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それから、さらに数時間が経過した。
女子たちは半睡の状態にあり、アドレナリンが抜けた男子も眠気にさいなまれつつある、そのとき。
「Quod Erat Demonstrandum !」
ケートの鋭い叫びに、ハッとして目を覚ます5人。
Q.E.D.
答えは、かく示された。
天才は誇らしげに数式のうえに立って、チューヤを筆頭とする愚民たちを迎えた。
紅潮したその頬は美少年だが、どこかに狂気を感じさせる。
「見ろ、これが答えだ!」
周囲一面、ミミズののたくったような文字の羅列が、露出した岩盤にチョークで刻まれている。
ときどき数字らしきものが見えるが、ほとんどはエックスやデルタやインテグラルといった記号ばかりだ。
一同はげんなりして、最初からそれを読むことを放棄した。
「口で言ってくれると助かるんだがな」
リョージの言葉に、
「キミたちのようなバカにもわかるように言えば、これはシンプルな微分方程式だ」
わかりやすく言ったつもりのケート。
「……言われようはともかく、微分はちょっとわかる」
「イラナイ学問だよね」
数学アレルギーの女は断言した。
一方、男たちは一応、擁護にまわる。
「いや、機械工学とかには、かなり必要だぞ」
「今日の科学技術を支えるのは微分方程式である、って数学の先生が言ってたね」
一方、女たちはあきらかに数式から目を背けている。
高偏差値のヒナノをしても、あまり高度な数学にはとっつきがたい。
「数学が大事なのはわかりますが、あなたのやっているのは、役に立たないほうの数学でしょう?」
いつもケートからチクチクやられているヒナノが、ここぞとばかりにやり返す。
ケートがもっぱら耽溺しているのは、現実の世界とはいっさい関係のない「純粋数学」という「役に立たない」学問である(ことが多い)。
「失敬なことを言うな。たしかに抽象的な美しさを追求する数学のほうが好きだが、今回の計算は、ちゃんと役に立ってるだろ」
びしっ、と地を打つケート。
微分とは本来、根気の要る愚直な計算そのものであり、途中で数々のテクニックを駆使しながら、不都合のない答えを導いていく知的労働だ。
万年時計のようなカラクリの巣窟をくぐりぬけて、計算のもとになる極限の式を完成させていく。
それは、基本となる関数を組み合わせ、打ち消し、バラし、一般化し、通分し、展開し、微分すること。
思いつくかぎりの公式を当てはめ、予想し、消去し、ヤマを張り、謎の数字が出てきて驚き、咲いた咲いた咲いたコスモス(三角関数の加法定理の語呂合わせのひとつ)と歌うこと。
そういえば、そんな公式もあったと思い出す知識の前提は、すべて、先人がひたすら積み重ねてきた、高い楼閣の壁に張り出された裏技だ。
偉大な天才たちの仕事があってこそ、ただ計算のみで答えを導き出せることに、感謝しなければならない。
そして見つけ出した答えは、みずからのものだ。
つかみとれ、あきらかでありながら隠された、正答を。
「──訂正します。特殊なケースでは役に立ちますね」
泰然と応じるヒナノ。
「でぃー2じょーえっくすバイでぃーてぃー2じょーのどこが特殊なケースだよ!?」
憤慨する天才。
数学屋としては、バカにもわかるように丁寧に言っているつもりだが、なおさら魔法の呪文のようになっている事実には気づいていない。
彼のような人間は常日頃、周囲の出来事を数学の記号に置き換えて見る傾向がある。
それをしていない(できない)人間と会話するためには、あいだにひとつ、翻訳機を噛ませる必要がある。
ケートがやっている微分方程式は、シンプルに言えば、時間tを変数とする関数x=f(t)だ。
現象全体から見ればかぎられた「ある瞬間」を切り取って、現象の全体像を描く数学的な手法──極限。
真実は細部に宿る。
自然現象を解明しようとするとき、このタイプの方程式に出会うことは、非常に多い。
「わかったわかった。そんなに一般的なケースなら、答えも簡単に出たんだろうな」
リョージが先を促すと、
「観測さえ正確ならな。本来、この手の作業は実験屋の仕事なんだが」
ケートは、ふん、と短く鼻を鳴らした。
かなり理論屋に偏っている彼は、ひたすら観測と実験を積み重ねる体育会系の単純作業は、それほど得意ではない。
しかし必要なデータを集めないことには、計算がはじまらない。
微分方程式のすばらしいところは、さしあたりのデータで解けなくても、無理やりにでも解を出す、というごり押しが(ある程度)通用するところだ。
