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「もどれるの?」
朴訥なサアヤの問いに、もちろん明確な回答はない。
一同は顔を見合わせ、とくに理論的支柱であるケートを中心に、仮説が組み立てられる。
絶望的立場から、無理やり希望的観測を引き出すのは、リョージたちがそれを要求しているせいでもある。
もちろん彼自身、そのような「計算」に知的探求心を刺激されてもいる。
「可能だろうな。計算上、どんな世界になるかはともかく」
わざと空恐ろし気に言うところが、ケートらしい。
「どんな世界って、どういうことよ!? そもそも、この世界ってなんなの? もしかして夢?」
まくしたてるチューヤに、
「夢オチ! あるある!」
シンプルな「目覚め」は、サアヤにとっても大歓迎だ。
が、チューヤらを筆頭とする一般ピープルの思いつきそうな低レベルの結論を、もちろんケートはよしとしない。
この世界とは、なにか? 答えは明白だ。
ケートは人差し指を立て、
「この世界は、ヒルベルト空間におけるベクトルだ。単一の量子力学的な波動関数によって説明される」
量子論的にはまちがっていない言いまわしだが、まともな人間に理解可能かは別の話だ。
おそろしく噛み砕いていえば、連続性のあるパラレルワールドに放り込まれた、と考えておけばよい。
「かなりの現実感はあるけどな」
自分のほっぺたをつねってみせるリョージ。
痛みはある。記憶もある。
これが夢だと言われたら、世界は全部シミュレーションだと言われても納得できる。
もちろん、それほどシンプルな話ではない。
だが、すくなくとも希望は芽生えた。
「……ジャバザコクって、どんなところだっけ?」
サアヤが問題を引きもどす。
「鬼道に耽溺した女王陛下がいらっしゃって、お国を支配している太古の原始社会じゃない?」
チューヤの理解はその程度だ。
「鬼道って?」
サアヤは問いを重ねる。
「要するに占いだろ。カミサマ、これからどうしたらいいんですか、的なお伺いを立てる」
チューヤにはまだ、サアヤの言わんとする意図が読めない。
「どうしたらいいか知りたかったらさ、これからどうなるかを知ればいいんだよね」
占い大好き女子にとっての理想が、よもや。
「そりゃそうだが、そんなことが」
できるとしたら。
全員の理解が、多少の差はあれど、一致した。
ジャバザコクの性質と、時空の連続性を、並列的に説明できる可能性。
本来、つながるはずのないふたつの世界が、連続的に把握されることでのみ成立する「占い」が、ありうるとしたら。
「将来どうなるかを知りたければ、その世界を見ればいい」
顎に手を当て、つぶやくリョージ。
「だけど、その世界を見た人間はもどってこれないんでしょ」
サアヤの問題提起を、
「だれかを送り込んで、どんな世界を見たかを聞き知る能力だけがあればいいのさ」
ケートが受け取ってつなぐ。
「外れない占い、なんてチートがあるとしたら、そりゃ、卑弥呼さまー! ってなるね」
チューヤの冗談めかした物言いで、
「なるほど。ジャバザコクってのは、そういう国かい」
マフユの頭脳でも、結論を理解できた。
一同、天を仰ぐ。
だれかが自分たちを見ていて、過去の地球の来歴を知ろうとしているのか。
すくなくとも理屈としては、そういう可能性を含み置いたほうがよい。
これは、なにも「卑弥呼さま」だけが得をするシステムではない。
もし当人が、自分の命を捨てても──もとの世界にもどることを放棄してでも、どうしても知りたいことがあるとしたら、その世界へ行くことは当人の「望み」ですらある。
ついでに卑弥呼さまに協力するくらいのことは、してもいい。
そうやって構築されたのが、ジャバザコクというシステムなのではないか。
であれば、ジャバザコクと「もとの世界」との連結は、完全に断たれたわけではない、と考えていい。いや、そう考えるべきだ。
そうでなければ説明できないこともある。
もし現世とのつながりが完全に断たれたなら、チューヤの「呪い」も解かれてしかるべきなのではないか?
