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リョージは「徐々に人間になる」と宣言した。
火山の影響を受けて、人類が最後の「進化」を果たした、という意味に重なる。
現に進化した「喉」によって、男子は意思疎通の能力を一段階、高めた。
もちろん、もっと長い目で見れば、人類の発祥はまちがいなくアフリカだ。
HiRマグマによる茎進化の結果、ヒトの脳容量を断続的に増加させたのは、アフリカの特定地域であった事実に疑いの余地は少ない。
現生人類の進化の温床は、たしかにアフリカだった。
そうして20~30万年まえに完成した人類のスペックに、最終的な「デコレーション」を施したのが阿蘇4だった、という「仮説」。
もちろん「そんなものはなくてもヒトはヒトだった」と言い張ることもできる。
むしろそのほうが「科学的態度」というものだ。
が、いまや「科学」は、悪魔相関プログラムをはじめとする新たな概念によって、拡張されてしまった。
その拡張概念を満たす新たな真実が「過去」にあったとしたら、それは受け入れるべきなのではないか?
「……原初神」
チューヤは意識して、その単語を紡いだ。
それは脳内に強制インストールされたプラグインが、バックグラウンド稼働履歴の海から拾ってきた、ただの単語にすぎない。
まだとうていその意味は理解できず、類推のとっかかりでしかないが、それでも考えること自体に価値がある。
人類発祥以前に存在した、神。
あるいは、人類を創り出した……。
ひどく胡乱な響きを伴いつつ、しかし確実に、真綿で締め付けるような現実感を伴っている。
考える若者たちに、過去からの視線を向けるのはクロト。
このまま煙に巻いて片づける道を、暗中模索しているかのようだ。
「……神々の遊びってか?」
ケートがそう口走った瞬間、クロトの表情に悟達のようなものが走った。
こいつらは、いろいろ知っている、知らなくていいことを、たとえ断片的にしろ、知りすぎるくらいに。
それぞれの個人は、多くを知らないかもしれない。だが全員の知見を寄せ集めれば、危険な領域へ踏み込まれることになる。
ゲームをおもしろくするのは、こいつらかもしれない。
「ご先祖さまの足取りを、よーく目に焼き付けておくんだね」
クロトが、ぐいっ、と舵を引くと、急激に視点が移ろった。
──促されて北へ逃げた人々の「生命の火」は、明滅を繰り返しながら、時に強く、弱く、薄く、濃く、日本列島から樺太を経て、大陸へと引き返していく。
最新バージョンへと切り替わった人類の「適応放散」が、はじまった。
言うまでもなく、この阿蘇4イベントによる「変化」が、瞬時に全人類の「切り替え」をもたらしたわけではない。
ただ、現生人類と同一の「魂のチャンネル」を持つ種が、最初に誕生したのがこの場所、この瞬間だったという──可能性はある。
そう、人類は「ここからきた」のだ。
古人類学によれば、約5万年まえまで、中期旧石器時代の旧人類はほとんど変化がなかった。
いわゆるクロマニョン人とともに、エレクトゥスやネアンデルタールという名の、おそらくは交配可能な別種の人類が、いくつも併存していた。
やがて、ホモ・サピエンスという「解剖学的人類」の最終的登場は、約2万年まえと信じられている。これは、ネアンデルタール人の絶滅、現代人類のユーラシアへの拡大の時期と合致している。
くりかえすが、その瞬間にパッと出現し、拡散したわけではない。
8.7万年まえのイベントから、徐々に拡散した遺伝子が、明瞭かつ唯一の支配的存在となったことが確認されたのが、2万年まえということだ。
後期旧石器時代に当たり、その終わりが完新世の始まりと定義される。
そうして受け継がれた、神と悪魔と人類の歴史へ──。
阿蘇山から広がった火山灰が拡散し、薄まっていく。
急激な「時間」の進展は、やがてくる「現代」へのアプローチ。
「時間が進んでいる」
口に出して確認するチューヤ。
「現代にもどっているんだね」
サアヤの希望的予想。
「だけど、答えはまだ半分だ。よく見てな」
クロトがさらに時計の針を進める。
──阿蘇4の火山灰から逃れて、樺太にわたり、そこから西へと引き返していく青い光。
くしくもつぎの氷期が訪れており、氷に押し出されるようにして、人類は南へと押しもどされていく。
その強い光の数を、徐々に増やしながら。
何世代が交代したのか。
青い光の数は、数千まで増えている。
刹那、地表からカッ、と鋭い光が放たれ、一同は目を閉じた。
恐ろしい光が、こんどは東南アジアの一角で炸裂している。
インドネシア、スマトラ半島のあたり……。
「また火山か……」
息を呑むケート。
阿蘇4を上まわる、超巨大噴火に見える。
