79
大規模な地震が起こった以上、そしてそれが連動していると考えられる以上、いずれにしても、どえらい津波がやってくる。
このような低湿地にいては、まちがいなく──飲まれる。
「ああ、そうだな。たしかに、いまは逃げよう」
ケートの同意を得るまでもなく、逃げることは最優先だ。
とはいえ、方向くらいは統一しておいたほうがよい。
リョージに指示され、先頭はチューヤ。
こと「ルート探索」系のミッションでは、チューヤが最適解を導くことが多い。
「できるだけ高いところを目指せばいいんだな」
与えられたミッションをクリアする、というお使いRPGの癖が役に立つ。
「頼むぜ、人間オートマッパー」
有能な仲間はパーティプレイに不可欠だ。
「……努力するよ」
期待の大きさに、チューヤの小さめの心臓がすくむ。
きのうリョージたちと、北側の高台、連続する丘の地形は、だいたい把握している。
はー、いずれここを〇〇線が……などというトンチキな視線で眺めていたことは事実だが、理由はともかく、重要なのは役に立つ「マップ」が脳内にあることだ。
地震のあとは、とにかく高所へ逃げなければならない。
津波てんでんこ。大きな地震がきたら、取るものもとりあえず、友人や肉親も関係なく、まずは自分が高いところへ逃げろ。これは鉄壁の教訓だ。
東北地方太平洋沖地震(3・11)の体感から導けば、このレベルの大地震がきたら、津波の高さはすくなくとも30メートル以上になるだろう。
「標高30メートルだぞ、足りるかチューヤ」
ケートのハードルに、チューヤは頭を悩ませつつ、
「正直、足りない気がする。けど、海があっちだから、たぶん流れがいちばん弱くなるのが……」
鳥観図を脳内に構築できる立体把握能力を持ったチューヤが、本能的に流体力学をも踏まえていることに、ケートはすくなからず安堵した。
てんでんことはいえ、最適のルートを求めうる仲間がいるなら、その引率に従ったほうがいい。
津波は、低いところだけを襲うわけではない。
地形によっては低くてもさほど被害がないところもあれば、高いのに被害が大きいところもある。
流れが集まる河川沿いなどは、波動が集中して、平均以上の高所まで被害が及ぶ。
この場合、流れが入り組んで、遡上するのに時間のかかる丘を目指すのが、最適解だ。
「北西だ。登るぞ」
方向を定め、走り出すチューヤ。
──東京には、山の手と呼ばれる高台のエリアが広がっている。
現在、その「手」の指の隙間にあたる、やや低い場所にいる。
目測で20メートルほどは、すぐに高度が稼げそうだ。海水準の低下分を考慮に入れれば、津波はしのげる──かもしれない。
平坦地がしばらくつづいてから、一気に高さが増す。
21世紀の国土地理院が提供する標高データとは、もちろん大きく異なった地形だが、チューヤは不完全ながら、堆積や侵食の程度を8.7万年まえのモードにアップデートしている。
背後から、不気味な水音が迫る。
自然のざわめきは、大音量で耳孔を聾する。
雑多な動物たちのざわめきも混じるが、彼らに正解ルートを教える余裕も方法もない。
それに、チューヤの道が正解であるともかぎらないのだ──。
ここから先は津波の状況が流れます。
ご注意ください。
「ここまでだ! みんな、木に登れ!」
叫ぶチューヤ。
彼らは時間と場所が許すぎりぎりまで、高所に達した。
それでも物理的に足りない。
あとは木に登るしか、津波を逃れる術は残されていなかった。
奔る津波。
地表は洗われ、若い木々はなぎ倒され、中空に舞う鳥と虫以外、生物の姿は見えない。
サル系のリョージが、巨体に似合わず身軽に木に登る。
他の面々もつづくが、手掛かりが近くにあって登りやすい小さな木を選んだ面々に、危機が迫る。
倒される木、放り出されるサアヤとヒナノとマフユ。
たまたまヒナノを受け止めるリョージ。
サアヤを受け止めるチューヤ。
マフユを無視するケート。
「てめえ、助けろクソチビ!」
濁流のはざまから叫ぶマフユ。
「ふざけんなウミヘビ、勝手に泳げ」
あかんべーをするケート。
「なんだとこの野郎!」
またやってるよ、と周囲の一同はあきれ顔。