あるいはそれが病気のようなもので、どこへ逃げ出そうとも治癒しない、という可能性も否定はできないが。
神なき世界を生きる。
それはある意味、われわれの未来の大部分と重なる可能性がある。
ならば、この世界の謎を解いたとき、彼らは、もといた世界の謎をも解き得るということではないか。
「仮定が多すぎる」
首を振るケート。
「考えて出せる答えでもないでしょうね」
うなずくしかないヒナノ。
「さしあたり大事なのは、生きる! でしょ」
元気だけが頼りのサアヤがもどってきた。
「サアヤさんはいつでも元気ですね……」
皮肉でもなんでもなく感心するチューヤ。
「よっしゃサアヤ、ふたりで生きようぜ!」
悪乗りして敵意を買うケート。
「みんなで、な」
リョージが話をまとめた。
この世界に漂着して、ほとんどはじめて、希望的に進む契機を得た。
この瞬間を大切に、歩きはじめる。
この偶然は、あるいは必然ではないかと連想する。
「あ、イヌだ!」
サアヤが指さした方向には、たしかにイヌのような影があった。
「オオカミだろ。くそ、あいつら俺たちの朝飯を」
先頭で腕をまくるチューヤ。
「おまえがちゃんと見張ってないからだろ」
ガン、と背後からマフユにしばかれるのは、自業自得だ。
「あれはオオカミっぽくないよ。イヌだよー」
サアヤは主張するが、
「サアヤが言うんだから、イヌなんじゃね」
どうでもよさそうなケート。
「そもそもイヌとオオカミ、どこがちがうんだよ」
リョージの漠然とした問いを、
「知らん」
興味なさそうに受け流すケート。
彼らはそれを「どうでもいいこと」と感じたが、サアヤはちがった。
背後からサアヤに操縦され、しかたなくイヌの行ったらしい道をたどる先頭チューヤ。
獣道に近いが、それなりに進みやすい道を選ばれている実感がある。
「鬼が出るか、蛇が出るか」
チューヤの何気ないつぶやきに、
「これ以上、蛇なんかいらん」
言うケートがマフユとケンカをはじめないため、あいだにはサアヤとヒナノがはさまれている。
「ところでケートはさ、なんでウシが好きなの?」
ほとんど無理やり、話題を捻じ曲げるチューヤ。
「うまいだろ、ウシ」
ケートの答えはトリッキーだ。
「そっち!?」
ふつうに驚くサアヤ。
「ヒンドゥーは、ウシを聖なる動物として崇めているからではなくて?」
的確に掘り下げるヒナノ。
「ボクはヒンドゥー教徒じゃない。ヒンドゥー教徒の友人は多いがな。たまたま住む場所と人が、ウシに縁があったってのは事実だ。ウシのつぎはウマが好きだ。お嬢もそうだろ。練馬のクラブで見かけたぜ」
忘れがちだが、ケートはお金持ちのボンボンなので、乗馬クラブくらい顔を出していても驚くにはあたらない。
「乗馬は貴族のたしなみですからね」
ヒナノも、トリのつぎに好きなのはウマかもしれない。
──ケートが親戚同様に付き合うインド人にとっての民族宗教、ヒンドゥーの聖なる動物、ウシ。
生まれてしばらく住んでいたテキサス、モニュメント・バレーには、ともに暮らしたバッファローの群れの思い出が深い。
日本にもどったとき、しばらく放置されていた天王洲アイルは、もともと牛頭天王に由来の土地だ。
ケートにとって、ウシはごく親しみやすい動物だった。
「デカいものにあこがれてるだけだろ、チビだから」
マフユの冷たい見解に、
「好きなら、ちゃんと牛乳も飲まないと」
チューヤが乗っかる。
「おい貴様ら、ふざけたこと言ってると刺すぞ」
ケートの声に宿る怒りが本気度を増すまえに、
「それにしても、チューヤって、いつも仲間外れだよね」
朗らかに犠牲者を吊るして腐すサアヤ。
「と、突然なにを言いだすのかな、サアヤさんは」
チューヤは、いやな表情で背後を顧みる。
「ビクビクしてるところを見ると、自覚症状はあるらしいな」
めずらしく意地悪な笑いを浮かべるリョージに、
「分析しないで! みんな仲間でしょ」
仲間外れにもどりたくないチューヤは訴える。
「うん、私たちは仲間だけど、チューヤはネコだからハズレー。残念だったねー」
サアヤのフリを、
「なんの話!?」
にわかに理解できないチューヤ。
「十二支ですか」
怜悧なヒナノがまず気づき、
「ウシ、ヘビ、サル、トリ、イヌ。たしかに」
リョージもうなずいて認めた。
「ネコはネズミにだまされたんだよねー」
笑顔のサアヤ。
「ネコ、バカだなー」
輪をかけて笑顔のマフユ。
「ネコはニューロン的にも、脳みそスカスカだからな」
学問的に補完するケート。
「あははー」
全員、声をそろえて笑う。
この局面で笑えるだけで、それはすばらしい「フリ」だったことの証左だ。
もちろんチューヤという犠牲者の上にのみ成り立つ笑いだが。
「ちょっと! 世界のネコ派を敵にまわして、明日の太陽拝めるとでも思ってんの!?」
不満げなチューヤだが、これはこれで、まあいいか、と思えた。
ともかく、明日の太陽が拝める希望を持てた時点で、すでに勝利を得たかのような気になってくる。
6人の足取りは、これまでになく力強かった。
まるで燃え尽きるまえのろうそくのように──。