見たことのある煙が、こんどは北西方向に向かって広がっていった。
「……聞いたことがあります。あれは、トバ火山」
考古学的趣味を持つヒナノとしては、知っていてもおかしくない。
「はじまったよ。最後のカギだ」
クロトの指さす方向には、インド亜大陸がある。
「まずいな……モンスーンだ」
低い声で、空恐ろしげな声を漏らすケート。
インドになじみの深いケートならずとも、インドのモンスーンは子どもでも知っている。
とてもシンプルな季節風だ。
一般に夏の場合、温まりやすい陸地の空気が上昇し、空いた空間に、温まりにくい海上の空気が流れ込んでくる。
しかしインドの気象台では、これについてなにも知らない、とも言われる。
身近でありながら、厳密な定義がされていないということだ。
「なんでー? 風が西に吹いてるよー。また人のいっぱいいる方向に、もくもく広がっていくよー」
悲鳴のような声を漏らすサアヤ。
「コリオリの力は、北半球では進行方向に向かって右向きに働く。教わったろ」
高校生ならケートの言葉の意味は理解できるはずだが。
「教わったけど、わっかりっませーん」
アホ声を張り上げるサアヤ。
さっき自分たちを襲った噴煙も、いまインドを襲っているらしい噴煙も、基本的には同じ力によって押し流されている。
ケートのような脳みそは、イメージされた世界を数学という言語に置き換えて理解するので、瞬時に状況を把握できる。
物理の力は、すべて数学の言語で書かれているのだ。
「季節風? いや貿易風か?」
どこかで習ったような単語を口走るチューヤ。
たしかに、地学の授業でこれらのことは一通り習う。
だが、脳内に最低限のイメージすらできない人間に、言葉だけ詰め込もうとしても無意味だ。
文系の陥りやすい罠、といえる。
「低緯度域ではハドレー循環。その北東からの風に、南東からの季節風が加わる。……インドは、終わりだ」
ケートは冷酷に断じた。
──黒い悪魔につぶされて、インドの生命は多く絶滅する。
何十万にも増えた人類の光が、またしても消えていく。
大量絶滅が、再び開始された──。
「思い出しました……」
小さな声でつぶやくヒナノ。
彼女は、ケートのように現象を数学で理解することはできないが、世界史という得意科目を持っている。
さらっと触れる程度だが、先史時代についても多少の知識はある。
数万年まえのその日、インドネシア、トバ火山が破局噴火した。
このときのインドにおける人類の流れは2方向。日本まで行って引き返す流れと、出アフリカを果たして先へと進む流れだ。
このふたつが、インドで出会って数を増していた、ちょうどそんな時代。
当時、インドの東海岸に暮らしていたホモ・サピエンスは、熱帯域の貿易風によって加速されたモンスーンに乗って、おそるべき速度で襲いくる黒い影を見たことだろう。
「思い出したって、例の理論かい?」
問いかけるケート。
「ええ……。人類はこのとき、最大のボトルネックに陥った」
うなずくヒナノ。
──覆われる、インド亜大陸。
理屈はわからなくても、そこでどんな事象が引き起こされているか、チューヤたちはよく知っている。
さっきまで実体験していたことが、再びくりかえされているのだ。
吹き寄せる烈風、降り注ぐ石つぶて。
濛々と舞う火山灰は、数万年後のインドやパキスタンの人々の目に、5~15センチという堆積層として報告されることになる。
グリーンランドの氷床コアからも検出されており、地球規模の環境変動をもたらした、とも言われている。
この噴火と同時期に、ヒトのDNA多様性が著しく減少するという。
当時の人類の大半が、このときに死滅したという説もある──。
事実、インド周辺に集まっていた人類の種は、つぎつぎに消えていく。
われわれの祖先は、この破局噴火によって1万人規模まで減少し、絶滅の危機に瀕した、という「トバ・カタストロフ」理論。
ここで人類は存続にとって最大の危機、ボトルネック効果を体験した。
しかし一方で、別の重要な変化を引き起こしている。
人類の片割れである「女たち」に、最後の進化を引き起こしたのだ──。
「徐々にーっ!」
突然、声を張り上げるサアヤ。
その声は、完全にいつものサアヤにもどっていた。
「もどった……?」
喉を押さえるヒナノ。
「ははっ、しゃべりやすいぜ」
マフユも一応、女子だ。
女たちの喉が解放されていく。
顔を見合わせる一同。
すべての謎は解かれた、という直感がやってくる。
俯瞰された世界地図のうえ、最終進化は赤い光によって表現されている。
インドを中心に、急激に増える赤い光。
青い光と混ざりあいながら、徐々にその数を増していく。
「火山のおかげで減ったけど、増えた?」
