82
まず、白いものが落ちてきた。
一同、ゆっくりと視線を持ち上げる。
寒さともあいまって、雪が降ったのかと思うが、ある意味美しい軽石成分の乱舞は、先触れにすぎない。
やがて安山岩や玄武岩マグマが冷えて固まった、黒い砂礫が飛来するだろう。
大気中の水分が無理やり核を突っ込まれて水滴化し、墨汁のような雨に変わる。
地面ははじめ白くなり、ほどなく黒が混じってまだらとなり、やがて暗い灰色の底に沈む。じっとりと足下を桎梏する泥濘は、時とともに厚みを増す。
そうやって、鬼界カルデラは西日本の植生に大打撃を与え、回復に数百年かかったことがあきらかになっている。
「てかさ、ケートはなんでそんなに詳しいの」
先頭のチューヤが、ふりかえらずに問うた。
「……ちょっと、熊本いってきてね」
短く答えるケート。
「そういや、俺に断りもなく、勝手にアオガエル乗ってたよね」
チューヤの感情的な語調に、
「なんでキミに断らねばならんのかね、チューヤくん」
皮肉っぽく応じる。
──アオガエルは、熊本電鉄が保有する元東京急行電鉄の5000系で、渋谷駅前に静態保存されている姿がよく知られていた(現在は秋田へ移設された)。
熊本電鉄では2016年に最後の1両が現役を引退したが、北熊本駅構内で動態保存されているため、乗ろうと思えば乗れる。
それに乗ってきた、という話をしたときのチューヤの悔しがり方は尋常ではなく、その姿を見て楽しむためにケートは熊本に行ったのではないか、と思われたくらいだ。
が、じっさいケートが熊本を訪れた理由はともかく、彼の火山に関する知識は正しい。
「げほ、げほっ」
敏感なサアヤが、まずはせき込みはじめた。
「おいでなすったな」
一同、口元に毛皮をたくしあげて覆う。
「あまり吸い込むなよ。粒子が細かいから肺胞を破壊する」
ケートの指摘に、
「息しなかったら死ぬだろ」
絡むマフユ。
「おまえはとっとと死ね、クソ蛇」
切り捨てるケートに、
「なんだとクソチビ!」
踏み出したマフユの足が滑り、ずちゃっ、と音を立てて転んだ。
「おっと」
背後にいたリョージが、すばやくその腕をつかむ。
「おっ、わるいリョージ。……てめえのせいだからな、チビ」
リョージが背後から押さえていなければ、殴りかかっていただろう。
「うるさい。リョージ、その蛇を甘やかすな」
ふりかえりもせず言うケート。
「まあまあ、おふたりさん。……どうする、リョージ。そろそろ休憩するか」
先頭のチューヤが足を止め、ふりかえって問うた。
方向感覚と「体力」だけは高いチューヤと、サバイバル専門のリョージが前後をはさんで進軍する、というプランは最適だが、まんなかの面々がいつまでもそのペースについてこられるとはかぎらない。
とくにサアヤ、ヒナノの体力の消耗が激しいようだ。
「だいじょぶだよ、まだがんばれる」
サアヤの声はかすれ、
「わたくしも……」
ヒナノの声はほとんど聞こえない。
意地っ張りな女子をなだめるようにして、てきとうな木陰を選んで休憩した。
胃が受け付けない、という女子に生肉をわたしておき、男子が集まる。
「あとどのくらいだ、チューヤ」
リョージの問いに、
「どこを目的地とするかによる。途中までコースは同じだけど」
いかに人間オートマッパーとはいえ、未踏の地はまだマッピングできていない。
「チューヤは、呪いをかけた女神に会いたいんだろ?」
ケートが問うと、
「銀座ってこと? うーん。だけど、すこし遠いよね」
首をひねるチューヤ。
「否定しないのかよ。女神に会いたいとか、恥ずかしいと思え。ポンコツのバカチンが、女の尻ばかり追いかけているからそうなる」
どこか嫉妬交じりに悪態をつくケート。
「ちょっとケート、悪意あふれすぎでしょ! おかげで地方の路線へ乗りに行けなくて、こちとらたいへんな迷惑してんだよ」
チューヤなりの理由で地団太を踏んだ。
「そこかよ」
あきれ顔のケートに、
「しかし地図もないのに、白金台とか銀座とか、よくわかるな」
リョージは素直に感心している。
