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「阿蘇山大噴火ー?」
サアヤの口調が呑気なせいで深刻さが伝わりづらいが、これは大変な事態だ。
「偏西風に乗って、早くて3時間、遅くとも1日以内に、東京は灰に埋まる」
ケートが、めずらしく結論から言った。
「手早く行動しなければなりませんね」
ヒナノが促すが、
「飯どうする?」
削いだ薄切り肉を、さっと海水に浸して、味見するリョージ。
「あたしにもよこせ、リョージ! 腹が減っては戦はできねーぞ」
あわてて肉をひったくるマフユ。
「……これは、生食できるよな?」
リョージは昨夜の会話を思い出しながら、ヒナノに問いを向ける。
「ええ、日本のシカは現代でも比較的安全とされていますから、内臓には肝炎の危険がありますが、ロースやモモなら塩で洗えばなんとか」
ジビエ料理の経験が生きている。
せっかく津波が運んでくれた海水だ、利用しない手はない。
天然の調味料に肉を漬けて、ちょっとした塩味の刺身。
みずから味見をして、やや小首をかしげるリョージ。
ジビエの最高峰といわれる「シカ刺し」、それも最高に自然で新鮮なものを、切りたてなのだから、まずい理屈はあまりない。
「味はともかく、2~3切れ、食っとけ。ここからは体力勝負になる」
つぎつぎとスライスして、仲間たちに肉をまわす。
「倒れたら仲間に迷惑をかける、か。……無理してでも食えよ、サアヤ」
自分も食いながら、隣に薄切り肉をわたすチューヤ。
「うん、がまんするー」
目を閉じて、頬張るサアヤ。
「ボクはごめんだぞ、生肉なんて」
ウェルダン派のケートは拒絶するが、
「これは料理じゃない、薬だと思え」
リョージの言質が正解だ。
「そうだぞ、ケート。目を閉じて食えば、まずくはない」
チューヤも援護する。
「いえ、むしろ珍味としていただけるのでは?」
めずらしくヒナノがワイルドだ。
「うまうま、もっとよこせリョージ。あたしが全部食ってやる」
がっつくマフユ。
基本的に彼女が、まずい、と言うことはない。
たとえ言ったとしても、食う。
それが、この丸呑み蛇の生きる道なのだ。
──いよいよシリアスなサバイバルじみてきた。
昨夜の呑気なキャンプファイヤーが一転、地獄の生き残りゲームに変わっている。
ここからは、さらに重要な選択肢がつづくだろう。
気候は一挙に変わっていた。
まるでいやがらせのように、氷河期真っ盛りの様相だ。
きのうは30度近くあり、泳げさえしたのに、いまは氷点下。
このまま気温が低下すれば、夕方までには氷が張っているだろう。
──想定される災害は、阿蘇南海トラフ連動超巨大地震。
日本の形に、かなりの変更を加えた事件といっていい。
「富士山は、たしかに身近にいて噴火されると厄介だが、見ての通り、規模は小さい」
西を仰ぎ見て言うケート。
「そうか? だいぶでかい噴火のように見えるが」
チューヤの見解のほうが、心情的には正しい。
まだ火山灰は到達していないが、西方一面を埋め尽くしつつある黒いプレッシャーは、いまにも臭い立つような火山性の噴煙だ。
そう、問題は「西一面」という点にある。
「噴煙が成層圏まで広がってるから錯覚してるだけだ。富士山の向こうから飛んでくるんだよ、最大の問題は。噴火が富士山だけなら、どんだけよかったか」
「かなりの被害が出た」という程度の表現でまとめられることの多い、富士山の噴火。
人類史上、富士山の噴火でどえらい目に遭った人々は多いが、それを「語り継げる」という時点で、彼らの多くは生き残ったことを意味する。
「そろそろ言え、ケート。オレたちは、どうなる?」
リョージの問いに、
「富士山の向こうに西方浄土を見るのさ」
ケートの答えは弱々しい。
「詩的な言いまわしだね」
サアヤとしてはそれれでもよかったが、
「はっきり言えよ」
チューヤとしては結論を得たい。
うつむいて首を振るケート。
「火山が本気出したら、絶滅するんだよ」
かすれた小声は、だれの耳にも届かなかったが、言うまでもない。
かなり遠いが、見える。
