97 : Day -44 : Daikan-yama
さざ波のように聞こえる音は、かつて太古の世界で嗅いだ、大自然の潮騒ではない。
周囲は暗がりに閉ざされており、異臭さえも漂う。
水音は……下水道。
そう、これは「東京」の地下に特有のニオイだ。
ゆっくりと目を開けて、そこになつかしさを感じる自分に、度し難い「現代病」を自任して苦笑するチューヤ。
「エグゼ」
本来の稼働環境において、再起動。
瞼の裏、目まぐるしく光が回転し、ナノマシンが悪魔相関プログラムの常駐を再開する。
ここは「境界」のようだが、それが徐々に引いている実感はある。
これまで何度も体験してきた、境界から抜けて現世にもどるときに感じる、特有の感覚だ。
召喚枠は4つ、空いている。
網膜の裏側に投影されるかのような通知、悪魔たちのステータスが既視感を伴う。
なんとなく自分の身体に触れてみると、違和感は一瞬で、これが本来の自分がまとうべき「衣服」であると認める。
ナノマシンの感覚制御効果も手伝い、しばらくすると周囲の景色が見えてきた。
「やれやれ、ここはどこ、オレはリョージ、ってか」
力強い声の方向に、一同の意識が集まる。
「まだ地下ダンジョンかよ、まったく……」
ケートがうんざりしたような声を漏らすが、ここが東京であるかぎり、安心材料だ。
とはいえ、もっぱら圏外の地下で、定期的に電波を探した結果、消耗した携帯電話を取り出したサアヤは、
「バッテリー切れてる。いま何時?」
「午前3時。よい子は寝る時間だぞ」
チューヤは言いながら、あわてて鉄道時計のネジを巻いた。
感覚的に、止まる直前の瞬間にギリギリ間に合った、という感じだった。
ゼンマイは再び力をとりもどし、ガンギ車を動かしてテンプを揺らす。
機械式時計は本来、毎日、決まった時間に巻いてあげることが望ましい。
「なんだよ、こっちもバッテリー切れだぜ。あれから何日たったんだ、いったい?」
マフユの声に応じるのは、
「どうやら土曜日の午前3時のようですね」
性能のいい高級腕時計に目をやるヒナノ。
「土曜日!? てことは、こっちでも、むこうで過ごしたのと同じだけ時間たってるってことじゃん!」
チューヤにとっては、祖父の大事な機械式時計を3日も放置した罪悪感が強い。
「融通の利かないタイムマシーンだね!」
サアヤとしては、外泊の言い訳が大変なのだ。
「らせん時空の連続性ってのは、そういうもんさ」
ケートには理屈として納得できる。
「それよりさっさと外に出ようぜ、なあおい」
マフユが言いながら、ひとりで歩きだそうとしかけるので、
「こっちのほうが近いと思うけど」
反対方向を指さすチューヤ。
人間オートマッパーである彼のナノマシンは、現在位置と地上への最短ルートを的確に明示してくれている。
さすがのマフユも、地下ダンジョンでチューヤの判断を無視するほど愚かではない。
けっ、さっさと行きやがれ、とマフユに蹴られ、歩き出すチューヤ。
「きっかり72時間の家出か。たった地球3回転のあいだに、何か月も経ったような気がするぜ」
歩きながらぼやくケート。
「それは言わない約束だろ?」
リョージも気持ちは同じだ。
「人類ってアフリカから来たとばかり思ってたよ」
先頭を歩くチューヤの言葉に、
「広い意味では、そうですよ」
ヒナノが応じる。
薄暗い通路を、まっすぐに出口に向かって歩く6人。
その声は、圧倒的にクリアに響く。
──仮説を満たすため、説得力のある証拠をどれだけ発見できるかが、古人類学だ。
700万年まえに生まれた、初期人類のプロトタイプ。
その脳容量が飛躍的に増加した、3度の「階段」がある。
400万年まえ、200万年まえ、そして50万年まえ。
人類は猿人から、原人、旧人へと進化をくりかえした。
新人への進化は、それらと比べれば、さして大きな変化ではない。
やがて20万年まえ、われわれとまったく同じ「ヒト」が誕生した、とされている。
これらのターニングポイントは、どこにあったのか。
答えは判明している。
火山だ。
各段階で、火山が大きな影響を及ぼしている。
人類はつねにアフリカ(大地溝帯)で進化した。
いや、人類にかぎらない。ほとんどの哺乳類が、アフリカ(ゴンドワナ)で進化したのだ。
それには、理由がある。
アウストラロピテクスで有名なオルドバイ渓谷、「ダーウィンの箱庭」「陸のガラパゴス」と呼ばれるほど急激な進化が促されている、ビクトリア湖。
キリン、ゾウ、ライオン、チーター、特殊な能力を持つ異形の生物たちは、なぜアフリカに集中しているのか。
答えは、火山なのだ。
「火山なら世界中にあるだろ?」
リョージの問いに、
「アフリカの火山は特殊なんだよ」
答えるケート。
──HiRマグマという、特殊なカーボナタイト火山活動によって吐き出されるマグマが、人類の飛躍的な脳容量増加に、大きな影響を与えた。
現時点で、リフト帯の自然放射能強度は、統計の方法にもよるが、全地球平均の20倍。一般人の5年間の被ばく許容量の12倍だという。
人類の祖先が住んでいたころのオルドバイ渓谷は、それとは比較にならない。
周辺から火山噴出物が大量に流れ込む湿地帯に住んだ人類が、どれだけの放射性物質を飲食し、どれだけ体内被曝による遺伝子の破壊を受けたか、計り知れない。
「放射性物質って、怖いんでしょ」
サアヤの知識は、フクシマのレベルだ。