知識とデータと星空さえあれば、この問題は解ける、すくなくとも解けると信じて解の近似値をはじき出すことは、ケートのような天才であればそれほどむずかしい作業ではない。
どうしても解けなければコンピュータの出番となるが、いまのところ「式を立てる」ことまでは、コンピュータにはできない。
彼のような天才の頭脳は、まだしばらくは人類に必要とされるだろう。
天を指さすケート。
「さすがに愚かなキミたちでも、この夜空の違和感には気づくだろう? どう見てもおかしいよな?」
もちろん、どう見てもおかしい。
が、それは「ちがいのわかる男」の目で、という条件付きだ。
「ちょっと奥さん聞いたァ?」
「あらやだわァ、困っちゃうわねェ」
ごまかそうとするバカ夫婦。
「近所の井戸端会議やめろ!」
地団太を踏むケートに、
「いえ、たしかに、おかしいですね」
いつも先に理解を示すのはヒナノだ。
彼女から手短に示唆され、サアヤも理解を示す。
「あー、そっかー、そうだね、うん、私もわかったー。たしかに、ほんのちょーっとだけ、星座の形がちがうんだね?」
「さすがに愚かなキミたちでも、見慣れた星座が歪んでいる違和感くらいは……教えられなくても気づいてもらいたいものだがな」
底辺レベルの同意に、まだ不満なケート。
すでにその話を聞いている男子も、あらためて夜空を見上げた。
数少ない天文学知識を総動員して、あれやこれやと低レベルな会話をする仲間たちを、ケートは、しばらくイライラしつつ眺めやる。
「言われてみれば、北斗七星とかオリオン座とか、有名な星しか知らないけど、それがあれだけ変わってると、さすがに実感あるな」
リョージの言葉を受け、
「いや、変わっている、という実感がある時点で、それほど昔でもないという意味でもある。もし億年単位の過去なら、星座なんて見る影もない」
ケートがヒントを重ねる。
もちろん「ヒント」などというもので、解答に逢着する気づかいはない。
チューヤたちはわるい頭を寄せ集め、いつものコントざんまいだ。
「それで先生、おいくら万年ほどまえになるざますの?」
「ほーんと、お高いんでしょう?」
「19800年!」
「えー! すごーい」
「いいんですかーあ?」
「ただいまご注文の電話が鳴り響いております!」
バカどもが騒いでいる。
高偏差値の面々は、無視して話を進めることにした。
「それで、概算でどのくらいですの?」
ヒナノの問いに、
「星座の形が崩れる程度、ということは、数十万年のオーダーかもしれんが、キミたちの目でもまだ判断できる星座が多いということは、それ以下の可能性もあった」
ケートの言いまわしは胡乱。
「可能性ってなんだよ。計算したんだろ?」
不興げなリョージに、
「ああ、したさ。さっきも言ったろ。で、答えが出た。……見ろよ、これだ」
ケートは地面の数式のみを指示した。
ふりだしにもどる、ということのようだった。
コントをしていた人々は反省した。
天才ケートはお怒りなので、答えを教えてくれないらしい、と懸念した。
そこで、ごまをすることに決めた。
「いやあ、さすがケート。計算できるところがすごいね」
「しようと思う時点で、越えられない壁を感じるね!」
「にしても、サアヤさん諦め早いっスね」
「数学は人類の敵だからね!」
世の中には一定数、数学というものにアレルギー反応を示す人種が存在する。
「数学は大事ですぜ、旦那!」
「もちろん、それなしでは一日も過ごせない、という現実はありますね」
「近代文明の世界ではそうかもしんないけど、原始時代は時計さえいらないと思うよ! これはこれで、なんかすっきりさっぱりしてていいよね!」
「ちょ、サアヤさん……」
「でも、それはちょっとわかる」
「気が合うな、サアヤ!」
低偏差値が、数学いらない連合で提携しつつあった。
もちろん数学は必要であり、あらゆる科学技術にとって不可欠である。
むろん、天文学も数学のかたまりだ。
「……それで?」
一同の視線を真正面から受け止め、ケートは肩をすくめた。
このバカどもには、まずエサを食わせてやらんとならんらしい。
地面の計算式は、だれが見ても理解不能な象形文字だったが、結論は明確。
それが数学の、数学をして、最高にすばらしいところだ。
「現在は、基底年代0.087プラスマイナス3000、というところだ」
ケートは言った。
「…………」
口を開ける愚民たち。
ケートは軽く舌打ちすると、愚民どもが暴動を起こすまえに、明言した。
「8万7000年まえだよ、だいたいな」
「…………」
ここは東京。
およそ8万7000年まえの──。




