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チューヤはじっと、黒い濁流が埋める川面を凝視していた。
流れを読めば、水底の凹凸がある程度、見えてくる。
「俺のあとにつづくんだよ、みんな!」
リーダーシップを発揮したつもりのチューヤだったが、
「なんで、てめーみたいなやつのケツにつかなきゃなんねーんだよ。ごめんだね」
マフユだけは、背を向けて我が道を行く。
「フユっち!」
サアヤの呼びかけにも、
「向こう岸で会おうぜ、サアヤ。あたしはあたしの道を行く」
マフユは応じない。
この期に及んで、パーティが割れはじめた。
困った事態だが、どうにもできない。
そもそもチューヤは、悪魔を支配することはできても、人間を支配できるほどのカリスマ性は持ち合わせていない。
いくら「まほうせつやく」と叫んでも、「いのちだいじに」しか動いてくれない仲間や、勝手に「ガンガンい」ったり、マイペースに「がんば」る人たちに従ってもらった記憶は皆無だ。
彼は、あくまで「悪魔使い」であって、人間を使うようにはできていないのだ。
──つぎの瞬間、轟音が轟いて地面が揺れた。
上流で、リョージたちが「仕事」をした結果は、速やかに下流域に反映される。
「やりやがった」
上流を眺め、ひゅう、と口笛を吹くマフユ。
「待て、まだだ」
右手を挙げて抑えるチューヤ。
一瞬、水の勢いは強くなり、ほどなく一気に弱まった。
瞬間を見極め、駆けだす4人。
「走れ、みんな!」
目算を立てたルートを目指し、ぬめる川底を蹴るチューヤ。
サアヤとヒナノがそれにつづく。
マフユの姿は……見えない。
どうやらほんとうに、自分の道を選んで進んでいるらしい。
急流は、川幅が狭い、という特徴がある。
目黒川も、向こう岸まで20メートルとない。
途中まではうまく切り抜けた。が、半分から先のルートが不分明だ。
チューヤが一瞬、進路を迷う。
川上へまわりこむか、川下からが有利か。
ままよ、と踏み出す。
川上側から、大きな段差を乗り越えて先へ進んだほうが、その先が楽だ。
たしかにそれはそうだったが、そのためには目先の大きな段差を乗り越える、という前提をクリアしなければならない。
チューヤは持ち前の体力で、なんとか切り抜けたが、後方で女たちが手間取っている。
「私たちは登れないや、川下から行く、チューヤは先行って!」
サアヤの声に、
「そうですね、では……」
ヒナノも応じ、女たちの声が離れて行きかける。
チューヤは慌ててふりかえり、
「待て! そっちはダメだ!」
鋭く制止する。
高いところから見たかぎり、下流側の進路は溜まりになっていて、半ば泳いで進むしかない状況だ。
上流を一瞥するまでもなく、もう時間がない。
無理やりでも、連れていく。
チューヤは流木をつかまえて支えにし、思い切り手を差し出した。
段差の下で、顔を見合わせるサアヤとヒナノ。
当然のように先を譲るサアヤに、ヒナノは一瞬、躊躇するが、伸びてきたチューヤに腕をつかまれるほうが早かった。
渾身の力を込めて引き上げる。
もんどりうって、川底にもつれて倒れるふたり。
その視界に、いっぱいの水が迫る。
時間切れだ。
チューヤは横にいるヒナノと、段差の下に見えないサアヤ、それから川上の濁流を、1秒以内に見て判断しなければならない。
「行くぞ、お嬢」
ヒナノの腕を引くチューヤ。
「え、でもまだ」
口ごもるヒナノ。
否やはない。
状況はつねに転がっている。走り出したら止まれない。
最後の数メートル、背後から迫る水の流れに乗って、押し出すようにして突堤にヒナノを突き上げるチューヤ。
足元をさらう黒い水に飲まれ、濁流に落ちる。
何度も転がりながら、すこし下流で、どうにか這い上がる。
──その上を、空飛ぶ蛇が滑空した。
「やってくれたな、マフユ」
見上げ、にやりと笑うチューヤ。
