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「まあ、そういうことさね」
一仕事終えたように言うクロト。
「え、なんなの、どういうこと?」
わかっていないチューヤ。
「徐々に人間をやるってさ。なんだよそれ、リョージ」
ケートの理解もまだ半ばだ。
「いや、なんとなく、そんな言葉が出てきた」
リョージ自身、直感を意訳するのがむずかしい。
「……あれ? リョージ、その声」
ふと気づいて、チューヤはリョージの喉を指さした。
「おまえもだぞ、チューヤ」
気づきはケートも含め、同時にやってくる。
「おっ、ケートもか」
なかでもリョージの声が、もっとも力強く「答え」を示している。
男子3人、顔を見合わせた。
この世界に放り込まれた最初から、喉になにかが引っかかっているように、発声に要した努力の壁が取り払われている。
かすれたような、押さえつけたような、どこか無理して絞り出していた声が、いまはクリアに流れ出した。
言う側も、聞く側も、それははっきりと聞き取れた。
「……火山灰のせいかな?」
リョージの自問に、
「ま、そういうところもあろうけどね」
他答するクロト。
──火山灰によって、人間の肺はダメージを受ける。
火山岩にはクリストバライトと呼ばれる結晶性の鉱物が含まれ、噴火で火山岩が砕けると、その結晶も砕けて細かい粉になる。
塵とは、小さければ小さいほど人間に悪影響を及ぼす。
アスベストなどによる塵肺が問題になったのはそのためだ。
小さい火山の場合、灰は風下に数十キロ程度ですぐに落ちる。
大きい噴火でも、長く漂うのはほんの一部だが、その一部は何年も大気を覆い、地球環境に影響を残しつづける。
対流圏を抜け、成層圏まで達したガスと灰は、オゾン層にまで達する。
硫黄を含む小さな粒子は地球を覆い、太陽を遮って平均気温を下げる。
硫酸塩エアロゾルは、うすいもやとなって、いつまでも成層圏を漂う。
20世紀末のピナツボ火山の噴火では、数年もすると対流圏に落ちてきて気候はもどったが、阿蘇レベルの破局噴火では、それどころではない。
その影響範囲は広範であり、巨大な集団全体に影響を及ぼすだろうことは、想像に難くない──。
「えー、いいなー」
まだもどらないサアヤは不満げだ。
「おまえらだけ、ずりーぞ」
マフユも一応、女子である。
「どういうことですの?」
喉を押さえるヒナノ。
女子3人は、いぜんとしてさっきまでの声だ。
かしましい女子としては、まくしたてるようにしゃべりまくりたいのに、邪魔なしがらみがどうしても外れてくれない。
エヘン虫め、とサアヤは地団太を踏んだ。
「だいじょぶか、サアヤ。まあ水でも飲め」
気を使っているふりをするチューヤ。
「ごくごく、ケホケホッ、男子ばっかりいいな、まだ調子わるいよ」
努力して声を発する。
「どういうことでしょう。男性方はみな、もとにもどられているようですが」
ヒナノは非難がましい目でクロトをにらむ。
「女はこれだからな。弱っちい生き物だぜ」
ケートが嘲笑すると、
「なんだとクソチビ、てめえ男のくせにぶっ倒れて、リョージに助けられてたくせによ」
マフユが蹴りを放つ。
「まあまあ、マフユは女らしくないってことで……ひでぶ!」
当然の反噬を食らうチューヤ。
げしげしと蹴りつけるマフユ。
だれも助けようとしないデフォ。
哀れにうめくチューヤの上から、リョージは魔女クロトに問う。
「どうなってんだ? オレたちの喉は治ってるけど、女子は」
「ふん、それが残り半分の答えだよ」
クロトは鍋のなかに、腕を突っ込みながら言った。
顔を見合わせる高校生たち。
「残り半分? 最初の半分もわからんのだが」
クロトは鍋から腕を引き出す。
ぞろり、と出てきたのは、一本の針。
ゴシックふうの意匠にも見えるが、古代ギリシャふうというのが正解だろう。
類似したものとして、天体の位置を計算する「アンティキティラ島の機械」が知られている。
──それは、時計の針だ。
かちっ。
どこかで、歯車が組み合わさったような音が聞こえる。