「そのまま流れて死ねと言ってるんだ、地球のために」
だが仲裁する余裕はない。
「ざけんな、てめーより先に死んでたまっか!」
全員の視線が集まった先、おかしなことが起こっている。
ちょうど手近を流れてきた木片を投げるマフユ。
直撃を受け、木から落ちるケート。
ぼちゃん、と波紋が広がる。
あっけにとられる他の面々。
彼らは、いったいなにをやっているのだろう……。
怒り心頭のケートは、手近の流木をつかまえて飛び乗り、
「てめえ……ぶっ殺す!」
「かかってこいや、決着つけてやる!」
同じく流木に乗り、サーフィンの要領で挑発するマフユ。
「クソビッチ!」
怒髪天を衝く。
「クソチビ!」
逆切れ地を裂く。
チビとビッチを言い合いながら、手あたり次第、手に触れたものを投げ合い、流されていく愚かなふたり。
あきれるのを通り越して、なぜか感心する仲間たち。
あそこまでの仲の悪さは、もはや驚嘆の域だ。
「ちょっと、この大変なときに喧嘩しないでよー」
サアヤは弱々しく苦言を呈するが、
「心配すんな、あいつらはどこに流されようと死なん……気がする」
チューヤの結論には、不思議な説得力があった。
たしかに、津波の勢いはすさまじいものの、高台に避難していたため、流れが集まる低地に比べてその勢いは弱い。
そのまま危険地帯に流されて渦にでも飲まれないかぎり、安心だと思われる。
津波は沢に沿ってかなり進んでから、ほどなく引いていった。
木の高みから眺めたところ、東京のほとんどは水没したようだが、入り混じる雑木林のなか、時折見かける高木は頑健だ。
「氷河期らしく針葉樹が残ってて助かったな」
ゆっくりと、泥土と化した地面に降り立つリョージとヒナノ。
「ああ。……ケートたちは?」
チューヤとサアヤも地に降り立ち、あたりを見まわした。
先ほどとは一変した、凄惨な風景が広がっている。
木々の根元には土砂と流木が折り重なり、引き潮に取り残された海の藻屑なども見える。
4人は顔を見合わせ、互いの無事を確認すると、再び周囲に視線を転じた。
それぞれに手分けして、ケートとマフユの名を呼ぶ。
「安心しろ、ボクならここだ」
ほどなく、答えが返った。
傾斜の緩やかな崖下から、濡れた身体を引きずるようにして登ってくるケート。
おそらく彼の数学的知見が濁流を計算し、安全地帯を導出したに相違ない。
「フユっちは?」
サアヤの問いに、
「ぶっ殺した、と言いたいところだが生きてるよ。途中まで近くにいた。なんか見つけて駆け下りて行ったぞ」
ケートはそれだけ言うと、疲れ果てたように、やれやれと木のたもとに腰を下ろした。
「ひどい目に遭ったな」
チューヤとしてはタオルをわたしたいところだが、あいにくそんなしゃれたものはない。
「まったくだ。あの蛇、もどってきたら殺していいか? いいよな?」
ぶつぶつ言いながら、懐のナイフを取り出すケート。
「待て、落ち着けケート、気持ちはわかるが、そのナイフはマフユのだ」
説得の理由としては弱い。
「自分の道具で息の根を止められるなんて、あの蛇にふさわしいじゃないか」
ケートの気持ちも、わからないではない。
と、そこへ、どうやらマフユがもどってきたらしい気配が伝わる。
殺意を胸に立ち上がるケートたちの視線の先、マフユにしては巨大な影。
──彼女は、巨大な鹿を背負っていた。
「食いもんだ、リョージ。朝食はシカナベにしろ」
どさり、と巨大な哺乳綱偶蹄目ウシ科カモシカ属、ニホンカモシカを放るマフユ。
彼女は一同の生存にとって、ある程度「役に立った」と言えるのか──。
そのシカは、日本古来の在来種。
やや小型とされるニホンジカのなかでも、北方系の大型種だった。
ベルクマンの法則により、生物個体は寒冷地に適応するほど巨大化する。
きのうのイノシシよりも、はるかに有意義な食卓を演出してくれる可能性がある、が……。
一連の行為についての疑問が払拭しきれない面々は、顔を見合わせて「審議」のモードである。
口々に、しかつめらしい議論を口走る。
「しかたないだろう、今回はそれしかない」
「しかしあの行為についてはしかるべき」
「しかるに私感ですが食料は死活問題ですからね」