そこには、二本の棒を交互に竹馬のように使って、棒高跳びをくりかえしながら濁流をわたりきったマフユと、その腹にしがみつくサアヤの姿があった──。
裁判は速やかに進行した。
「てめえ、あたしのサアヤを見捨てるとは、どういう了見だ?」
マフユの殺意は鮮明だ。
当然サアヤを助けなければならないところで、チューヤはヒナノを選んだ。
マフユにとって、許されざる選択である。
「待て、バカ、そうじゃない。おまえがうしろにいるのが見えたから、任せただけだ」
というのがチューヤの言い分だったが、
「うそつけ。おまえはサアヤじゃなく、お嬢を選んだんだ」
マフユの弾劾は、ある種の思惑もはらんで厳しい。
「じゃあ訊くが、おまえはもし俺があそこに取り残されてたら、どうする? 助けたか?」
チューヤなりの反対論陣。
「ヒャクパー見捨てる」
即答すぎるマフユ。
「でしょうね! だから、お嬢を残したら、おまえなら見捨てかねないけど、サアヤならぜったい助けるだろうと思ったんだよ!」
一応、説得力はある。
「なんだとてめー! あたしを利用したのか!」
腹立たしげに足踏みをするマフユ。
「おまえが仲間だと、考えなきゃいかんことが増えて疲れるよ」
ため息交じりに言うチューヤに、
「てめーなんか仲間でもなんでもねー! な、サアヤ。チューヤはああいう男だから、さっさと見捨ててあたしと幸せな世界に行こうぜ」
マフユの目的はサアヤのみだ。
「うーん、よくわかんないけど、助けてくれてありがとー、フユっち! チューヤも、見捨ててくれてありがとー!」
べーっ、と舌を出すサアヤ。
表情を引きつらせるチューヤ。
これもまた起伏ある日常の一コマ、というところか。
「ともかく、あたしのサアヤ見捨てた分は、痛い目みてもらうからな」
ぽきぽきと指を鳴らすマフユ。
チューヤはおびえつつも、
「まあ、ぶん殴られるくらいは覚悟してっけど、すくなくともあの場面では、俺を殴りにくるよりサアヤを助けるほうを優先するだろうという、俺の読みは正しかっ……痛っ!」
「見透かすんじゃねえ! チューヤのくせに」
マフユが「チューヤ」と呼んでいるうちは、ある程度、怒りも収まっている。
「くだらない話はおよしなさい。どうやら上流も片づいたようですよ」
ヒナノが気にするのは、やはり上にいる男だった。
そもそもチューヤに助けてもらったことすら忘れているヒナノの視線の先、ふたつの人影が降りてくる。
ヒナノはもちろん、チューヤたちもホッと安堵する。
「というわけで、ヒーローのご帰還だ」
右手を挙げ、リョージが言った。
「よっ、ご両人! やってくれたね、期待通り!」
満面の笑みで迎える一同。
力ずくで巨大な岩を崩し、一瞬だけできたダムに渦巻く流木を足場にして、半分までわたる。
ほどなく崩壊する滝の流れとともに落下するまえに、軽いケートを向こう岸に投げ、重いリョージはロープで回収する。
そんなアクロバットな芸当は、当然、彼らにしかできない。
マフユにはできたかもしれないが、彼女は他人と協調行動をとる、という思考回路がそもそも欠落している。
やはり、最適のパーティ配分によるミッションコンプリートだった、と考えてよさそうだ。
互いの健闘を称えあいながらも、まだやるべきことはあった。
ぴくぴくっ、とサアヤのアホ毛が揺れる。
「大変! リョーちん、血が出てるよ!」
まったく感じさせないのがすごいところだが、たしかにリョージは落下時、その肩から胸にかけて、大きな傷を負っていた。
毛皮のおかげでダメージは和らいでいるものの、よく見ればはっきりと血の線が浮いていた。
ケートは、ややあきれたようにそのケガを眺め、
「気づかせもしないのかよ。とことん戦闘民族だな、おまえは」
「いやあ、オスってそういうもんだろ」
リョージにとっては、あたりまえのことにすぎない。