クロトが魔術回路の逆順実行を開始する。歯車に貯められた魔力は、周辺空間を一同の意識とともに「魂の時間」に似た時間軸へと引き込む。
縦に伸びた「長針」に対して、奥行き方向に、さらに細い「秒針」が伸びた。
「さあ、進めるよ」
クロトの腕が「長針」にかかり、その角度を右方向へぐいっと押し込む。
奥行き方向に延びていた「秒針」が、ただちに、すさまじい速度で右回転をはじめる。
三半規管と大脳基底核を中心に広がる奇妙な感覚に、チューヤたちは一瞬、平衡感覚と現実感を喪失する。
回転する「秒針」が、竪穴式住居の内装を切り破るように上昇する。
飛行機の離陸くらいの上昇感とともに、「秒針」の切り裂く空間が螺旋を描いて高空へ。
螺旋に沿って景色は大きく開け、見下ろせば──東京。
「うわー、高いねー」
サアヤの感想は無意味に素直だ。
「成層圏か。だいぶ高みまで逃げ出したな。……阿蘇4の噴煙が広がっていく」
ケートが重要な景色にフォーカスする。
「せいぜい理解しな」
クロトはすこしずつ、「長針」を傾けていく──。
見下ろすと、日本列島の北のほうに、青い光の点が広がっていた。
「あれは……」
生命の火、というロマンティックな言葉が思い浮かんだが、粗野な男子であるチューヤは口には出さなかった。
「よく見つけた。あんたが使っているその木の皿を、ごく最近まで使っていた連中だよ」
高空に舞い上がる「船」の舵を取りながら、応じるクロト。
いずれジャバザコクと呼ばれるであろう場所に、集落を築いていた人々。
彼らが夜逃げしたような痕跡は、つまり。
「火山から逃げている、のか?」
眉根を寄せるケート。
そんなことが、ありうるとすれば?
「神さま、かな」
原初神、という単語をあえて避けた意味は、チューヤにもよくわからない。
「そういうことだ。さっきの連中が、せっかく自分たちが捏ね上げたヒトという粘土を、火山なんかに滅ぼされてたまるかってんで、あらかじめ北へ逃がしたのさ」
クロトが侮蔑的な口調で言った。
そうしてもぬけの殻となった土地に、未来から旅行者がやってきたことに気づいた「原初神」が、観察に舞いもどったということか?
状況はよくわからないが、いくつかの事実が整合していることは確かだ。
東北地方に広がる人類の「生命の火」は、猛烈な火山灰をまき散らす阿蘇4の影響を受け、ひどく明滅している。
火山の風下で、あきらかに「絶滅の危機」に瀕する、8.7万年まえのプレ人類。
必死に北へ逃げるその流れのなかに、ひとつ、またひとつと強い輝きがともっていく。
一瞬、その輝きがリョージの喉に重なる。
「人間に」
みずからの喉を押さえるリョージ。
「なっているわけだ」
共感力さえあれば、ケートならずとも理解できる。
「徐々に……?」
ヒナノが思うのは力強い彼の声。
「そういうことかよ」
チューヤはごくりと息を呑む。
それは解剖学的に分析することがむずかしいくらい微妙な、声帯の変化だった。
粉塵の多い場所で生活している人の鼻毛は伸びるし、瞼なども厚ぼったくなる。
環境により、人類の形態は速やかに、かなりの程度まで変化することはよく知られている。
喉が変化することで、ホモ・サピエンスは、多彩な発声能力を得るに至った。
コミュニケーション能力が劇的に改善し、しかも重要なのは、その能力が完全に継承されたことだ。
東北地方に逃げ出したオレンジの弱い光の総数は、たしかに激減している。
だが、そのなかで青く鋭く光る点だけが、すこしずつ増えていく。
継承されたのだ。
時間が進むごとに、その数を増やしながら、彼らが移動している姿が見える。
それは、適応放散という意味でも、最適解に近い。
個体数が多すぎれば遺伝にムラが生じ、少なすぎれば近親婚によるリスクが増す。
その最適の個体数から、選ばれたホモ・サピエンスだけが飛躍を開始した。
すでに準備されていた大脳の機能などにも支持され、人類は、あの運命的な噴火から、今日に至る驚異的な拡大を開始したのである。
それは進化というよりも、後期旧石器革命の理由に近い。
平たくいえば「喉」と「脳」の微妙な変化にすぎないが、それが選ばれて継承されるだけで、じゅうぶんだ。
