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「その発勁、どこでおぼえた?」
ケートの問いに、
「気の合うサル、いや坊さんがいてな。教わった」
リョージが答える。
とても戦闘中とは思えない余裕に、チューヤも慣れてくる。
疎外されたイノシシのほうが、むしろ哀れに思えた。
「最近の寺は、サルにまで布教すんのか」
詳しい事情は知らないが、ケートはなんとなく察している。
「インドの神秘ってやつだ」
奇妙な構えから気合を発するリョージ。
「そーいや、むこうにはサルの神さまけっこういるよね」
チューヤの念頭には、ケートのマンションで見た京劇の仮面のおっさん。
「仏教はインド発祥だからな、一応。──しかし、いよいよ太上老君色に染まってきたな、リョージ」
ぼやくように言うケート。
「ケートが孫悟空の指導を受けていると知ってたら、もっと早く教えを乞うておくべきだったよ」
にやりと笑うリョージ。
重心を落とした、太極拳に似た特殊な「構え」には自信が満ち溢れる。
彼はいまや野生の戦士から、洗練された格闘家へとジョブチェンジを果たしつつあった。
「どこぞの戦闘民族による本歌取りのほうが、有名になっちまったわけだが」
「残念ながら、手からビームは出ないぜ。いまのところな」
リョージは視線をイノシシにもどし、ビームの代わりに岩石を握りこむ。
比喩表現が多すぎていまいち把握しづらかったが、チューヤは経験的に、リョージとケートの背後にある「来歴」を忖度した。
中国の孫悟空(斉天大聖)は、インドからハヌマーンを輸入することで成立した。日本でも、このイメージを借用した新たな歌が詠まれ、世界中で親しまれている。
発勁は中国武術の一種で、格闘における体重移動の要諦だ。本来、超常のエネルギーではないが、そう誤解する者が多いのは、神仙術的に表現されることが多いからだろう。
「ケンカ殺法のリョージにしては、たしかに戦い方がスマートな感じになってきたな」
チューヤが的確に現状を分析する。
「厄介な話だ。いままでのやつは、動きが雑でパワーのロスが大きかった。おかげで、なんとかボクの〝技〟がアドバンテージになったわけだが」
つまらなそうに、優勢な試合運びの「戦闘民族」を眺めるケート。
チューヤは、ははーん、という顔で忖度を完了する。
「なるほど。本能と勘だけで戦っていたリョージが昨今、その〝技〟を身につけはじめたと」
「ボクという巨大な敵を倒すために、かなりの修行をしたらしいや」
巨大な敵がだれかはともかく、少年漫画のオーソドックスな展開において、かなりのページを食ってでも読者の共感を集めるために組み込まれるプロット、「修行」。
チューヤは、リョージが主人公の王道バトルマンガを想像して、思わず笑ってしまった。
ベタすぎる。
「もう主人公とはケンカしないほうがいいね、ケート」
「うるさい。どっちが主人公かは、ボクが決める。勝ったほうが正義なんだ。たとえドーピングしてでもな」
古典的少年漫画にはそぐわないが、青年誌ならあってもいい展開だ。
むしろケートのような個性的なキャラのほうが、おもしろいストーリーになりそうな気がする。
ケートのこういうところは、チューヤも素直にすごいと思った。
どんなにむずかしく思えることも、諦めない。その執念が、いつか行き止まりの道を切り開くかもしれない。
なにしろ彼は、「天才」なのだ。
見つめる先、三たび交錯する筋肉の塊ふたつ。
戦いが重なるほど、リョージの優勢は確固たるものになっているように見える。
「これだ。相手が群れなら、集団戦もいい。だが一匹なら、一対一だ。これこそ男の勝負ってもんだぜ」
戦うリョージは、ほんとうに楽しそうだった。
「一体の敵を相手に、何体ものナカマたちを寄せ集めて倒そうとする、どこぞの悪魔使いに聞かせてやりたい言葉だな」
皮肉を飛ばすケートに、
「卑怯者みたいに言わないでくれる!? それが人類の知恵だから!」
一応、チューヤにも言い分はある。
「知恵ならボクの領分だが、力はリョージの領分だ。あいつがひとりでやれるってんだから、任せりゃいいのさ」
ケートの論法もまた真なりだ。
知恵の領分はケートに任せ、力の領分はリョージに任せる。
それが人類特有の「分業」といえよう。
「人類なら、もっと賢く戦おうよ……」
チューヤのこだわりは、ある意味で農耕民族的といえる。
あえて、もっとも原始的な「武器」、おそらく人類が発祥した時点から使っていた道具で、みずから苦戦しようとする意味がわからない。
が、あるいは理解はしているのかもしれない。
自分たちが、どういう文脈のただなかに放り込まれているのか──。
たとえば「ハンドアックス」は、現在の文脈で使えば「手斧」で、キャンプでもよく使われるありふれた道具だ。
しかし考古学の文脈で使えば、人類進化とともにあった武器となる。
