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区立猿楽古代住居跡公園。
恵比寿・代官山エリアの名所史跡にランキングされ、星3の場所が、彼らの出口に選ばれた。
公園の地下には、しばしば備蓄や貯水などの施設が準備されている。
彼らはその地下道から、ようやく地表へと帰還を果たしたのだった。
周囲を見まわし、瞬時に多くを把握する人間GPS。
縄文遺跡を紹介する「渋谷区」のマークを起点に、どの方向に、どの距離で、どんな駅があるかを、脳内地図に秒で展開完了。
それがチューヤという男だ。
公園には、かつて渋谷にあった竪穴式住居の再現施設があり、歴史ある東京の古代史を学ぶことができる。
昔は弥生時代の住居まで再現していたのだが、火事で焼失した。
が、すでに「本物」を見てきた彼らには、必要ない。
かつてここに縄文人や弥生人が定住していたことは、よく知っている。
あれだけ見てきたはずだ……が、見まわせば高層のマンションと公共施設のみで、ひどく実感に乏しい。
「……これが現実ってやつか」
東京を見上げるリョージ。
「どうやら、そのようですね」
地球の縮図を想うヒナノ。
「それよりナイフ返せよ、リョージ」
ひらひらと手を振るマフユに、
「ああ、あいよ。助かったぜ、マフユ。……あんまり変なもの切るなよ?」
使い倒したナイフを手わたすリョージ。
マフユは蛇のように長い舌をチロチロと蠢かし、
「そいつァ約束できねーな。……愛する女のため、ぶった切っちまったほうがいいもんも、世の中にはあるんだよ」
視線を感じ、ぎくり、とふるえるチューヤ。
「ちょっと、こっち見ないで! お願いだから!」
「それよりチューヤ、この鍋、どうする? オレが持っててもあんまり役に立たないらしいし、おまえにやろうか?」
あまり所有欲のないリョージが、鍋を差し出した。
異界の鍋。「裏鍋」と呼ばれている。
境界の女神が、正直者のリョージにご褒美としてくれたらしい。
時と場所を選んで使えば、あちら側へ連れて行ってくれる、という……。
「ああ、そうだね。あとで邪教に訊いてみるけど」
鍋を受け取り、なんとなく高く掲げてみるチューヤ。
鍋。
すべては、ここからはじまった。
そう、われわれは「鍋部」。
集え、鍋へ。
文明のルーツ、それは土鍋である!
壮大な世界観に、ひとり浸るチューヤ。
これは曲がりなりにも人類史に触れたその末裔にとって、欠くべからざる追体験だ。
──ホモ・サピエンスは、おそらくその誕生当初から火を使っていたが、串に刺して焼くなどの料理にしか使えなかったはずだ。
熱した石の上で焼くこともあっただろう。
だが、それでは煮る、蒸すなどという調理は、できなかった。
器としては、木製のものがかなり初期から使われていたかもしれない。
だが木製では当然、火にかけることはできない。
火の温度に耐えられるもの、つまり鍋ができて、はじめて煮炊きが可能になる。
初期のものは、粘土をこねて、野焼きしてつくられただろう。
土器文化は、世界各地で自然発生的に見受けられる。
じっさい使用する用途にとっては、土鍋でじゅうぶんだ。
磁器、陶器は、要するにガラス質が含まれていて、より高温で焼成する焼き物のことだが、土器と比べて必ずしも優れているわけではない。
機能というより、見た目、芸術性の面で優れているから、もてはやされているだけだ。
金属の鍋が出現するまでは、文明は土器でまわっていた。
いや、むしろ金属など、通常用途においては必ずしも必要ではない。
インカ、マヤといった古代文明には、16世紀まで金属文化がなかったことからもあきらかだ。
それでもじゅうぶん、高度な「文明」に達していたのである。
石器時代、2万年まえかそれ以前、人類は土器をつくりはじめた。
土鍋は、縄文時代では1万4000年まえまでさかのぼれる。
金属製の鍋になると、青銅器時代の紀元前2000年ころからだ。
もちろん現代文明をつくりあげるのに、金属系の技術は必要不可欠である。
文明の発展段階として、ヒトは、土を経て、金属に達する。
各段階はオーバーラップしていて、その段階の基礎的な技術がなければ成立しないジャンルを除けば、高度な思想、技術に到達することは可能だ。
すべての基本は、土鍋である。
土鍋、鉄鍋、アルミ合金などと、人類はつぎつぎと新しい材質を極めていくが、結局のところ土鍋に帰ってくる。
鍋!