噴煙は瞬時に大気圏の上層まで達している。
それほど遠いにもかかわらず、近くに感じられるくらい、巨大な噴火ということだ。
x=√(2R+h)h
地球は曲面なので、この計算によって、地平線のむこうに見えるものがわかる。
徐々に広がりはじめている、「面」を圧する不気味な黒いもの……。
「ずいぶん遠いのに……」
まだ、それほどの被害が出るのか、ヒナノは懐疑的だ。
「8.7万年まえだ。もっと早く気づくべきだったな。……阿蘇4だ」
ケートには確信がある。
──破局噴火。
その噴出量は、有史以来の富士山の噴火など、比較にならない。
噴出物の量が、2桁ほど、ちがうのだ。
富士山の最大噴火を1として比較する動画があるが、浅間山が4、ピナツボ山が10などと並ぶなかに、九州の縄文人を絶滅させた7300年まえの鬼界カルデラが、170とある。
では、阿蘇4はどうか。
「カテゴリー7、破局噴火だ。8.7万年まえ、噴火規模は600──」
ケートの言葉に、それは死ねる、とだれもが思った。
リョージは厳しい表情でふりかえり、言った。
「死んでたまるかよ。行くぞ、おまえら」
「話聞いてたのかよ、リョージ。この規模の噴火だと、風下に住む大型生物は、ほとんど生き残れない」
「ほとんど、だろ。それに、まだ死んだわけじゃない」
チャレンジもしないで死ぬつもりは、もちろんない。
火砕流の直撃に見舞われる九州一帯は「瞬殺」だが、火山灰の影響を受けるだけのエリアであれば、まだ生き残るチャンスはあるかもしれない。
ケートは短く吐息し、
「まだ、か。わかったわかった、行くよ、行けばいいんだろ。そうとも、たった600、ここ10万年くらいのオーダーで、よくある話だ」
何億年のオーダーだと、さらに上がある。
地球史上最大とされるシベリアトラップ(2.5億年まえ)は、ひとつの火山の扱いではないが、トータルすれば4桁ほど上の破壊力で、そうなると人類ではなく「地球生物の大量絶滅」という話になってくる。
この「スーパープルーム」によって、生物種の約96%が死滅したという。
「そうだよ、生き物が滅びるわけじゃないもの!」
カラ元気のサアヤに、
「だな。せいぜい人類が滅びる程度だ。小さな生き物たちは、けっこう元気に生き延びるだろうぜ」
しかたなく乗っかるケート。
「ケート、自分だけ生き残る気!?」
思わず言ってから、まずったという表情のチューヤ。
「おい、何気に失礼なこと言ったな、おまえ」
小さなケートが牙を剥く。
ぽかすか殴られるチューヤ。
若者たちは、どうにかカラ元気を振り絞っている。
火山トラフ連動地震、マグニチュード9、広域で同時多発。
文明があったら滅びているレベルだが。
「どんな苦難が襲おうと、人間は、生物は簡単にやられはしないさ!」
「生命は光輝くね!」
美しい言葉で行動を飾る者もいれば、
「けっ、ばからしい。たいがい死んだだろ、さっきのシカみたいによ」
「おまえも、さっき死んどけばよかったと後悔するのさ」
事実に対して冷徹な者もいる。
きれいごとを積み重ねるのは簡単だが、峻厳な事実を正しく把握することも必要だ。
さまざまな思想がある。
そのなかで「地面にへばりつくバイキンどもが、くたばってせいせいする」という種類のロジックがあったとして、それ自体をどうすることもできない。
彼には彼の道があり、彼女は彼女の道を行くのだ──。
「それで、どこへ向かう?」
もっとも重要な議案を提起するリョージ。
「やっぱ、スタート地点にもどるのが正しいと思うんだ」
遠慮がちにチューヤが発言した。
「さっきの河原ってこと?」
首をかしげるサアヤに、
「いや、じゃなくて、ジャバザコクのほう」
北を指さすチューヤ。
「逃げるなら東じゃねーのか? 西から灰が飛んでくるならよ」
マフユの指摘は朴訥で正しいが、
「どうやって東へ進むんだよ。千葉まで行ったところで意味なんかねーぞ」
この場合はケートのツッコミが正しい。
「そもそも千葉まで行けないバカチンがいるしね」
見えない壁に手を当てるパントマイムをするサアヤ。
「ごめんね! 俺のせいで自由度減って、ごめんね!」