「しかめっつらしかしないみんなにしかとお叱り!」
「シカトされて悲しかったのでしかと承るしかなしかと」
どうやらこの連中はふざけているらしい、と理解してマフユの血管が浮いた。
「シカシカうるせえな! ……リョージ、できんだろ鍋」
リョージはマフユの足元のシカを眺めつつ、
「解体はするが、鍋はむずかしいな」
マフユは問い返すまえに、みずから周囲を見まわした。
──水浸しだ。
「なるほど、こりゃまずいな」
火を起こせない。
「あたり一面、この始末だろ。よほど高いところまで登らないと、乾いた土地を見つけるのはむずかしい」
言いつつ、ケートからナイフを受け取り、とりあえず鹿の処理を開始するリョージ。
「シカって英語でなんていうの?」
暇を見つけて話題を振るサアヤ。
「小鹿ならバンビじゃね?」
チューヤのアホな回答。
「それは固有名詞でしょう」
ヒナノの指摘に、
「そういえば、おとなになってからもバンビって呼ばれてたね!」
うなずくサアヤ。
「歌にもありますよ。Doe - a deer, a female deer♪」
ヒナノの歌声に、
「ドーナツの歌だ!」
チューヤが食いついた。
『ドレミの歌』の「ド」は、日本ではドーナツだが、英語ではドー(雌鹿)はフィメール(雌)のデア(鹿)と歌っている。
「つまり鹿はデアなんだね!」
チューヤを押しのけるサアヤ。
「エレファントやパンダは、自然に見かけないにもかかわらず知っていても、身近な鹿を知らないというのは盲点だったな」
是が非でも意見を宣いたいチューヤ。
「奈良の人はマイシカ乗って通勤してるくらいなのにね!」
サアヤのボケに、
「奈良すげえ」
気づかないマフユ。
「怒られるぞ」
一応、突っ込むチューヤ。
「ちなみに雄はバック、小鹿はファウンだ」
英語圏で育ったケートが知識を追加する。
「ラムとマトンのちがいみたいなものか」
チューヤの見解に、
「ひどいたとえですね……」
いやな表情のヒナノ。
──そうこうしている間に、シカの解体はある程度、片づいた。
きのうから食肉処理を引き受けているリョージは、一同がくだらない会話で避けようとしている現実、すなわち「臓物」を見えないところに放擲し、食べやすそうな部位を木に吊るして血抜きにあたっている。
よし、というリョージの声に視線を向けた先には、どうにか「食肉」らしいと理解できる程度まで進んだ解体処理。
「マフユ、そのへんの潮だまりから、海水とってきてくれ」
臓物すら食いたそうにするマフユに、鍋をわたすリョージ。
「あいよ」
食い物に関する指示だけは、彼女も素直だ。
「食い物も大事だけど、これからどうする、って話しないと」
チューヤが遠慮がちに問題提起すると、
「そうだね。チューヤにしては、正しいね」
サアヤがうなずいて、話の流れが決まる。
「わたくしは、津波の届いていない西の山地を目指すべきかと……」
ヒナノの言葉にうなずくサアヤ。
女子的な算段では、乾いた土地で火を起こして温まりたいのだが、
「いや、東京の中心から離れるのはどうかな。なにがあるかはわからないが、なにかを探すべきだと思う」
リョージの見解に、ケートもうなずいた。
──またしてもシナリオ分岐だ。
期せずしてチューヤに視線が集まる。
「……北しかないと思うんだ」
今回、チューヤの決断は早かった。
「なるほど。そりゃそーだね。チューヤは東京から出られないもんね」
皮肉っぽく言うサアヤ。
「なんだよ、結局チューヤの都合かよ」
リョージに海水鍋をわたしながら、口をとがらせるマフユ。
「それもそうだけど、白金台地はやっぱり調べとかなきゃでしょ!」
チューヤにも言い分はある。
「悠長なことをやっている時間もないんだがな」
ぼやくケートに、
「それだ。さっきから言いかけてたこと、そろそろ言えよ」
木に吊るしたシカから肉を削ぎ落としながら、リョージが顔だけ顧みて言った。
視線が集まるなか、西のほうに向けて、あごをしゃくるケート。
──その空は部分的に、恐ろしく暗い。
一同にも、ようやくケートの言葉の意味が理解されつつあった。
あの一面の黒は、地球規模の、なにかだ。