まさに人類文明は、この一点からはじまったのだ。
「聞け、諸君!」
天啓を受けたかのように、突如として声を張るチューヤ。
三々五々、解散の流れに棹差され、不興げに動きを止める一同。
わずかに好意的な視線もあるが、過半数は「チューヤごときがえらそうに」という痛みを伴う。
「あ? 寝言は寝て言えよ」
挑戦的なマフユに、
「まだなんも言ってねえよ……」
早くも意気阻喪のチューヤ。
「わたくしたち疲れておりますの、手短にしていただける?」
迎えの車を呼んだばかりのヒナノとしては、一応、暇つぶしにはなる。
チューヤは意を決して、
「あー、あれだ。諸君には、週末の予定などを訊いておきたい。部長として、部員の動向は把握しておきたいのでね」
言ってから後悔した。
好意的な視線もなくはないが、ぬるい侮蔑混じりと言えなくもないし、そもそも女子らの敵意がすごい。
「ああ? なめた口きくなよ、てめー、部長ってなんだ」
いまにも手が出そうなマフユ。
「部でいちばんえらい、という意味でしょうか?」
ヒナノもたいがいご立腹の模様。
発言したチューヤ自身、若干自信がなくなってきている。
「ええと……俺たちって、鍋部だよね」
「正確には民俗化学部ですが」
対外的に耳当たりのいい表現を、ヒナノは好んで使う。
「鍋を食いに集まる部活だというから入部してやったんだ」
マフユの理由はおそろしく納得しやすい。
「だいたい鍋をつくってるのはリョージだろ」
ケートの指摘に、
「たしかに、どう考えても部長ならリョーちんだね!」
同意するサアヤ。
あまりにも強力な全面アゲンストに対し、チューヤはどうにか切り返す。
「そういう問題じゃなくて、というか……」
「はっきりしろよ、部長」
リョージに促され、
「みんな忘れたの? とりあえず名前だけ、部長って届け出ないといけなかったじゃん!」
チューヤとしては精いっぱいの自己主張。
一同、しばらく考えてから、まずケートがポンと手を打った。
「ああ、めんどくさいから、弱者がやれって話になったやつな」
「そうでした。そういえば、弱者がなりましたね」
人差し指を立て、ヒナノも同意する。
「なーんだ、弱者か」
あははは、と笑うマフユとサアヤ。
「ちょっと! ここ当人いるからね!」
いつものように地団太を踏むチューヤ。
「いろいろ、めんどうな集まりがあるとかないとかいう話でしたね」
どうでもいい過去を思い出すヒナノ。
「チューヤにやらせておきゃいいだろって」
思い出すこと自体が無駄だと言外のケート。
「面倒を押しつけたわけだな」
リョージはとくにおぼえてもいないようだ。
「で、なんなんだよ、名前だけ部長」
マフユはもう考えることをやめている。
「本日は土曜なので鍋はありませんぞ、チューヤ部長」
まとめるサアヤの言葉に、
「巡査部長みたいに言うな! だからさ、みんな週末どうすんのかなーって」
だいぶ遠まわりをしたが、その価値もない、という一同の視線が痛い。
チューヤが「部長」であることの事実が、いずれ重要な契機となる可能性もあるが、すくなくとも彼の「身分」は確定した。
たしかに部長というのはどうでもいい話かもしれないが、互いの立ち位置も含めて、確認しておくべきことは多いはずだ。
それぞれの秘密主義や知見の量にもバラつきがあるので、一概にまとめて取り扱えないのが難点だが。
「ふつーに訊けよ。部長とか偉そうにすっからわるいんだろ」
舌打ちするマフユに、
「むしろ必要以上に俺に絡む、その敵意からなんとかしろよ!」
チューヤとしては心からのお願いだ。
「ボクは予定がいっぱいだぞ。つねに忙しい。ま、チューヤがどうしても付き合いたいと言うなら、連れて行ってやってもいいが」
たしかにケートの動きは、これまでもしばしば物語の欠損を埋めてきた。
「で、その忙しいケートさんは、どこ行くの?」
