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「人類がどこから来たか、答えがわかったねえ!」
ぱちぱちと拍手をするサアヤ。
「さーて、クソぶってえウンコも出たことだし、寝ようぜ」
ひさしぶりに聞いたマフユの声に、一同おそろしげにふりかえる。
「お、おまえ、もしかしてケートの話を聞いているあいだに……」
「あん? ああ、ははは、心配すんな、飯は現在消化中だ。明日が楽しみだな。ウンコってのは、そのチビの、クソみてーに長い話のことだよ。いつチョチョ切れるかと心配しちまったぜ」
「フユっち! 女子! ちゃんとして、女子的に!」
ぺしぺしとマフユをはたくサアヤ。
たしかにケートの話は長かったが、ウンコと比較されるとは、ケート本人すら怒るのを通り越して呆気にとられたほどだ。
ともかく現状に区切りはついた。
「もういいだろ、寝ようぜ」
「そうだねえ。夜更かしはお肌の大敵!」
「それでは、あとはお願いしますわね」
女子たちが引き上げていく。
「お願い?」
「なんのこっちゃ」
「見張れってことだろ。これだから女ってやつは」
地面の複雑怪奇な数式を足で消しながら、ケートがあくびをする。
現代の数学者が見たら「もったいない」と言うだろう。
「お疲れだったな。ケートも寝ていいぜ」
「そうさせてもらうよ。じゃーな」
焚火の一角、女子が集まって丸くなっているほうへ歩き出し、やや離れた場所に横になるケート。
「夜の見張りかー。なんか野生時代っぽくなってきたね」
「とっくに野生だろ。チューヤも寝ろよ」
「え、リョージひとりで朝までは無理っしょ」
「そうだな。じゃ、一眠りしてから交代してくれや」
そう言って、ひとり夜の闇に向かい合うリョージ。
彼が見張ってくれると思うだけで、世の中がひどく安全になったような気がする。
うなずいて、ケートのほうへ向かうチューヤ。
すでに軽い寝息を立てているケート。お金持ちにしては、この過酷な環境でも寝つきがいいのは才能だろうか。
視線を転じると、女子が木と草でつくったらしい仕切り。
大きな寝息はマフユ、中くらいのはサアヤだろう。
ふと、ヒナノの気配がないことに気づく。
「お嬢がこんな環境でまともに寝られるとは、たしかに思えないな。……ええと」
見まわすと、やや離れた河原の端あたりに見つかった。
9万年まえの月の光を浴びる、彼女の横顔は神秘的だ。
近づいてみたいが、チューヤのようなチキン野郎に、そんな度胸はない。
悶々と考え込んでいるうちに、いつのまにか眠っていた──。
ハッとして目覚めたのは、焚火が消え、肌寒さを感じたからだった。
あわてて夜空を見上げ、月の位置から数時間が経過していることを察する。
ケートほど天文学に通じていなくとも、寝たときの月の位置くらいはおぼえている。
あとは現在の位置から引き算をすればいいだけだ。
「やっべ、リョージ起こしてくれよ」
言いながら起き上がり、焚火に木をくべ、再点火してから周囲を見まわす。
ほどなくリョージは見つかった。その瞬間、彼から離れていく人影に気づく。
ぎくり、と恐怖に近いものをおぼえた。
それから、とりもどした現実感と類推。
なるべくゆっくり立ち上がり、リョージのほうへ歩み寄る。
「よっ、リョージ。お疲れさん。寝てくれ」
「ああ、チューヤか。わるいな、じゃ、あと頼む」
それだけ言って、歩き出すリョージの背中に、かける言葉が見つからない。
女子の簡易テントのほうで、小さな音がする。
チューヤは短く嘆息し、夜の闇に向き直った。
一瞬、ライオンのような姿が見えた気がした──。
「おい、目ェ覚ませチンカス」
頭部を蹴られたらしい鈍痛と、耳が曲がるような悪口に目を開ける。
見まわせば、そこには早朝の清冽な空気と、マフユ。
「なんだよ、早起きだなマフユのくせに」
「うるせえ。てめえサバイバルやる気あんのか」
再び蹴られる。
ねえよ! と叫びそうになってから、その意味を知るためふりかえると、焚火の周囲には──ひどく荒らされた痕跡。
さすがのチューヤもゾッとした。
「え? なにこれ」
急激に脳に血がまわる。