それがプラスなのかマイナスなのか、即断できない。
「トバ・カタストロフは、人類が一度、トバ火山の噴火によって1万人程度まで減少し、絶滅の危機に瀕したという理論ですが」
首をかしげるヒナノ。
「トバのみで全人類が絶滅の危機に瀕したというのは、どうだろうな」
陰謀論者のケートをもってしても、そこは懐疑的だ。
トバ・カタストロフという「理論」はあるが、うのみにするのは正しくない。
たしかに合致するデータもあるが、合致しないデータのほうが多いからだ。
局地的に気温が低下したことは事実だろう。
一連の絶滅が起こったことも、まちがいない。
しかし、地球規模の環境変動とまで言い切る証拠はない。
氷床コアや湖の年縞が示すデータの多くが、火山を根拠とする寒冷化を否定している。
だからといって、カタストロフがなかったとも言えない。
いや、むしろ、だからこそ「局地的な半絶滅」が問題なのだ。
阿蘇、トバ、タウポと、直近数万年の単位だけで、カタストロフ級の噴火は多数、発生している。
それによって、一定の気候変動は起こった。
ただし、全地球規模ではない。
局地的に、だ。
問題はひとつ、そこに人類がいたかどうかなのだ。
阿蘇とトバについては、いた。
これが、もっとも重要である。
タウポの周囲には、2.65万年まえ当時、だれもいなかった。あるいは、だれもいなくなった。
よって、人類に変化を与えなかった。
トバ・カタストロフは「人類が1万人規模まで激減した」というボトルネック理論を提唱しているが、じつは逆だ。
火山は、1万人程度の「人類の最終形を生み出した」のである。
トバの生態系に対する影響が、アフリカには「なかった」という事実は、すでに証明されている。
ある必要はない。
阿蘇やトバの周辺だけに、劇的な影響があれば事足りるからだ。
トバの噴火の影響は、風下であるインドやパキスタンまで及び、5~7センチメートルの堆積層として確認されている。
5000キロメートルも離れた場所に、絶大な影響を与えた。これは事実だ。
阿蘇は、トバよりも規模が小さい。
が、当時、人類はその爆発から、たった1000キロしか離れていなかった。
火山が地球規模の環境変化を与えたか否かと、人類進化は結びつかない。
たとえ5000キロメートル風下に影響を与えたとしても、地球の周囲は4万キロメートルもある。その先に影響への影響が少なかったとしても、驚くにはあたらない。いや、むしろ、影響は限定的であるべきだ。
多くのデータに基づき、地球は、破局噴火という単独要素、ましてや人為的な影響などという小さな要素では、さほどの影響を受けないことが予想される。
現に、旧世界にはまだ古い型の人類とその仲間たちが、多数、分散して生存している。
が、赤と青の強い光が増えることによって、徐々に旧来のオレンジの光が呑み込まれ、消えている。
特定の進化が、選ばれて継承されている──。
「阿蘇により、人類は鍵を手にした」
クロトの言葉に従って、リョージの上に「♂」のマークが浮き上がる。
「トバにより、人類は鍵穴を見出した」
ヒナノ、それからサアヤ、マフユの上に「♀」のマークが浮き上がる。
鍵が鍵穴に合致して、輝きを増す光。
それはある意味、
「生々しいね」
あえて口にするチューヤ。
「ちょっと男子! 目ェ閉じる!」
なんとなく叫ぶサアヤ。
「いやこれ学問じゃん……」
ケートの冷静なツッコミ。
日本列島から東南アジア、インド方面に向けてもどっていた鈍い光が、一挙に輝きを増した。
弱いオレンジの光が減っていき、青と赤の強い光だけが混ざって、増えていく。
「ともかく、あとから女が進化したんだな」
納得の表情のチューヤ。
「女権論者に怒られるよ」
やや不満なサアヤ。
「だが、順路ではある」
冷徹なケート。
──ふたつの集団が出会うと、通常、どちらかの集団がもう一方よりも社会的に優位に立つ。
優勢な集団の男性から、劣勢な集団の女性にDNAが流れ、できた子どもとともに女性はもとの集団に残る、というのがよくあるパターンだ。
近年では、白人男性から奴隷への遺伝子流動が、顕著な例といえる。
日本で強化された核DNA(父系)が、インドで強化されたミトコンドリア(母系)DNAと混ざり、最終的な現生人類の「割合」を決定した。
インド亜大陸とその周辺に散在する、特別な集団の分母が約1万。
トバ・カタストロフ理論において、人類が経験したという絶滅寸前のボトルネックに符合する。
しかし、ホモ・サピエンスは「1万人程度まで減少」したのではなく、より大きな集団のなかから「1万人程度が選ばれた」という考えが、このさい新しい。
「最終進化だ。人類は、ここから来た」
問いへの答え。
ジャバザコクは、その存在意義を果たした──。




