20 : Day -61 : Hamadayama
リョージが来るまで、まだ時間がある。
三人は公園内にはいり、ベンチに座って話をつづけた。
「ところで、ふたりはなんで喧嘩してたの?」
「……忘れた」
あらぬ方向を向き、飄々と言い放つケート。
チューヤは、慌てて立ち上がり、
「忘れんなよ! 俺は覚えてるぞ。あれはたしか夏の太陽がまぶしい五月の話だ」
「五月はまだ夏じゃないだろ」
「旧暦だ」
「勝手に改暦すんな」
チューヤは昔話風に語りだす。
「むかーしあの日、部室のPCで、日本の昔話を見ておったー」
「昭和か!」
突っ込むサアヤに、ケートが意外なフォローを入れる。
「昭和だろうが元禄だろうが、いいものはいいんだ」
「だな。昔のアニメだけど、すごいデッサンだったりして、古さは感じない」
「ま、そうだね。絵本みたいなものかな。定期的に再放送かけられてるし」
「優良コンテンツだな」
昔話に関しては、共通の好意的記憶がある。
サアヤはふと小首をかしげ、
「あれ、ケーたんは小さいころ、アメリカにいたんじゃなかった?」
「7歳になるころには日本にいた。それにもっと小さいころから、幼児教育で買い与えられたデバイスにはいってたからな」
お金持ちがどういうデバイスを与えられていたのかはともかく、シリアルコピーの容易な時代、含まれるコンテンツについては金持ちも貧乏人も大差なくなっているようだ。
「価値が認められてるから受け継がれているんだもんね。長寿系のアニメも、考えてみれば親が子どもの頃もやってたわけだし」
「坊や~よいこだ金だしな~って、楽しそうに歌ってるオヤジもどうかと思うがな」
「そういう幼児体験、うちのお父さんとも話合うかもー。いいじゃんねー」
「替え歌まで受け継がれるかは、地域性もあると思うぞ」
共通文化のうえに立って、地域的な拡散がいかなる形態をとるか。
それは民俗学的な研究課題になるのではないか、という話が、きっかけにはあったらしいとチューヤは思い出した。
彼ら自身、ほとんど忘れているのだが、彼らの所属する部活は「鍋部」と通称されているものの、正確には「民俗化学部」という。
鍋という「化学」的なセラミック製品を中心課題において、全世界に広がる料理という共通文化を味わいながら、そこに底流する「民俗」学的な思想を探求する、というとってつけたような活動目的も、鍋部には存在するらしい。
そういうわけで、折に触れフォークロアの研究を推し進めても、異とするには当たらないのだ。
「同じ昔話を知ってはいても、派生したパターンまで網羅的な共通項と言えるのか」
「むずかしいお話ですな」
「ジャイアンは映画ではいいやつだよね」
「とにかく名作系に関しては、時代を超えて見せられる傾向はある」
そこで、現役世代においても、意見の共有と対立があった──。
「う~さぎと、か~めの、かけっくら~」
とケートが歌ったところ、
「うさぎ、こがめと、かけっくら、じゃないか?」
リョージが、そう訂正を入れた。
すべてのはじまりは、ここからだった。
「は? ボクがまちがっていると言うつもりか、リョージ」
「いや、オレの記憶が確かならば、っていうだけの話だが」
当時、部室で音楽を聴いていたチューヤは、傍らでケートとリョージがいつものように議論を戦わせていても、さして気にはしていなかった。
「物語の内容から考えても、ボクが正しいに決まっている」
部室のPCで、すかさず検索をかけるケート。
流れ出すBGM。記憶が整理される。
う~さぎ こ~がめと かけっくら~
「……な?」
「だとしたら、作詞家の脳が若干トチ狂っていると言わざるを得んな」
憮然として言い放つケート。
唖然とするリョージ。
「まさか原曲否定までするとは……」
「べつに全否定はしていない。いい部分を認めたうえで、トチ狂った部分を容認はしないという姿勢を、明確にしているだけだ」
「いや、なんの問題もないだろ、この歌詞には」
ほとんど半世紀近くも昔のアニメのせいで、対立し、睨み合う当時16歳の若い魂。
ケートは、あくまでも戦闘的に論陣を張る。
「題材になってる童話は、ウサギとカメ、だろうが。原文に大小の記述はない。つまり作詞家が、勝手に大小の概念を書き加えたわけだ。その意図は?」
「子亀か小亀かはわからんが」
「オトナがガキをいびる話ってニュアンスはないだろ」
「じゃ、小さい亀ってことかな」
ケートは机をたたき、峻烈に指摘する。
「そこだよ! 必要か? サイズの大小が、この物語に! いいか、これはウサギとカメの戦いであって、サイズの大小は物語の本質に一切、関係がない。ウサギが調子こいて寝ぼけくさったせいで負けた、って話に、カメが大きかろうが小さかろうが関係はないんだよ」