「オオカミらしいな。どうやら、食べ残しを狙われたらしい」
リョージが散らばった小枝を拾って眺めながら言った。
「だからオオカミに気をつけろと言ったろ」
まさか昨夜の天狼星の話が、今朝の事件につながっているとは、ケートも予想の斜め上だった。
見張るべきチューヤが寝こけている間に、一同、状況は把握している。
世界は、すでに動き出しているのだ。
「す、すまん。俺としたことが」
「なにが俺としたことが、だ」
「そんなに役立たずに見えるってか」
「ちがうのか?」
「ちがいません! 今回ばかりは、面目しだいもございません!」
「胸を張るなバカタレ」
太陽はまだ東に、わずかに見えたばかり。
最悪の1日が、はじまった──。
「あーあ、チューヤのせいで、きょうの朝飯が台無しだ」
「ごめんね! ほんとにごめんね!」
どうやらオオカミは、リョージの解体した肉のおこぼれなどをあさっていた流れで、そのまま鍋に急接近。
当然、まっさきに気づくべき見張りが寝こけているのを幸い、火の消えた鍋まで、ひっくり返してくれている。
「くっそー、イヌめェ」
「イヌはわるくないよ、わるいのはチューヤだよ」
あまりに的確すぎるサアヤの指摘に、ぐうの音もでないチューヤ。
リョージは地面についた足跡をたしかめながら、
「ニホンオオカミ、ってやつか?」
ここが日本であるなら当然、そういう連想がはたらくが、
「なんか足跡すげーでかいぞ」
ケートの指摘はさらに鋭い。
ニホンオオカミは20世紀に絶滅した、日本固有種の小型オオカミだが……。
「このあいだ、考古学や古生物学などを研究している教授から、興味深いお話をうかがいました。3万5000年以上まえの日本には、まだニホンオオカミはいなかったようですよ」
インテリのヒナノが、最新の科学的知見を披歴した。
化石などの証拠から、2万年以上まえ世界最大級の大型のオオカミが、日本列島に生息していたことがわかっている。
その後、DNA分析から3万5000年まえまでに大陸からわたってきた大型のオオカミと、1万4000年まえまでに再びわたってきた未知のオオカミ(?)とが日本列島において交雑し、誕生したのがニホンオオカミであろうと推測されている。
つまりこの時点では、まだ「ニホンオオカミ」は存在しない。
ナウマンゾウにしろオオツノジカにしろタイリクオオカミにしろ、この時代の日本列島はまだ小ぢんまりと島嶼化してはおらず、大陸の一部であるといってもいい状態だった。
「なるほど。島嶼化以前、か。たしかに、日本にしてはデカい動物が多いとは思っていた」
「そういや夜中、ライヨンみたよ、ライヨン!」
夢のなかの出来事だと思いこもうとしていたチューヤだったが、事実だった可能性もあるので一応、口にしてみたところ、
「いくらなんでも日本にライオンがいるか、あほんだら」
言下に否定された。
間断なく大陸とつながっていれば、島嶼化(小型動物は天敵がいないので大型化し、大型動物は食料が少ないので小型化する)は進展しない。
つまりホラアナライオンがいても、不思議ではないはずだが、
「大型のネコ科動物が実在した証拠は、日本にはありませんね」
首を振るヒナノ。
「ヒョウタンだってまだないはずでしょ!」
食い下がるチューヤに、
「ふむ、寝言にしては筋が通っている」
ケートはすこし感心してみせたが、
「たしかに寝てたね」
サアヤのひとことが、マフユの怒りに再着火した。
「……鉄拳制裁!」
「藪から蛇が!」
あわててガードポジションを固めるチューヤ。
「ま、オオカミに襲われなくてよかった、というふうに考えようや」
リョージがフォローにはいると、
「そだね。だれか怪我でもしてたら、ほんとチューヤは折檻だったけど」
うなずきつつ、チューヤからマフユに視線を移すサアヤ。
事ここにいたり、ようやく彼は覚悟を決めた。
「面目しだいもございません……。いや、マフユ、たしかに今回にかぎっては、俺の全面的なミスだ。3発は殴られても、しかたないと思う」
「いい根性だ。歯ァ食いしばれ」
名乗り出たことを後悔する勢いで、マフユが腕をまくりあげた。
ビビビビビビビビビン!
