少なくない。
くりかえされてきた入れ墨や抜歯などの太古の文化からも、証拠は十二分だろう。
人類は、変身を求めているのだ。
「あっれはー、だれっだ、ダメだ、だけど、あれがーフユっち、であればー、デビーウマーン♪」
サアヤの歌声が、状況にピタリとくる。
彼女は、皮をかぶっていないマフユを直視してはいないはずだが、それでもある程度、察するところはあるのだろう。
その歌声のおかげで、問題の深刻さがやや拭えた。
もちろんマフユは裏切り者であり、すべてを捨てて戦う女だ。
……なんのために?
それはわからない。
すくなくとも最大の問題は、悪魔の力を身につけた、邪悪なヒロインであることだ……。
視界が開け、新しい地平が広がった。
開発前の石神井公園を思わせる練馬の曠野には、貯水池に水源を供給する広い丘が広がっていた。
「もうアンテナに頼る必要はないみたいだぜ」
マフユに皮肉のつもりはない。
地面を見れば、なにかを引きずったような跡。
死のルートが、この先に伸びている。
見上げれば、丘の頂。
十字架ならぬ三角木馬に縛られているのは、ブブ子。
「どういう状況だろ……」
唖然とするサアヤ。
「あの男子が、ブ……部長をさらって、木馬にまたがらせてるんじゃないかな」
チューヤの見るかぎり、そうらしい。
ひとりの男子生徒が、ブブ子をさらって丘を逃げたことから、このミッションはスタートした。
途中、それなりの冒険活劇をはさんで、丘の頂上まで達した。
そこには、おそらく男子生徒が引きずってきたのだろう三角木馬と、それに縛られた獲物のブブ子。
「部長は、撫子部長は、ぼくのものだァアーッ!」
と、気が狂ったように叫んでいる姿だけを見ても、そのような展開を当てはめるのがもっとも妥当であろう。
それを眺め、全身にサブイボを立てるマフユ。
「男なんて絶滅すりゃいいんだ」
「あの男については、絶滅させてやることに賛成するよ」
悪魔を召喚し、戦陣を整えるチューヤ。
ようやく、邪魔者の存在に気づいた男子が、ゆらり、と好色な視線を憎悪に変えてチューヤたちを凝視する。
彼の影に浮かび上がる悪魔の姿が、チューヤのアナライザにもはっきりと見えた。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
インキュバス/夜魔/12/中世/ヨーロッパ/古代ローマ神話/十条
ヨーロッパ各地の伝承に残る男性型の夢魔。女性型のサキュバスと対をなす。
眠っている女性の夢に忍び込み、子供を身籠らせるという。また生まれた子供は悪霊や魔女などであるとされる。
インキュバスに取りつかれたら教会で祈祷を受けると良いとされるが、それでも追い払うだけで、退治まではできないという。
木馬の上から、縛られたブブ子が声を張り上げる。
「約束通り、助けにきてくれたですね! がんばるですよ、中谷部長」
「なんだよ部長って。おまえ、いつのまに会社員になったんだ」
つまらないことに引っかかるマフユ。
「また忘れてんのかよ! 俺、鍋部の部長だぞ!」
つまらないことに突っ込むチューヤ。
「ほら、敵きたよ!」
大事なことを思い出させるサアヤ。
「部長は、撫子部長は、ぼくのものだァ!」
叫ぶとともに、手足の衣服がはじけ飛ぶ。
おそらく彼の性欲が、すべて魔力に変換されている。
これから部長にイタズラをしたい、という欲望が、さらにその魔力を増強している。
世界標準で見ても、中高生男子の性欲ほど恐ろしいものはない。
「インキュバス山田ですよ。山田はインキュバスに魅入られているですよ!」
叫ぶブブ子。
山田はオカルト同好会の数少ない部員のひとりであったが、部長に心酔するあまり、その性欲の暴走を抑制できなくなり、ついに悪魔の手先となって彼女を拉致監禁暴行することに心を決めたらしい。
「どこぞのAV監督みたいな名前だな」
記憶の底を探るチューヤに、
「メッメ! AVとか、メッメ!」
苦情申し立てるサアヤ。
AVから悪魔に感染し、部長を餌食にするまでに成長した、今夜の山田。
彼が見たAVの数だけ、無数のインキュバスが影となって出現し、周囲を取り囲む。
おそるべき精臭に気が遠くなる。
レベルも数も、桁ちがいの様相だ。
強化された悪魔に初期レベルが関係ないことは、ミルメコレオの例でもあきらかだ。
「男子だからしょうがない、とは思うが……」
このレベルの性欲には、チューヤもさすがに引く。
