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鍋が、ことことと煮えている。
作業に一区切りをつけて、一同は焚火の周りに集まっていた。
すでに陽は落ち、急激に気温が低下している。
使い古された言葉通り、いちばんのごちそうは「火」だ。
「そういえば南のほうに、大きなゾウの群れを見ました」
ヒナノが言った。
「たぶんナウマンゾウだな」
うなずくケート。
「食いでがありそうな肉だったぜ。リョージがいれば狩ったんだがな」
残念そうなマフユ。
彼女をしても、ひとりでゾウと戦う気にはならないらしい。
「チューヤのせいで、男子は南に行けないんだよね」
意地悪そうに言うサアヤ。
「ちょ、サアヤさん、言い方」
真実なので否定はできない。
「いや、行けないのはチューヤだけで、オレたちは問題ないぞ」
磊落に笑うリョージ。
「そうだな。そもそも人類は、内陸より沿岸のほうが暮らしやすいんだ。現状は遠浅なわけだし、南へ向かうのもひとつの手だな」
追い打ちをかけるケート。
「正しい選択のように思います。間氷期とはいえ、まだずいぶん海水面は低いですから」
ヒナノにも容赦はない。
「そんなら、そのバカだけ残して、みんなで南のほう行こうぜ。なんか寒くなってきやがった」
マフユの決定打。
細い身体を抱いて、南を仰ぐ。
「待て待て待て! 夜は寒いに決まってるでしょ! 俺だけ置いてけぼりとか、イジメだよイジメ! っていうか、俺死ぬよ!? 未必の故意で有罪、太古伝説殺人事件だよ?」
地団太を踏むチューヤ。
死ぬとわかっていて何もしないことを、未必の故意という。
場合によっては殺人の要件も満たすが、
「必ずしも死にはしないでしょう。よほどの個人的怨恨でもないかぎり、殺意の認定は困難です。未必の故意は成立しません。せいぜい認識ある過失といったところで、移動の優位性を酌量した結果の過失相殺により、無罪でしょうね」
ヒナノの冷徹な法的見解に、ぐうの音も出ないチューヤ。
「あははは。いかに刑事の息子でも、文系特進と法廷闘争は無理ゲーだな」
笑うケート。
「道義的な責任は感じるよ。墓くらいつくってやる」
しかつめらしいリョージ。
「リョージまで!? 俺、見捨てられんの!?」
地面に両手を突くチューヤ。
「チューヤ、ひとりで部屋に閉じこもるの好きじゃん。ま、みんなに見捨てられても、私だけは残ってあげるよ」
ぽむぽむとその肩を叩くサアヤ。
「死体が1個増えるだけだろ! いいよ、死ぬのは俺だけで!」
無意識のうちに叫んだチューヤの言葉が、一瞬、空気をかき乱す。
意外な言質だったとみえて、何人かの態度が変化した。
ゲーム脳的には、シナリオ分岐の重要な選択肢だったということになる。
彼がひとりで生き残るのだと決意すれば、みずから最高難易度シナリオへの分岐を踏み出したわけだが……。
「殊勝な心構えだ。成長したな、チューヤ」
「安心しろ、冗談だ。まだ東京で、やることが残っている」
「そうですね。いくつか解かなければならない謎もあります」
「どうでもいいけど飯を早く頼むぜ」
食器をそろえるため、動き出す仲間たち。
すこし離れたところで、サアヤはそっと、チューヤに囁いた。
「こんど死ぬって言ったら、ぶつよ?」
「……はい」
サアヤのトラウマを、目覚めさせてはいけない……。
「意外に豪華なキャンプになったね!」
食器用の皿を手に、言うサアヤ。
「お気楽なやつだよ、おまえは」
渓流で、それらを洗うチューヤ。
と、そのときだ。
ぐらっ、ときた。地震だが、それほど大きくはない。
十数秒のうちに止まった。
「地震だねー」
「ま、ここは日本だってことだな」
日本でなくとも地震は起こるが、日本は押しも押されもせぬ地震大国である。
ふと、ケートが視線を上げて、西を見る。
「……なんか、ピリピリしないか?」
「わたくしも、さっきから気になっていました。いやな予感がします」
うなずくヒナノ。
「なんか起こりそーだな。それも、かなりやべーこと」
マフユが言うと、やけに楽しそうだ。
「……うん、起こるっぽいね」
ぴょん、とサアヤのアホ毛が突き立った。
「出たな、妖怪アホ毛アンテナ」
チューヤが複雑な表情で言った。
「なにそれ?」
ケートの問いに、
「人がたくさん死ぬ合図」
口を滑らすチューヤ。
「ちょっと! 人聞きのわるいこと言わないで!」
憤然とするサアヤ。
「おーい、煮えたぞー」
と、遠くから鍋奉行の声。