チューヤとしては、ケートの「好意」には甘えたくもあり、怖くもあり。
「チャカコんとこだ」
シンプルな答え。
「なんか撃たれそうな響きだが、そーいや言ってたな。港の母だっけ?」
リョージが割り込むと、
「岸壁の母(1954)みたいなもんかな?」
歌い出すサアヤ。
「足立のマザーに対応してんだろ」
マフユの指摘で、いくつかのパズルのピースがつながる。
港のチャカコとも呼ばれる占い師、卑弥呼。
バブルのころはディスコでフィーバーしていた種族であり、昨今は落ち着いた女占い師になっている、という。
ジャバザコクへのアクセス権を持つ数少ない人間であり、おそらく運命の三女神の勢力と対立している。
昔の癖で、犠牲にする魂たちを「アッシー」「メッシー」などと呼んでいるらしい──。
「なにそれー?」
素っ頓狂な声を上げるサアヤ。
「チューヤがアッシーってのは、すげーわかるけどな」
笑うリョージに、
「そういうことは思っても言わない!」
否定はしないチューヤ。
「バブルって昭和だろ? サアヤは詳しいんじゃないの」
マフユが顧みる。
昭和のスパンは恐ろしく長い。
「失われた平成の元凶ですわね」
ヒナノも知識としては知っている。
「バブル崩壊を占った卑弥呼は、その後、企業や国家の運営にもしばしば口を出している、という。弥生から令和まで、鬼道によって国家の行く末を占う。さすがは卑弥呼の末裔だな」
怪しげな陰謀論を語らせたら、ケートの右に出る者はいない。
「卑弥呼って独身じゃなかった?」
チューヤのまっとうな疑問に、
「弟がいたろ。家系図もあったぞ」
飄々と答えるケート。
「それ完全にでっち上げだから!」
家系図の捏造は、この業界では日常茶飯事だ。
ともかく、ジャバザコクという連想から言えば、邪馬台国に関連したワードが出てくるのは、想定の範囲内。
ケートによれば、その怪しげな「占い」に関与している、現代の卑弥呼という占い師から東京の闇を掘り返すのは、定跡の「順路」であるという。
「家系図などどうでもいい。チャカコが日本の政治判断に影響を与えるほどの占い師で、ジャバザコクのシステムにアクセスできることが問題だ。この件で揺さぶりを入れてくる」
「おいケート、それ、オレも行きたいんだが」
リョージが割ってはいる。
「よろしければ、わたくしも」
ヒナノも乗った。
「占いか。……足立の母にも、なんか礼に行ったほうがいいのかな」
顎に手を当て、考え込むチューヤ。
「そういえばチューヤ、私が誘っても行かなかったくせに、ひとりで勝手に占い師さんのところに行ってたよね」
サアヤが苦言を呈すると、
「なんでサアヤの許可が要るんだよ!? それにひとりじゃなくて、マフユと行ったんだ。一見さんお断りみたいで、コネないと占ってくれないんだよ」
月曜日のことだが、遠い昔のように思える。
「そういえば、そんな話もあったな。よし、チューヤ。おまえは足立の母を探れ。ボクたちは港の母を探る」
決定論を主唱するケート。
「……なんでケートが仕切ってんの」
すこしだけ不満げなチューヤに、
「どう考えてもボクのほうが軍師向きだろ」
納得の答え。
「それは言えてる」
あらかたの同意を得て、
「ちぇー。ま、じゃいいや。一度帰って寝てから、足立行こうぜ、マフユ。あしたはあたしとあだちでしたあってか、いや、もうきょうだけど」
チューヤからマフユを誘う。
「ざけんな。なんであたしが、おまえみたいなやつと」
当然のように拒絶するマフユに、
「サアヤ連れて行くから」
魅力的な提案を付加。
「しゃーねーな。連れてきたらおまえはすぐ帰っていいぞ」
魅力の部分だけ取って食うつもりらしい。
「ちょっと! 私の予定をちゃんと聞いてよ!」
魅力の当人が訴えると、
「どうせサアヤは暇だろ?」
チューヤが決めつける。
「ざんねーん。私、きょうはちょっと忙しいんだー」