「どっちの味方だ、てめえ! ともかくぶっ殺すぞ、オラァ!」
世界の全男子をぶっ殺す勢いで、マフユが先行した。
とにかく彼女は自由に戦う。
その戦闘力は侮れず、チューヤはいつも通り、状況に適応しつつ利用することにした。
陣容を組み替え、それぞれに指示をする。
「前衛、マフユを援護! 中盤、戦端を維持、分断に気をつけろ!」
悪魔を使わせれば、まあまあイケている。
「私は?」
うろちょろするサアヤ。
「サアヤ、いつも通り!」
人間を使うのは下手だ。
「テキトーだなおい」
「言っても聞かないくせに!」
やかましい後方を無視して、マフユは自由に戦っている。
憎むべき「男」を、つぎつぎとぶちのめす。それ自体、彼女にとって快感。
「あーっはっは! 死ね死ね、死んじまえ! てめえらに生きる価値はねえ!」
あっというまに、その両手が血に染まる。
いや、両手どころか、全身にインキュバスとそれに取り憑かれた男子生徒の血が、雨のように降り注ぐ。
マフユにとって、男もオスもメールも、すべて滅殺すべき敵だ。
まちがえて自分が殺されないかとチューヤは心配したが、その犠牲になってから「まちがってねえよ」と言われそうな気もして、さらにゾッとした。
戦いは過酷だったが、ほどなく決着はついた。
人間の仮面を剥いだマフユの戦闘力は、いつもながらすごい。
チューヤのアナライザ上、敵の体力はほぼ0に近い。
戦闘は終わろうとしている──。
「終わりだ、山田。くたばんな」
狂気の目でトドメを刺そうとするマフユを止めたのは、サアヤだった。
「ダメだよフユっち、わるい子かもしんないけど、殺したら」
できるだけ殺さない、それが彼女の生きる道。
「ああん? またそれかよ、サアヤ。あの哀れなベンサン屋のガキみたいに、こいつにも生き地獄を味わわせようってか? ……わるくねえ考えだな」
にやり、と笑うマフユ。
「なんだ、貴様、どうするつもりだ」
身動きのとれない山田の表情に、恐怖が宿る。
マフユは、ごくりと喉を鳴らし、おええ、とカエルの卵のようなものをつぎつぎと吐き出す。
さすがに想像の斜め上を超えてきて、チューヤとサアヤは飛びのいた。
「……また人間やめてきたな、マフユよ」
遠巻きにまわりこんで、ブブ子のいましめを解くチューヤ。
「楽しいぜえ、禁断症状ってやつァ。この虫の卵をよ、てめえにやるよ」
口の端から粘液を垂らしながら言うマフユ。
「うわ、やめ、やめろ……っ」
山田は動けない。
「安心しろ、たまに快楽をくれるぜ。のたうちまわる激痛のはざまに、一瞬だけな。──死にゃあしねえよ、ってか、死のうとしても無理やり生かすぜ、死んでもらっちゃ虫にとっても都合がわるいからな。
死の直前の状態で、卵まみれになるまで、エサとして生きろ。……よく言うだろ、シャブ断ちした3日目がいっちゃんつれえって。皮膚の下を虫が這いまわってるってよォ。そいつを味わいな、山田」
卵を握った手を、ぞぶり、と山田の腹に埋める。
マフユの皮膚は蛇のウロコの色をしているし、額には第三の目がある。髪の毛は蛇のように蠢いているし、背中には羽らしきものも見えた。
たしかに彼女は、デビルウーマンだ。
「うげ、えぇえ……ッぉお、えぇお」
地獄の底から響くような山田の喘鳴。
「……サアヤさん、あれはいいの?」
恐る恐る問いかけるチューヤに、
「うーん。まあ生きてるだけで丸もうけだよ」
サアヤの思想が、いまいちわからない。
彼女にとっては、死ぬよりも地獄を生きるほうがマシ、ということだろうか。
そのくらい「死」を忌避している。
死んだほうがずっと楽なこともある、と知っている者らとしては、むしろこの世でもっとも恐ろしい存在こそサアヤかもしれない。
「2、3日、埋まってな!」
マフユが、地面の穴に山田を生き埋めにする。
そのようすを、ブブ子が無感動に眺めている。
チューヤは周囲を見まわし、違和感をおぼえる。
──境界が、解けない。
「どうなってんだ? この境界を結んだのは、山田……インキュバスじゃないのか?」
「なんだ? やっぱ殺さないとダメか?」
ふりかえって問うマフユに、
「いや、それだけ痛めつければじゅうぶんだ。負けを認めさえすれば、境界は解けるはずだ。山田のつくった境界なら、だが……」
「世の中、そううまくはいかないですよ」
背後から、ブブ子の声。
3人は、ゆっくりと彼女に視線を集めた。
ゾッとするような展開を、予感して……。