一同、はーい、と元気よく返事して動き出す。
馥郁たる香気につられて、腹ペコたちが最後の仕事を終えた。
ふと見上げれば、秋の夜空。
人工の光のない夜は深い闇かと思えば、そうでもない。
「星って、こんなに明るいんだねー」
「比較する近代光源がないから、そう感じられるだけだろ」
「月がとっても青いから~♪」
「お気楽なやつだよ……」
向かう場所では、ぱちぱちと燃えて弾ける小枝。
やや離れたところを歩きながら、ヒナノはもう一度、西を見つめる。
いやな予感しかしない……。
周囲は暗く、鍋は煮えた。
一同の眼前に並ぶ、原始時代と思えぬ豪華料理。
しばし、黙々と食べる。
すばらしい味。噛みしめる。
空腹という最高のソースを抜きにしても、じつにうまい。
取り皿は葉っぱ、飲み物はひょうたん、スープは中心が凹んだ木の幹、というワイルドな食器に囲まれて、鍋はいい味を出している。
木を削っただけの箸は十二分に役割を果たし、一同の胃に続々とカロリーを送り込む。
縄文時代から栽培されていたという、野生のエゴマに包んで肉を食う。
ソースは、ヤマブドウとクルミを砕いたものを混ぜ込んだ、野趣豊かなグレービー。
海水を沸騰させただけの塩分と、ピリ辛のタデをコショウ代わりにして、今夜の鍋部は「海幸と山幸のごった煮ジビエ風」といったところだ。
「うまうま。お代わりだ、リョージ」
「よく食うな。まあ、いっぱいあるからいいけど」
「肉は新鮮なうちに食ったほうがいいに決まってる」
「めずらしく正論っぽいことを言ったな、マフユのくせに」
「熟成肉っていうのもあるぞ。余った肉は燻製にでもするか」
「それはいいけど、つけあわせのお野菜が足りなくなりそうだよ」
「その蛇には生肉でも与えとけばいいだろ」
「なんだとクソチビ。まあ生は生でいいけど」
「いいのかよ!」
「ケーたんはお刺身も苦手だよねー。お肉もウェルダンだし」
「ボクは文明人だからな。火を知らない野獣でもあるまいし、肉は加熱するもんだ」
「たしかに、珍味と称しての生食を好む輩もいますが、危険ですね。フランスでのハンティングの経験から言わせてもらえば」
「そういえば意外になじんでるよな、お嬢も」
「狩猟は貴族のたしなみですから。──部位にもよりますが、シェフから聞くかぎり、生食は控えたほうが良いでしょう」
自分の領地で狩猟ができるような上流階級にとって、みずからハンティングで得た天然の獣肉を用いた料理は、一種のステータスであり、懐かしい伝統料理といってもいい。
この完全な野生肉は、抗生物質や保存料などによる汚染のリスクは低い反面、感染症や寄生虫のリスクはつねにあるため、管理された畜産肉と同様、正しく処理する必要がある、というヒナノの主張は正しい。
「じゃ注意してあげないと、生焼けで食べてるよフユっち!」
「うまうま」
「そいつは殺しても死なんから平気だろ。むしろ死んでくれ」
「一応、内臓は分けてあるけどな。やばいのはモツだろ?」
「基本的にはそうですね。それに内臓も、加熱すればまったく問題ないですよ。危険なのは生食です。シカには住肉胞子虫や槍形吸虫という寄生虫がいますし、たしか、イノシシには肺吸虫やE型肝炎ウイルスがいたような……」
日本でも、イノシシの生レバーから、急性型肝炎での死亡例が報告されている。
「ロースなら平気だろ。どんどん肉ぶちこめよ、リョージ」
「いいけど、厚切り肉をしゃぶしゃぶのように食うなよ……」
「気持ちのいい食いっぷりだね、フユっち!」
「おまえは食わせたいのか、止めたいのか、どっちだ」
鍋部の晩餐は、いつも明るい。
「ところでサアヤ、それなんだ?」
チューヤが、サアヤの手元を指して言った。
サアヤは、こいつバカか、という表情で見返しながら、
「え、知らないの? ヒョウタンだよ」
「あっちょんぶりけ、てかヒョウタンは知ってるわ! どうしたのって話」
いくらチューヤがものを知らなくても、そのヒョウタンが加工されていることくらいはわかる。
「槍の近くに置いてあったんだよ。プレゼントかな?」
どこまでも天然で漫才をするサアヤ。
「ちがうと思いますけど!」
言いながら肉を食うチューヤは、まだ自分の質問の重大さに気がついていない。
「どういうことだ?」
いつ質問しようかと待っていたケートが、契機を得て問うた。
「順を追って説明しますが、まずは結論から申しましょう。──東京には、人類がいます」
ゆっくりと、噛んで含めるように、ヒナノは言った。
事ここにいたっては、その事実に驚く者はほとんどいなかった。
