01 : Day -56 : Shakujii-kōen
あんたがたどこさ。
歌声が聞こえる。白い背景。
頭を振る。意識が靄のなかから、徐々に形を伴って浮き上がる。
彼の名は──中谷真也。
「チューヤ、あそぼ」
少女の声にふりかえる。
正しくはナカタニだが、みんなチューヤと呼ぶ。
「どこさ?」
歌声はつづく。
……首都さ。首都どこさ。東京さ。東京どこさ。
「西荻さ」
ゆっくりと顔を上げたチューヤは、促されるようにそうつぶやく。
……西荻窪には、チューヤがおってさ。
メロディを聞き流しながら、チューヤは白い景色のなかを歩き出す。
ここはどこだ?
周囲を見まわし、見慣れた西荻らしい景色が見えたのも束の間、向こうから歩いてくる人影が、駅の外観を別の駅と混ぜていく。
「サアヤ」
チューヤは足を止め、幼馴染の少女の名を呼ぶ。
「私はどっこさ、久我山さ♪」
彼女は楽しそうにぴょんと跳びながら、自分の最寄り駅を歌う。
幼稚園からいっしょの学校に通っている彼女の名は、発田咲綾。
長らく同じマンションの隣の部屋に住んでいたが、数年前、同一区内の一戸建てに引っ越して最寄駅が変わった。
それでも腐れ縁はつづき、いまも同じ高校に通っている。
「なにやってる?」
「チューヤこそ。早く、がっこ行こ」
……学校どこさ。練馬さ。練馬どこさ。
歌声に合わせて、風景は通いなれた校舎へ。
この石神井公園駅にほど近い高校に通いはじめて、2年になる。
歌声はつづく。
全方位から、さまざまな声が、いくつもの場所を歌う。
石神井さ。荻窪さ。大泉学園さ。池袋さ。西葛西さ。二子玉さ。光が丘さ。羽田さ。田園調布さ。小菅さ。上石神井さ。新宿さ。千歳烏山さ。成城さ。
チューヤは頭を振り、大きく息を吐く。
歌声が遠のく。目のまえに、手をさしのべるサアヤ。
久我山には悪魔がおってさ。それを猟師が鉄砲で撃ってさ。
ぞっとするような歌声が、彼女を取り巻いた瞬間だった。
その足元から伸びてきた腕に足をつかまれ、バランスを崩す。
「きゃっ」
「サアヤ! うわっ」
チューヤの足元も歪み、傾いた視線の見下ろした先、黒い影がなにかを叫びながら、なにかをむしり取ろうと腕を伸ばしてくる姿が迫る。
怖い。本能的な恐怖に身を引き、全力で飛びのく。
「チューヤ……っ」
目のまえで自分の名を呼ぶ少女の身体が、ぞぶり、と地面に飲み込まれていく。
奪われる。大切な人が。
「返せ、サアヤを」
反射的に発したチューヤの声に、返ってきたのは想像以上の怒りに満ちた叫び。
「返せ? 返すのは、貴様らだ。それを悪魔が。鉄砲で。撃ってさ。焼いてさ。……返せ! 食ってさ。返すのは貴様だ! けひゃひゃ。さあもどせ、取り返せ、われわれの命を。引きもどせ、世界の富を。奪われた、すべてのものを!」
無数に折り重なる憤怒の叫喚とともに、幼馴染の身体が、混ぜ合わされる白と黒の渦巻のなかへ、飲み込まれていく。
ちゃぽん、と墨汁のように揺れる黒い地面。
その波紋の中心に、ぎろり、と目玉が浮き上がる。
目が合った瞬間、血走った眼球の下に浮かびあがった紫色の唇が、言う。
「西荻、どこさ」
チューヤの全身を恐怖が貫く。
ひとはこれを、悪夢と呼ぶ──。
ハッとして目覚める。
見まわせば、授業中。
思い出す。つまらない数学の授業、居眠りの責任は工夫の足りない教師と、この小春日和にあることを。
さらに意識を起こす。
こうして目覚めた理由は、入眠時によくあるジャーキングのせいではないと。
では悪夢のせいか。……いや、悪夢はつづいている。
ノックのひとつもなく、突然に開かれた教室のドア、なんの躊躇もなく踏み込んできた部外者。