生物学的に、オスが極度に集中しているときは、痛みを感じない「仕組み」になっている。
狩猟や戦闘の生命をかけた局面で、痛いの苦しいのと泣き言を垂れ流しているようでは、目的達成の邪魔にしかならないからだ。
たとえ仲間でも「弱み」を見せない、という姿勢も彼の性格をよく反映している。
「いやー、チューヤだったら、ピーピー泣き叫んで耳を覆うばかりの大惨事だよ」
言いながら、手早く懐から薬草セットを取り出すサアヤ。
「ちょっとサアヤさん……。俺だってすこしは我慢するし……うわ、リョージ、けっこう深いね、この傷! 泣いていいよ!」
泣き虫チューヤは小学校低学年で卒業したはずだが。
「ははは、おかげで痛いのは飛んでったよ。……すまんな、サアヤ」
回復要員に薬草を押し当てられ、その治療を謝するリョージ。
期せずして周囲に集まる仲間たち。
6人がこうして生き残れているのは、かなりの割合、この戦闘民族のおかげである部分が大きいことを、だれもが認めていた。
「にしても、すげーなおまえの身体。どこの武闘派ヤクザだよ」
マフユが感心して眺めるのは、その肉体にびっしりと刻まれた古傷たちだ。
「たしかに、あらためて見るとすごいよね」
サアヤが治療する傷口の周囲も、大小さまざまな「男の勲章」だらけだ。
「その胸のあたりの傷さ、致命傷ぽくね?」
感心を通り越して、あきれたような声を出すチューヤ。
「ああ、これか? たしか荒川の土手で……」
考え込みながら、傷の由来を思い返すリョージ。
「百人相手に無双したってケンカの話か?」
めずらしく興味津々のマフユ。
「またそういう適当なデマを流すな、マフユ。せいぜい2、30人ってとこだ」
苦笑するリョージに、
「それでも20人はいたのかよ……」
ケートはやれやれと首を振る。
そのとき、ヒナノの視線が向かうリョージの傷口に、チューヤは気づいた。
必要以上に彼女を気にしていなければ、気づくはずのない細かい観察だ。
その傷には、どんな由来があるのか──。
「背中の……その傷は?」
思わず問いかけるチューヤ。
「ああ、それは……」
答えを探すリョージに、ヒナノの表情が変わる。
サアヤが割り込まなければ、あるいは掘り下げられていたかもしれない。
ぞくり、とヒナノが背筋をふるわすほど、彼と彼女のあいだには深い「傷」がある──。
「やっぱり傷は、男の勲章だよね!」
優しく「手当」を終えるサアヤ。
「俺の肩にも傷あるぞ。たしか貨車から転げ落ちたとき……」
ためしに言ってみるチューヤに、
「人によるね!」
結論は明確だ。
ちょっと俺の傷だって勲章でしょ、バカ言わないで恥よ恥、そうだいっぺん死んでこいチューヤのくせに、といつもの面々がいがみ合っている。
ケートはリョージの傷を観察しつつ、
「しかし、背中の傷は恥なんじゃないのか」
リョージはうなずき、
「ああ、逃げ傷な。けど背後から襲われるってあるし、ケースバイケースだろ。逃げたほうがいいときもあれば、死ぬ気で戦って血路を開くのが最善のときもある」
「逃げるは恥じゃないけど、役にも立たないかもしれないんだね!」
会話にもどるサアヤ。
「なんのこっちゃ」
肩をすくめるチューヤ。
「やめやめ。昭和のヤンキーマンガじゃあるまいし、傷自慢とか恥ずかしいと思えよ」
まとめにはいるケート。
「だから自慢してねーし」
リョージは毛皮を羽織りなおし、よっこらせと立ち上がる。
期せずして、その視線が同じ方向へ向けなおされた。
東へ。
チューヤの方向感覚がたしかなら、この先に、ジャバザコクがある──あるいは数万年後に、それは出来上がる。
白金の台地は強く浸食に耐え、8万7000年後までもその高さを保つだろう。
目のまえの懸崖を登った先に、待ち受けるものは。
チューヤによれば、道のりの9割方は終えているという。
そして言うまでもなく、たいていの場合、問題は最後の1割なのだ……。