順を追って、確信に至った事実を積み重ねる。
「外来植物だよな、ヒョウタン」
ヒョウタンは最古の栽培植物のひとつとされ、原産地のアフリカから全世界へ広まった。
「ええ。たしか日本でも、いちばん古い時期の縄文時代の遺跡から発見されていますね」
うなずくヒナノ。
「だけど、いまは縄文時代じゃないよね?」
昼間のヒナノとの会話を思い出しながら、小首をかしげるサアヤ。
「もちろん、そんなもんじゃない。……にもかかわらず、どうしてアフリカの栽培種子が、東京にある?」
むずかしい顔をするケート。
「さあ。なんでだろうね。……ごくごく」
サアヤの手からヒョウタンを受け取り、天然水をいただくチューヤ。
「あ、こら! 勝手に飲むな!」
とくに間接キスがどうこう言う間柄ではない。
「うるさいな、大東京の天然水なら、そこらじゅうに流れてるだろ」
言いつつも、しかたなくみずから汲んで帰ってくるチューヤ。
「ごくろう。……ぷはーっ! この一杯のために生きてるなー」
受け取り、派手に飲むサアヤ。
そのままチューヤは、ケートとヒナノのほうに視線を転じ、
「で、なにを考え込んでるんだい、特進クラス諸君は?」
「普通科のキミたちが思いも及ばないことだ」
「きわめて画期的な事実を示唆する可能性が高いですね……」
小声で何事かやり取りするケートとヒナノ。
そこへリョージが合流して、マフユの持ってきた槍を眺めながら、
「ともかく、人はいるよな、まちがいなく」
「しかしまさか、そこに槍とヒョウタンを置いた人も、盗まれるとは思っていなかっただろうなー」
チューヤが、ケートのような皮肉っぽい口調で言うと、
「置き引きとか最低だね。ほんと世知辛い世の中だ」
困ったものだ、という表情のマフユ。
「マフユさん、あんたでしょ、勝手に持ってきたの! 逮捕するよ!」
しかたなく突っ込むチューヤ。
「いいだろ、あたしのものはあたしのもの、世の中のものはあたしのものだ。そしてあたしのものは、ぜーんぶサアヤのものだぞ?」
「いいこと言うね、フユっち!」
パン、と手を打つ仲良し女子ふたり。
「で、どうなんだ、お嬢。なんか変な痕跡はなかったのか?」
リョージから槍を受け取りながら、ケートはヒナノに目を向ける。
「全体的に、あまりにも変すぎて……。山のほうでは、痕跡はなかったのですか?」
反対に問い返すヒナノ。
「うーん。獣道はあったけど、人がつくったかどうかは」
リョージは首をかしげた。
「むしろ人の気配は皆無と思う」
ケートの言葉にうなずき、
「クリ林でもあれば驚くけど、まったく完全な自然林にしか見えなかったね」
秋田の実家を思い出しながら言うチューヤ。人為的に植えたクリ林の痕跡は、東北地方に多く残っている。
「そうですか。しかたありませんね。現在がどの時代かはともかく、おそらく太古代の人類は沿岸を中心に採集していたでしょうから」
山に痕跡が少ないのは、致し方ない。
──沿岸採集民こそ、現在確認されている人類の最古の形である。
有名な南アフリカのピナクル・ポイントなど、沿岸で暮らした人類の痕跡は17万年まえからのものとされている。
「1000年や2000年の昔じゃ、きかないよな」
リョージの問題提起に、うなずくヒナノ。
「桁がちがいますね。──考古学をたしなむ父が、ヒョウタンは人類の原器である、と言っていました」
アフリカ原産のヒョウタンは、1万年以上まえから人類の沿岸移動に役割を果たし、その時点でアメリカまで伝わっている。
沿岸を移動する人類にとって、水を持ち運ぶ、という重大な役割を果たしたのが、このウリ科植物だ。
「そりゃ古いものばっか集めてたら、悪魔が取り憑いてる呪いのアイテムにも出会うわな」
ヒナノからキッと睨まれ、そっぽを向くケート。
「けど栽培ってレベルの場所は、まったく見なかったよな。手つかずの自然ってか、本来の地球ってか。ここも等々力渓谷みたいなもんじゃん?」
リョージの言葉に、
「あれは人為的でしょ、ほとんど。というか、これが自然なんだよな、あるべき」
言いながら、あたりを見まわすチューヤ。
本来の自然にできるだけ似せることで、人為的な自然が、その価値に気づかせてくれる。
──東京は、かつて密林だった。
一瞬、冷たい風が吹き抜ける。
田舎に行くとわかるが、まわりに木々が多いほど、風は冷たい。
「やれやれ、氷河期がもどってきやがった」
「地球は本来、もっと寒いものですよ」
21世紀現在は、奇跡的な長期の温暖期にある。