サアヤは首を振った。
「例のとこか、サアヤ」
訳知り顔のケート。
「うん、今週は思いっきりバックレ週間だったから、ちゃんとしとかないとー」
力強く言うサアヤの顔は「社会人」ぽい。
「いや、キミはしっかり者だよ、サアヤ。感心する」
うなずき合うふたり。
「なんなの、サアヤ、ケート、その話」
みんな隠し事多いよ! と言わんばかりのチューヤに、
「まだ秘密ー。来週になったら教えてあげるよ」
唇に当てた人差し指で、幼馴染を指さす。
「ああ? サアヤ来ないなら、あたしも行かないからな」
さっさと撤収するマフユ。
「もう、厄介だな……」
嘆息するチューヤ。
もはやグダグダの鍋部部長による部員予定管理計画。
そもそも彼にカリスマ性を期待するほうが、まちがっているのだが。
「さーて、帰るかな。ここはどこかなー?」
わざとらしく聞こえるように言うサアヤ。
わざとらしくそれを無視して、ヒナノに歩み寄るチューヤ。
「お嬢。代官山から乗ると近いよ。よかったら送って……」
代官山駅は300メートルほど南にある。
田園調布直通だ。
「そっか、ここ渋谷か」
なんとなく渋谷駅の方向を探すリョージに、
「ザコども、渋谷ステーションは向こうだ! とっとと帰れ!」
人間コンパスよろしく北を指さすチューヤ。
チューヤの脳内鳥観図によれば、500メートルほど北に渋谷駅がある。
原始時代、なんの目印もない地形から現在地点を類推していた彼にとって、ごく最近、歩きまわったこともある、目印だらけの現代東京の代官山は、難易度が低すぎる。
「どうやら迎えが来たようですわ。それでは、ごきげんよう」
完全にチューヤを無視するヒナノ。
「それでチューキチは、どう遠まわりして帰るつもりだ? ん?」
背後からチューヤのこめかみぐりぐりするサアヤ。
「い、井の頭線で帰りましょうか、サアヤさん」
妥当な結論を受け入れるチューヤ。
始発は5時なので、まだ2時間ほど余裕がある。
もちろん平民の時間とは質の異なる高貴なヒナノは、さっさと迎えの車に乗り込んだ。
ケートはその背中を追い、
「ついでだ、近くまで乗せてくれよ、お嬢」
「かまいませんわ。──それではみなさん、ごきげんよう」
解散の流れは止まらない。
マフユはあくびを噛み殺しながら、
「あたしは原チャとりにもどるぞ。目黒はあっちか?」
並んで歩くのはリョージ。
「オレも行くよ、マフユ。ちょっと奇昆虫館、もっかい見たい」
「はん、勝手にしろ虫野郎」
マフユとリョージの並びは、すくなくとも見た目、ぴったりくる。
「パンフレット買って帰ったら、オヤジ喜ぶだろうな」
そうして巨漢のふたりが立ち去ると、公園は一気に静かになった。
「──夢だったのかな?」
払暁の冷風に頬を撫でられ、ぽつりと漏らさずにいられないサアヤ。
「この世はすべて、夢幻のごとくなり、だよ。さ、帰るぞサアヤ」
モヤイ像まで徒歩862メートル、とチューヤは読んだ。
東京は交通機関が発達していて、便利と思われる向きも多い。
たしかに駅に着けば非常に便利である。
が、そこまでたどり着くのにけっこう歩かされる。
乗り換えだけで1キロ近く歩かされることも、めずらしくはないのだ。
とはいえ、「たった1キロ」。
太古には1キロ進むのに数時間もかかったのに、いまは数分で事足りる。
なにより、迷いなく進めること。
目的地に向けて右往左往することなく、たとえ遅くともまっすぐに進めることのメリットは大きい。
どれほど入り組んだルートでも、天然のナビゲーションであるチューヤに任せておけば、地球のどこからでも家に帰れることだけは信じて疑わないサアヤ。
「よし、帰ろう! 家に着くまでが遠足だよ!」
ぱん、とチューヤの肩をたたく。
家に帰る。
この幸せを味わえるのは、いつまでだろう。
ふとチューヤは、そんなことを考えた。