「そりゃまあ、そうだけど。小さいほうが大きくて強いやつに勝つことを、象徴的にわかりやすく表現したんだろ」
そろそろ面倒くさくなってきて、リョージはテキトーに言った。
「だからカメが小さいなんて、勝手に決めんなって話だ! でかいカメだっているし、小さいウサギだっているだろうが。
この物語の骨子は、一般に足の速いウサギという属性と、遅いカメという属性の間にある、結果の明確な勝負に、油断大敵という教訓を付加する物語でしかない。
そこに、なぜ大小の概念をねじこんでくる? ウサギとカメのかけっくら、で文字数もぴったりだし、じゅうぶんに通じるだろうが」
「えっと、作詞したのは……有名な人だろ、たしか」
作詞家・川内康範は、『月光仮面』をはじめ日本的なヒーローの創造者として、一時代を築いた大御所である。
「小さいものを見下しているから、こういう詞が書けるんだよ。ご立派な性格なんだろうな、そりゃ老害にもなるわ」
喧嘩康範の異名も知られ、歌手の森進一とは、自分の詞を勝手に改変したとする「おふくろさん騒動」などで対立し、和解しないまま他界した。
リョージは、検索サイトの説明文を読みながら、ため息交じりに、
「死者に鞭を打つなよ。じゃあいいよ、ウサギとカメのかけっくらで」
「じゃあってなんだよ、じゃあって! そうか、おまえも連中の一味か。小さいから弱くてあたりまえ、負けてあたりまえ、という前提で物事を見ているわけだな。コガメがウサギに勝ったんですよ、すごいですよ、コガメのくせに! そう言いたいわけか!」
だん、だん、とケートが足を踏み鳴らすに及んで、ついにチューヤもイヤホンを耳から外し、ふたりの論戦の成り行きを見守った。
「だからそんなこと、ちっとも思ってないって」
「やってやんよ、デカブツ、おまえとはいずれ決着つけなきゃならんとは思ってた。ちょうどいい、かかってきな。……おまえも来い、チューヤ!」
こうして、ふたりは宿命の戦いに赴いたのだった。
「なんだー、歌詞論争で喧嘩してたんだね。男子ってバカチンだー」
遠慮会釈のない物言いに、バカ男子は並んでアホづらをさらす。
「俺は喧嘩してないぞ。バカチンはケートとリョージだから」
「黙れチューヤ。歌詞も知らなかった男が」
そこでサアヤは、教壇に立つ音楽教師よろしく、ピシッと指揮棒を振るしぐさで、
「フルで聞かせてあげようか? 坊やよいこだ、おっきしな、っていう歌詞は4番ね」
「起こすのかよ!」
チューヤとケートが並んで突っ込んだ。
昭和歌謡に関しては、サアヤの知識は尋常ではない。
彼女の良好な親子関係が、良質な知識の垂直伝播を、高度に担保している。
ともかくも一年後、件のやり取りは収束することもなく、こうして新たな火種として熾火をくすぶらせている。
ちらりと時計を確認する。
夜9時をまわった。
配達用の原付を借りて行くと言っていたから、道路のほうを気にしておけばよい。
「とにかく正しいことを言ったリョーちんに、まちがっていたケーたんが喧嘩を吹っかけた、ってわけだね」
「人聞きのわるい言い方をするとすれば、そうだ」
素直にうなずくケート。
彼は、事実に対しては比較的従順だ。
「いや、そうとしか……原曲批判までしてるし……」
「原曲どころか、話そのものに違和感があるわ。そもそもウサギとカメは、にっぽんの昔ばなしなのか? 鶴の恩返しや、ぶんぶく茶釜はわかる。かぐや姫、かさ地蔵、天女の羽衣、舌切り雀、花咲か爺さん、浦島太郎、全部いいだろう。だがウサギとカメはどうなんだ? もとはイソップ童話だろう。それが、なんでにっぽん昔ばなしなんだよ?」
イソップ寓話自体、日本にはいってきたのが、室町時代あたりと考えられている。
動物を取り扱った寓話であれば普遍性もあるし、もはや日本のものでもある、と言えないこともない。
「はいってきたのが古いから、日本の昔ばなしってことにしたんだろ。それ言い出したら、仏教説話に端を発する昔ばなしも全部、日本の昔ばなしじゃなくなっちまうからな」
「……まあ、そうだな。室町時代ならしかたない。どこぞの民族なら、その時点で、ウサギとカメは我が国発祥ニダ、と言い出しかねないくらい古くはある」
「じゃ解決ってことで」
「待て。思い出したら怒りが再燃したから言うが」
「サアヤのせいだからな」
「なんでよ! 理由くらい聞いたっていいでしょ」
ケートは両手を広げ、
「問題は、普遍的であるべき物語に、恣意的なサイズ感をねじ込んだ歪んだ根性がだな……」
「なんだよ、まだその話してんの?」
と、そのとき背後からの声に、一斉に立ち上がる三人。
そこには、原チャリを押して園内を歩いてくるリョージがいた。