寝ぼけ眼を持ち上げた先、くたびれたスーツを着た男がひとり、不真面目な男子高校生を見つけると、それを目指し、まっすぐに向かってくる。
ガタッ、と音がして一瞬だけそちらに視線を向けた先、サアヤがチューヤと中年男を心配そうに見比べる姿がある。
よかった、無事だったんだな。
悪夢の記憶も払拭できていない、あいまいな精神状態。
高校生たちのざわめきのなか、その中年男は無遠慮に突き進みながら、教室の入口の所に立つもうひとりと目配せを交わす。
特有の所作に、「現着」という唇の動き。彼らはつねに二人一組で行動する。
先行するひとりが、懐から取り出したのは、手錠。
机のうえに顔だけ挙げたチューヤの目に、やけに鮮明にその金属の印象が刻まれる。
「11時31分、被疑者確保」
ゴツい指が、斜め後方から彼の肩を、必要以上の力で押さえつけた。
クラスじゅうに広がるざわめきの波は、この本来ありうべからざる事象を、SNS上いかに表現すべきかを考えはじめている。
「…………」
こりゃ悪夢のつづきにちがいない、とチューヤは確信する。
「中谷真也、おまえを逮捕する」
がちゃり、と腕にかかる手錠の冷たい感触。
クラスじゅうの注目を浴びて、自分が警視庁の組織犯罪課に属する刑事に逮捕されたことを理解する。
──なんだよ、この悪夢は。
「マル被、確保。ただちに本庁へ連行する」
イヤホンマイクに向け、警視庁の刑事が言っている。
──ひでえ話だ。
これ、ほんとに現実か?
チューヤは、サアヤが半ば腰を浮かせて、クラスメートたちより真摯な視線を自分に向けていた理由に納得する。
が、彼女にいまできることは、他の野次馬同様なにもない。
月曜日はろくなことがない。
ぼんやりと、そんなことを考える。
──ボタンのかけちがいを意識したのは先週、いや先々週か。
あの週末、十日ほどまえのあの事件から、なにかが狂いはじめた。
で、結局、この体たらくってわけだ。
「……容疑は?」
自分の手にかかる手錠を眺めながら、被疑者は自動人形のように問いかける。
手首にかかる冷たい感覚が、ほっぺたをつねるまでもなく、これが現実だと教えてくれている。
現実が悪夢よりひどいなら、せめて夢のなかくらい萌え萌えお約束展開でもバチは当たらんだろう、と埒もない苦言が脳裏をよぎる。
女神さまが降臨して、あなたを迎えに来ました勇者よ、とクラスメートの好奇と羨望の視線を集めながら、教室から連れ出されていく自分の姿。
少年はそういう他愛ない夢を、よく見る。
だが現実は、甘くない。
「殺人及び死体損壊、遺棄、証拠隠滅のおそれ」
言葉少なに、刑事は逮捕の事由を告げる。
チューヤはしばらく黙って、自分に手錠をかけた男を見つめる。
──ありえないよな。ふつうはハズされる。こんな逮捕はありえない。それにしても最近よく起こる、ありえないことが。
最近見ていなかった顔だが、そういえばこんな顔だったな、と思い出す。
一連の出来事、ことごとくが日常にあるまじき事態の連続。
「それじゃ逮捕するしかないよな、おやじ」
もはや皮肉な笑みしか浮かばない。
これが現実なら、受け入れる以外にあるか?
中谷真也は、実の父親により、逮捕された。
刑事は腕時計をもう一度確認し、たったいま逮捕した少年──己が息子を見つめる。
「おまえは、悪魔、なのか?」
刑事としての職業柄、必死に堅持する鉄面皮の下、隠し切れない激情をわずかに漏らし、父親は精一杯、抑えた声音で問いかける。
少年の体内で、なにかが、ずくん、と疼いた。
血液のなかに潜む、なにかが──。