「人間GPSだからな、チューヤは」
事実その点での評価は高いのだが、
「それなんだどさ、俺をあまり非人間的なコンパスかなんかと思わないほうがいいよ。たしかに方向感覚はわるくない自信あるけど、あくまで勘だから。目標物があって、はじめて感覚調整できるんだよ」
控えめに注釈を入れると、
「地形を見て進んでるんだろ?」
眉根を寄せるリョージ。
「それ、あくまで現代の東京の地形だから。ずいぶん変わってるし、こんな原始時代に適用できるか自信はない。もといた場所にもどる、っていう選択なら自信あるけど」
人間オートマッパーが一度歩いた道は、脳髄に刻み込まれる。
彼がもどる「道に迷う」ことはない。
「とりあえずヘンゼルとグレーテルのようにはならずに済むわけだ」
皮肉っぽく言うケート。
「サアヤなんか、元の場所にすらもどれないんだろ? その点、オレたちは安心だよな」
リョージも苦笑する。
「ハードル低すぎ!」
チューヤとしては、もうすこし上を目指したい。
ふりかえり、女子の体力の回復を勘案する。
あまり長く休憩をとってはいられない。
「……銀座へ行こうぜ」
リョージの意見に、
「いや、可能性があるとしたら、白金台のほうだろ。すくなくとも近いしな」
ケートの視線が交錯する。
地質屋および鉄道屋(?)の男子は、脳内に地形図を思い浮かべる。
東京は平らな土地だと思われがちだが、「坂」のつく地名が多いことでもわかるとおり、それなりに起伏がある。
何万年も過去の地形であることを考慮しても、東京であるかぎり、痕跡はあるはずだ。隆起と風化、堆積と浸食が交互にやってきたと考えれば、プラマイゼロの可能性もある。
たとえば大陸移動説を決定づけた「海岸線」は、何億年もまえの痕跡を、たしかに残していた。人為的な変更を加えないかぎり、その変化は「類推の範囲内」であるはずだ。
チューヤの感覚を信じるとすれば、ここはおそらく大岡山あたりである。
文字通りの「山」であり、津波の通り過ぎた痕跡はあるが、ほとんど地表を撫でた程度のようだ。
「なんで銀座なの?」
チューヤの問いに、
「わかんねーけど、なんか老先生がいるような気がすんだよな」
リョージの答えはつとめて感覚的だ。
「老先生って、太上老君か。ふん、中国人は銀座がお好き、ってか」
ケートは何事かを考え込む。
──21世紀現在どうかはともかく、かつては中国の指導層に「銀座」への強い執着があった、という。
銀ブラしたい、デパート行きたい、地下街を見たい、銀座線に乗りたい。
中国の首相が来日したとき、このような希望を受けて、日本側の外交・警備担当者は苦労したらしい。
「いるわけないでしょ! ここ原始時代だよ。……それで、ケートはなんで白金台?」
視線を転じるチューヤに、
「広尾のじいちゃんちが近いからだよ」
ケートの答えも半ば投げやりだ。
「却下! なんだよ、その私的な理由」
判断材料がなくなり、チューヤは眉根を寄せた。
「9万年まえの白金台、一見の価値はあると思うぞ」
「9万円台の白金台?」
「あら、お手頃価格ですこと」
「どうせワンルームでしょ」
「築年数によるかな」
「耐震構造だけはちゃんとした物件選べよ」
軽口をたたきあっているうちに、なんとなく落ち着いてきた。
それぞれ漠然とした連想の根拠があるのかもしれない。
もしチューヤを呪った鬼女が、いまも銀座にいるとすれば、そこを目指すのも一案だ。
しかし、そもそも戻り口と入り口は同じであり、ジャバザコクを目指すべきだ、という考え方にも説得力がある。
──銀座か、白金台か。
「ともかく北へ向かおう。その先は……流れだ」
答えを先送り、チューヤは言った。
男子が方向を決めたので、女子も、よっこらしょと立ち上がった。
彼女らに、とくに意見はないようだ。
移動の問題では、男子に任せておいたほうが良い。
それが無能な男子であれば問題だが、すくなくともここにいる男たちの能力は、「地図を読む」点ではきわめて高いことが証明されている。
重々しく進軍はつづく。