「怖いよ。危ない。だから効果があるんだ」
高い知見のもと、ケートは言った。
──放射線はDNAを破壊する。
遺伝子配列がぐちゃぐちゃになり、細胞分裂できなくなる。
生存機能を障害され、ふつうに死ぬ。
問題は、1000人が死んでも、生き残った数人に、生存に有利な突然変異が促されることだ。
遺伝子配列が組み替えられる。
わるい死ではなく、より良い生へ向けて。
脳容量の飛躍的な増加。
これは生存にとって、きわめて有利だった。
「だったら阿蘇とかトバじゃなく、アフリカで進化しなきゃじゃないか?」
リョージの疑問に、
「だから、したろ。突然変異レベルの解剖学的な進化を。あとは微調整にすぎなかったんだよ。20万年まえの時点で、おおむね仕事は終わっていた。最後の仕上げが、阿蘇トバだったってことじゃないか」
ケートの理学的な答えを、
「魂の進化、ということですね」
ヒナノが文学的にまとめた。
科学者をもって任じるケートにとっては、あまり愉快な表情ではなかったが、魂という存在は、すでに境界において前提化している。
量子力学が理性に反しても「そういうもの」と受け入れざるを得ないように、魂の存在も一定の環境条件内で受け入れるしかない。
声帯との連動性はあるものの、基本的には「仲間を守る」気持ち、こころ、魂の問題だ。
人類が、最後に人類になった瞬間。
8.7万年まえにつくられた鍵が、7.4万年まえにつくられた鍵穴にはまったとき、ようやくパンドラの箱は開かれた。
「その鍵とか鍵穴とかいう表現、なんとかなんないの?」
ぷーっ、と頬を膨らますサアヤ。
「サアヤはいやらしいから、そういうふうにしか考えられないんだよ」
語尾が消えるまえにしばかれるチューヤ。
「そんなサアヤが好きだぜ」
サアヤを抱き寄せるマフユ。
「いちゃつくな」
背後から蹴りを入れるケート。
──暗いトンネルに、終わりが近づく。
この先に「もとの世界」が広がっていることは、もうわかっている。
ふと、上のほうに「気配」。
圧倒的な人の「存在」が、なぜか押し寄せるように流れ込んできて、人いきれにむせ返るような悪寒。
人類の拡散と増殖の末路を知って、われわれはなにを思えばいいのか。
埋めよ、増やせよ、といった宗教にとっては、まごうかたなき「勝利」を意味するのかもしれないが、別の人々にとってみれば、害虫の異常繁殖とも思われる。
「忌まわしい……」
ヒナノの意見に、
「ああ、まったくだ」
期せずして同意するマフユ。
人類は、力を合わせることで、最終進化の契機を得た。
同時に、彼らは激しく仲たがいをする。
抹殺すべき異教徒。
地球を汚す文明。
蒙昧な衆愚。
人は生きているだけで全員、すこしずつ害悪──。
人類は、かなり初期の段階から、すでに一枚岩ではない。
その証拠に、たった6人の仲間たちですら、いまはもう別の方向を見つめ、目指しているではないか──。
最終進化を済ませた人類の「歴史」は、ある意味、神と悪魔のものである。
シャーマニズムから教皇庁まで、どんな順路で、その権威が築き上げられてきたか。
それを詳らかにしてしまうことを、ある種の勢力は忌避するし、正解の見えない領域に逃げ込んで地団太を踏む。
すべては歴史が証明している。
「宗教という利権、か」
チューヤも、その理屈には同意する。
「刺されますよ、あなたたち」
ヒナノの口調は冷たい。
総じて唯一神の派閥にとっては、徹底して不愉快な議論になることが多いことは事実だ。
「だれかを消してしまいたいほど、信者をコントロールすることは、消してしまいたいと思う人間にとって、もとより心地よい利権の温泉であるから、というわけだ」
煙に巻くような胡乱な言いまわしをするケートの意図は。
「教皇庁はともかく、新興宗教の教祖から消されても文句は言えませんね」
反撃ののろしはヒナノにも宿っている。
「ヒトが神さまをつくったんだねー。だけどヒトは、ほかにもいっぱい、いろんなものつくってるよねー」
サアヤの言葉が期せずして穿つ真底。
「駅とかね」
全員に無視されたが、彼が言いたいのは、駅の数だけ悪魔がいる、ということだ。
チューヤの時代と場所では、およそ500程度。
が、史上はるかに多数の悪魔たちがいて、洗練され、淘汰され、生き残った悪魔たちが、東京に集まった。
人類は一方的に増えたが、悪魔たちは増減を繰り返した。
人類とともに、悪魔は名前を得てその数を増し、あるいは信者を集めてその力を増した。
アニミズムから端を発し、やがて「宗教」へ──。
人類が求める、頼るもの、すがるもの、自然を模したもの、それに抗う力、寄り添う気持ち、すべてに名前が与えられ、人を癒し、あるいは壊す。
それが「神」であり、「悪魔」である。
神も悪魔も、つくったのは人間なのだ──。
「忌まわしい……」
再びヒナノが不快げに吐き捨てる。
人類と神を同列に扱うなど、彼女らの宗旨にとっては許せるものではない。
だが現に多数の神と悪魔は作られ、現代の東京に集っている。
「われわれとは、なんだろうな」
チューヤが知りたいのは、むしろそれだ。
「ここではない、どこかへ行こうぜ」
ケートが軽々と、その足を踏み出す。
「……さあ、出口だ」
なつかしい光の射すほうへ、最初の一歩を踏み出したのはリョージ。
絡み合った答えを出さなければならない世界は、この先、彼らの時代なのだ。