吹っ飛ぶチューヤ。
脳天を突き抜ける激痛。
腫れあがる頬。
のたうちまわりながら、どうにか上体を起こす。
「ま、待て、3発って言ってるだろ、おまえ数が数えられないのか!?」
手のひらを向けた防御姿勢で、おびえるチューヤ。
「ああ? 1、2のつぎは〝たくさん〟だろうが」
腕をぶんまわし、つぎの攻撃準備を整えるマフユ。
「どこの原始的な民族のご出身だよ!?」
尻込みするチューヤに、
「まあまあフユっち、チューヤも反省してることだから、そのへんで許してやって」
助け舟を出すサアヤ。しかたなく鉾を収めるマフユ。
「チッ、こういうのは甘やかすと癖になるぞ」
「いてて……。くそ、ほっぺたの感覚がなくなった」
泣き言と引き換えに、ほんの少しだけ心が軽くなった。
これで責任がとれたわけではないことは、もちろん理解しているが。
「茶番はそのくらいにしておきなさい。それどころではないかもしれませんよ。……ごらんなさい」
ヒナノが西を仰いで言った。
迫りくる事実は、くだらない内輪揉めなど比較にならないほど重要だ。
「……山だね」
阿呆のようなコメント。
「今夜が山だったよ」
まだその重要性が理解できない愚か者たち。
「あれは、富士山、か……?」
はるか西を眺めて、リョージもつぶやく。
「ああ、天気いいと見えるよね。……富士山、かな?」
サアヤも遠くを眺めて、やや首をかしげた。
──富士山は、最初から現在のような形だったわけではない。
また21世紀の新富士が最終形というわけでもなく、大沢崩れなどの山体崩壊を見てもわかるとおり、いずれ別の形へと変化していくだろう。
現在が8.7万年まえとすれば、彼らが見ているのは「古富士」ということになる。
活火山である富士山は、およそ300万年かけて、先小御岳、小御岳、古富士、新富士という進化をたどった。
最初は小さな山だったが、古富士の段階では3000メートルに達する巨大な山体となっている。
古富士は、爆発的な噴火が特徴で、おもにこのときの火山灰で関東にローム層ができたとされている。
「もくもく煙が出てるね。富士山大噴火! かな」
内容に比して語調の軽いサアヤ。
「怖いこと言うんじゃねーよ。破局噴火とか、死ぬだろ」
その点、チューヤの理解も深いとは言い難い。
「破局的な噴火は、北海道とか九州でよく起こる、ってオヤジ言ってたな。本州は、箱根活断層とか亀裂が多くて、ちょいちょいマグマが漏れるから、カルデラができるほどの噴火にはなりづらい。が、北海道や九州は地殻の変形率が少ないから、大量のマグマが蓄えられて大噴火が起こりやすい、とかなんとか」
リョージの知識はそれなりに深いが、
「それな、ボクもじつは……」
言いかけて、ケートは口を閉ざした。
なにか、変だ……。