その文化はアシューリアンと呼ばれ、人類史上もっとも広範(アフリカ・ヨーロッパから東南アジア)に、かつ長期間(ほぼ160万年)使われた武器である。
日本列島でも、3万年まえまでつくられていた。
さまざまな種類があり、その用途が不明な巨大な石器も多く残されている。
もっとも原始的な方法は、ぶつけたら痛そうなカドをぶつけてやる使い方である。
事実その攻撃は、着実にイノシシの体力を削っていた。
「リョージだってバカじゃない。われわれの蓄積した〝知〟は、集団でなければ発揮できない、とでも思っているのか? ちがうね。むしろ〝個〟のうえに蓄積された人類の英知こそ、ボクやリョージのように、傑出した逸材を輝かせるんだ。よく見てな、凡人」
ケートたちには、どうやらある種の確信と、哲学があるようだった。
事実、リョージの「構え」は、合理的な戦闘理論に基づいたものだ。
脈々と受け継がれた格闘術の指南者がいて、磨き上げられた人類の「技」を見せてくれている。
間合いが詰まる。じっと待ち受けるリョージ。
イノシシの巨体にとっては、さほど大きくもないターゲット。強大な位置エネルギーによる一撃を加えて撥ね上げてやれば、一瞬でケリがつくという野生の判断を、これまで紙一重で躱されてきた。
つぎこそは──いや、フェイクを入れるか。
イノシシがどんな戦略を立てているのかは、もちろんわからない。
一方のリョージは、鍛え上げられた筋肉を前提として、ごくシンプルな基礎体術を用い、相手の動線にすり込んだ。
「破ァ!」
するっ、とイノシシの直進経路から身をかわすと同時に、横殴りのパンチ。その反動で、さらに相手の攻撃範囲からそれる。
マタドールの動きに近いが、使用するのはマントではなく身ひとつ。
イノシシの側頭部から鮮血が溢れる。
もんどりうって転がり、のたうちまわるイノシシ。
またしても、なにが起こったか理解するのが遅れる。
だが、あの小さな生き物が、自分に無礼な反撃を加えてきた事実だけが、鬱勃たる怒りとともにイノシシの全身を燃え上がらせる。
イノシシは雑食である。
イノシシを家畜化した豚に与えることで、死体の証拠隠滅にも使われるほど、なんでも食べる。
この目のまえの無礼なサルを、ぶち殺し、食ってやる、という強烈な意思がイノシシを立ち上がらせた。
リョージは、今度はやや重心を高くして、ぴょんぴょんと跳ねながら、すれちがいざま、相手の牙から受けた頬のダメージに指を当て、自分の血をぺろりと嘗めた。
そして右手を差し出し、くいくいっ、と挑発する。
「どこぞの映画スターのつもりですかな」
あきれるチューヤ。
「ふん、楽しそうでけっこうだな。好戦的なサルには困ったものだ」
ケートの立ち位置も微妙になってきた。
「プギィアャアァアァーッ!」
こんどは間を置かず、ただちに突進するイノシシ。
「きてェ、ハァア!」
怪鳥音を発するリョージ。
ブルース・リーと神仙術を混ぜたような気合で、リョージの攻撃が連続ヒットする。
イノシシの動きは単調だ。読むのに、それほどの手間はかからない。
この野生生物の最強の攻撃術が、加速度をいっぱいまで詰め込んだ突進なのだが、最初の一撃をいなして以降、リョージは相手に「加速」自体を許さない。
頭を振るか薙ぎ払うくらいしか許されない動きのなかで、リョージの天性の格闘センスが、すべてをいなしながら、鋭い反撃をもって相手のダメージを積み増していく。
ピンポイントにつぎつぎ、頭部の痛い急所へと打ち込まれる花崗岩。
耐火性は弱いが、耐久性、耐摩耗性に優れ、地球上にもっとも多く存在する岩石は、使い方によっては最強の武器になる。
割れようが、砕けようが、地面に新しい武器が、いっぱい落ちているのだ。
もはやイノシシの頭部は血まみれだったが、まだ意識を保っているところは、さすがである。
野生の世界で、意識を失ったら終わりだ。
レフェリーがやってきてドクターストップ、治療開始、などというスポーツの世界ではない。
選択肢は、ふたつしかない。
戦うか、逃げるかだ。
野生生物は、朴訥な行為者である。
透明なケースに閉じ込め、どちらかが死ぬまで戦わせるという昆虫の異種格闘技は、残酷な主催者が存在しないかぎり、成立しない。
野生の生物は、勝ち目がないと判断した瞬間、ただちにフェーズを切り替えるからだ。
「ピギィイィーッ!」
叫びながら体を返し、リョージに背を向けて走り出す。
──イノシシは逃げだした!
周囲には、少ない生命を養うに足る世界が広がっている。
こんな危険なサルを相手にしなくても、大自然には、巨体のイノシシを養うに余りある食糧が存在する。
猪突から脱兎へと転じた、その背を眺めるリョージは、すこし残念そうに両手を垂らし、言った。
「試合終了だ。あとは頼むぜ、軍師殿」
「あいよ」
イノシシの退路には、ケートが待っていた。
逃げる曹操を待ち受ける、孔明の罠のように。
リョージが勝てば、必ず逃げるだろう方向を、ケートは最初から見極めていた。
──失敗! 逃げられない!