チューヤに課せられた与件は冷酷である。
「まあまあ、落ち着け。どうせ1両日中には、火山灰で埋まるんだろ? そんな短時間で、ハワイまで逃げられるわけがない」
リョージの言葉に、
「そりゃそうだな」
うなずくケート。
「ジャバザコクまでなら、行ける?」
サアヤの問いに、
「この時代にそんなクニがあるかはわからないけど、白金台までなら、もしかしたら……」
考え込むチューヤ。
その程度すらも確約できないくらい、現在の東京の地理はハードルが高い。
「チューヤの言うスタート地点ってのは、そっちのことか」
昨夜からの議論を思い返すリョージ。
「ああ、ごめん、そう。もうひとつ、銀座って可能性も考えたんだけど」
チューヤには因縁がある。
「銀座? どういうことだよ」
ケートの問いに、
「俺に呪いをかけてくれた鬼女たちが、銀座を拠点にしてるんだよ。いや、もちろん古代の銀座が谷の底なのか丘の上なのかは知らないけど」
「呪いが継続しているということは、まだ例の悪魔とつながっている可能性がある。そのつながりをたどってもどろうって案だな」
うなずくリョージ。
「まったく自信はないけど」
肩をすくめるチューヤに、
「だれにも自信なんてねーよ。よっしゃ、銀座か白金台か、どっちを目指す?」
リョージが問題をざっくりとまとめた。
それでいいの、という視線を全員に向けるチューヤ。
だれも否定してこないので、同意と受け取る。
彼はゆっくり、考えながらしゃべった。
「銀座も白金台も東京の中心だから、南の端の現状からは北上することになる。ただ、まっすぐ進むのはむずかしいと思う。一度、北西に進路をとるか、東へ出て湾岸を進むかだけど」
「海岸線を進んだほうが楽のような気もすっけどな」
マフユが真っ先に選ぶのは楽な道だ。
シナリオ選択だ、とチューヤが神経をとがらす必要はなかった。
頭のいい仲間たちが、すでに答えを出してくれている。
「湾岸はダメです。いつ津波がくるか、わかりませんよ」
通常、津波は複数回にわけて襲ってくる。
しかも、第2波、第3波などの後続波のほうが、大きくなる傾向さえある。
かなりの時間を空けてくることもあり、完全に津波がおさまるまで、地震発生から数日を要する場合すらあるのだ。
そんな大津波厳重警戒期間中に、湾岸を歩くなど狂気の沙汰である。
「だね。北西から、高台の稜線に沿って進むのが正解だと思う」
チューヤがうなずいて、一同に視線を転じる。
「ここがどこか、チューヤはわかってるんだよな?」
リョージの基本的な問いに、
「まあ、だいたい。できれば海のほうも見られたらよかったけど」
東京から出られない男、チューヤの最大の弱点でもある。
「あのあたりは品川ではないのですか? わたくしたちの出た入江は、たぶん日比谷だろうと思っていたのですが」
海に出た女子のなかでは、ヒナノだけがなんとか地理を語る資格を持つ。
「うん、お嬢がそう思うのも無理はないけど、たぶんそこは羽田のほうだと思う。……あれは目黒川じゃなくて、古多摩川の支流なんじゃないかな」
見下ろせば、壊れかけた川を伝い、濁流が海へともどされていく。
多くの川の流れが、この津波によって引き裂かれ、合流し、新たな地形を築こうとしている。
「そうか。チューヤが弾かれたのは、東じゃなくて南の方向だったからな」
腕組みして顎をひねるリョージ。
「多摩川の流れは、時代によってそうとう変わっているからね。この時代は、かなり南のほうに蛇行しているんだと思うよ。その北側の支流が、現代の23区の境界ってことになってるんじゃないかな」
「つまりオレたちは、いま六郷土手あたりにいるわけか?」
リョージとチューヤの動きに合わせ、全員が周囲を見まわす。
「それよりちょっと北、いま登ってるこの高台は」
鉄ヲタと地質屋の男子だけが、かろうじて東京の地図と現状を重ね得た。
「なるほど、荏原台か。だいたいわかってきたぜ。目指す方向もな」
パン、とチューヤの肩をたたくリョージ。
方針は決まった。
あとは、その道が途切れていないことを祈るのみだ。