「──あんたたち言葉を交わし、そして〝仲間を想う〟という選択をした。誇りをもって歩むがいい」
クロトの声音には、はじめて敬意のようなものが含まれていた。
単に、リョージに媚びているだけかもしれないが。
「仲間を助けたのは、リョーちんとチューヤだけだけどね」
ぼそっと認めるサアヤ。
「たまたまバカ体力があっただけだろ。知性が必要な局面なら、ボクだって助けてやったわ」
意固地なケート。
「だろうな。だからケートは、助けておいて損はないかな、と」
リョージの打算は「わざと」に見える。
「損得勘定で助けたのかよ!」
しかたなく突っ込むケートに、
「まあまあ」
なだめるチューヤまでが予定調和だ。
「ははは、そのほうが恩着せがましくなくていいだろ」
リョージの笑顔に衒いはない。
高校生たちの理解は、言葉を交わすことによって進む。
人類は意思を交換し、互いを思いやる行動をとって、生き延びた。
いくつかの例外はあっても、基本的にはその方向で進んだのだ。
「思惑がどうかは、些末な夾雑物にすぎない。わるくない選択でもある。仲間のスキルが必要だから助けるのは、それはそれで正しい。目的は助けることそれ自体ではなく、助け合うことへの期待と思惑を、全員がどこまで共有できるかということ」
クロトが意外に優しい声で言った。
彼女は、ほんとうはわるいやつではないのかもしれない、と思えてくる。
が、だまされてはいけない。
だれより悪魔を信頼していないチューヤは、眉に唾をつけて自分に言い聞かせた。
「仲間を助ける……現代的行動、ですか」
つぶやくヒナノ。
──現代的行動は、ヒトとその他の霊長類を区別する、人類にとって重要な特性である。
その最初期の証拠とされる痕跡は中期旧石器時代に見られるが、一般的になったのは後期旧石器時代だった。
死後の世界のような観念に基づく信仰(象徴的思考)、初期の芸術表現のいくつかの事例(文化的創造性)、増大した組織内の協同や緻密な社会組織など、人類は生き残りのために、他の生物があまり選ばなかった戦略を行使しはじめた。
これら行動様式の進化は、明瞭な言語の進化と密接に関連しており、他の霊長類やヒト科の生物が持っていない、あきらかな特有行動である。
たとえば、短期的に足手まといの仲間を助けること。
いま役に立たなくても、助けておけば、そのうち役に立つかもしれない──。
「動物でも、すこし高等なら仲間は助けるだろ?」
テレビの動物番組で見た知識を語るチューヤ。
「友情とか、そういう情緒的な助ける理由のほうが問題なんじゃないかな」
サアヤの指摘のほうが正しい。
「美しくまとめたいところわるいが、助けておけば役に立つ、っていう打算的理由であるほうが、より現代的行動の要諦には沿うだろうよ」
リョージがめずらしく偽悪的だ。
「モダンタイムスとは、つねに冷酷なものですね」
文化的側面から承認を与えるヒナノ。
「ダブルミーニングだね!」
知っている単語を口にしてみるサアヤ。
「どうでもいいけど腹減った」
ぐーっ、と腹を鳴らすマフユ。
「ところで、マフユは一人で生きてくのか?」
半ばの呆れと関心で、彼女を見つめるチューヤ。
「そういや、助けもしないし、助けられもしなかったな、おまえだけは」
リョージの視線も興味本位だ。
「社会不適応者ってことだろ。クズなんだよ、そいつだけは。人類の例外だ」
個人的感情からもケートが切り捨てるが、
「……ふん。おまえらにもすぐに気づくさ。人類は例外的な結末を迎えるって現実にな」
飄々と言い放つマフユ。
彼女は悪役に慣れている。
それも含めた「多様性」の社会を、人類は築き上げた。
サイコパスだから、という理由で社会から切り捨てることはできない。
それも含めた「全体」を、どう取り扱うかという問題なのだ。
「例外などないよ」
クロトが言った。
あるいは、それは例外ではなく、すべての知的生命体の一般的にたどる道。
そう言いたいのかもしれない。
期せずして一同の視線が集まる。
いくつかの重要なシナリオが絡み合っているが、まだとうてい、解きほぐすことができない──。