ケートの攻撃!
用意していた長い棒で、走ってきたイノシシの足元を払う。
イノシシは派手に転がり、崖に身体をぶつけた瞬間、
「いまだ、チューヤ」
「あいよ!」
崖の上に陣取っていたチューヤが、渾身の力を込めて、巨大な岩を落とした。
最初から、そこに急所が来ると予見していたかのように、まさしくピンポイントに、イノシシの頭蓋骨を砕く最後の一撃。
「プギェ!」
断末魔は短かった。
──イノシシを倒した!
経験値10ポイント獲得! アイテム「肉」を手に入れた!
戦いは、「どっちが強えか」を競うフェーズから、生き死にの末に「食われる」フェーズへと移行した。
当然、そこでもっぱら用いられるのは、罠を用意する知性だ。
人類の磨き上げた「技」と「知恵」が、あらゆる意味で「野生」を凌駕した瞬間だった。
この果てしない延長線上で、人類が地球を食い尽くしている現状を連想することは、さほどむずかしくない。
これにて「狩り」終了である。
戦略をまとめたのはケート。
戦場の全体を俯瞰し、どこにどの将軍を配置し、敗将がどこを通って逃げるか、昔から優秀な軍師は読み取ってきた。
野生動物が戦うとき、戦力が拮抗している場合は当然ガチンコの戦いになるが、どちらが敗勢となれば逃げるのもひとつの戦略だ。
ヒトは、その戦略の上を行けるがゆえ、生物界を制したのである。
リョージがガチバトルというフェーズを要求することを理解したうえで、ハンティングというつぎのフェーズの結末を予期した。
この戦いは、リョージとケートが存在した時点で、このような結果は約束されていたと言える。
「おまえら、すげえな」
チューヤは、彼らが敵ではなく味方で、本当によかった、と思った。
人生の最後までそう信じられれば、どんなに良いか知れない。
「一度キャンプにもどろうぜ。解体はそこでやれ、リョージ」
ケートが言った。
リョージは、とりあえず首筋を切って血抜きをすると、ナイフをケートに返した。
それから太い棒を見つけてきて、イノシシの前後の足をくくりつける。
先棒を担いで立ち上がり、
「了解、軍師殿。行くぞ、チューヤ。後ろ持て」
「はい……」
下僕チューヤは、軍師と将軍の言うことに従わざるを得ない三等兵だ。
「まさか東京で、野生のイノシシを地産地消する日がくるとはな」
先に立って歩くケート。
「大きな収穫に、シロガネーゼかたがたもお喜びだろうぜ」
リョージがめずらしく冗談を言って笑った。
「へぇ、はぁ……へぇ、はぁ……」
軽口に付き合う余裕もないのがチューヤだ。
リョージにとっては100キロ以下の荷物など余裕だが、チューヤにとっては50キロ以上の荷物を担ぐようには、肉体がそもそも構成されていない。
ちなみに21世紀、厚生労働省の通達によれば、満18歳以上の男子労働者が取り扱う重量は55キログラム以下で、常時取り扱う場合には体重の40%まで、となるように「努めること」とされている。
今回、チューヤは、それよりもやや重い重量を担がされ、ひいこらいっている。
個人差が著しい業界であると言えよう。
「ちょっと! ケート手伝ってよ!」
「しょうがねーなあ」
ぶつくさ言いながら、チューヤの横に立って荷重を引き受けるケート。
体重が軽いので応分の荷役だが、それでも20キロ軽くなれば、三等兵チューヤでもなんとかなる。
「こんだけあれば何日食えると思う? ケート」
「そうだな。解体の方法にもよるが、100グラム300カロリーとして、6人なら1週間はもつんじゃないか?」
ここが、いわゆる「原始時代」の人々が、意外に裕福な生活をしていたのではないか、と考える根拠となる。
たとえば北方には、マンモスという巨大な肉の塊がいる。
捕獲にはかなりの困難を伴うだろうが、一匹仕留めさえすれば、ある程度の集団が数日間、なにもしなくても生きていける。
その余暇を使って、洞窟絵や塑像などの芸術、効率のいい道具のための化学や、農耕につながる天文学などを深めていったのではないか、と考えられている。
「マフユがいるから5日かな」
「絶食させろ、あの蛇には。爬虫類は食わなくても半年は生きるぞ」
「てかさ、冷蔵庫ないんだよ。腐らない?」
「化学的に保存処理すりゃいいだろ。そんなに何日も、こんな原始時代にいるつもりはないんだが」
「そこだよ! どうするの、これから!?」
一瞬、足を止める3人。
再び歩き出しながら、先頭のリョージが口を開く。
「なんとかなるだろ。とにかく、まずは食うことだ」
どこの世界でも、食うには困らないだろう男らしい見解である。
「食って、考えて、謎を解く。それが人間だよ」
ケートが引き取って、まとめた。
──われわれは、どこから来たのか。




