65 : Past Day 1 : Nishi-magome
「ま、ほっとけ。それがカオスの生き方ってことだろ」
ケートはナイフを握りなおし、手元の小枝を削る作業にもどった。
「納得すんなよケート! なんかおかしいぞ!?」
この協調性のなさ、どう考えても人類らしくない、とチューヤは思った。
「食うか食われるかだ、行くぜイノシシちゃんよ」
じりっ、と距離を詰めるリョージ。
「ゴルルゥグァア!」
テリトリーを犯されたイノシシは、怒髪天を衝く。
──イノシシは本来、神経質な生き物で、できるだけ敵を避けようとするが、挑発されれば話は別だ。
「猪突猛進」という言葉があるくらい、やるときはやる。
イノシシの成獣は70キログラム以上あるが、目のまえの巨体は、それどころではない。
まさに「ヌシサマ」の風格を帯び、おそらく140キロ以上はありそうだ。
ちなみに史上最大の記録としては、アラバマ州で捕獲された体長2.8メートル、体重470キロという巨大イノシシがいる。
さすが大陸スケールだが、既存の環境に存在しなかったイノシシを人間が持ち込んだ結果の巨大化、とも見られる。
一方、日本列島では島嶼部矮小化という生物界のルールによって、むしろ小型化への圧がかかる。
そんな日本でも、100キロ台の記録はザラで、140キロなら、さほど驚くにも当たらない。
「ウエイトハンデをもらえよ、リョージ」
ケートが声をかける。
「だから石持ってるだろ」
リョージにとっては、それでじゅうぶんのようだ。
ケートとの戦いでは、ウエイトハンデとして「頭部への攻撃なし」という暗黙のルールでやっていた。
そもそもリョージはケートの天才を尊敬しているので、頭はなるべく攻撃したくないと思っている。
一方、こんどの相手はイノシシだ。スポーツルールは適用されない。
リョージは精神を集中し、一撃必殺の部位を狙う。
頭部だ。必殺の一点を強打して、戦闘不能を狙うしかない。
紙一重のタイミング。
敵は時速45キロ以上で走る「突撃隊」であり、直撃を受ければ無事では済まない。
「牙あるぞ、牙! こっちもナイフ使っていいんじゃないか、リョージ!」
しつこいチューヤに、
「負けそうになったら使うよ。まあ見てろって」
リョージは腰を落とし、気合を高める。
相手は、さらに興奮する。
通常、野生動物は自分を大きく見せることで「威嚇」するが、リョージは自分を小さく見せている。
ナメやがって、ぶっ殺してやる!
と、イノシシが思ったかどうかは定かではないが、ガッガッと地面を掻いていた前足の蹄を、全速力の踏み台として突撃を開始した。
「来やがれ、ブタ野郎!」
重心を後方、右足を深く踏み込み、右手にためたエネルギーを解放する射線を凝視する。
瞬間、目が合う。
ただのパンチ、と言えばそれまでだが、リョージの渾身の右ストレートが、突進してくるイノシシの顔面を狙って放たれた。
「速度と重量のシンプルな方程式だな」
「リョージ!」
観戦者たちの視線の先、交錯した二体は、そのまますれちがって別れる。
「外したか」
つぶやくケート。
「やるねえ、ブタちゃん」
にやり、と笑うリョージ。
眉間を狙った一撃必殺は、その瞬間を見極めた「ヌシサマ」によって、ぎりぎりで回避されたようだ。
ふりかえったイノシシは、驚きと怒りに満ちた目でリョージを凝視する。
だらり、とその額から血が滴った。
「グルゥワォオウア!」
てめえ、やるじゃねえかこの野郎、と言っている可能性がある。
リョージのほうも無傷ではない。交錯の間際に蹄から受けた一撃が、頬からの流血を強いている。
楽しそうに笑い、その血を拭ってペロリと嘗める。
──考えるな。
「感じようぜ、ブタちゃんよ」
「グァラゥオ! ブォアウェオア!」
輪をかけて興奮するイノシシ。
男と雄の戦いは加速する。
「ホァチャアァ!」
奇声を発して突き出した拳が木の枝をかすった痛みに、ぴょんぴょん飛び跳ねるサアヤ。
「……その拳があれば、敵が襲ってきても安心ですわね」
皮肉たっぷりのヒナノ。
どんと胸を張るマフユ。
「安心しろ。どんな敵が襲ってこようが、あたしがサアヤを守ってやんぜ」
言うマフユを見つめる女たちの視線は複雑だ。
まず、彼女が右手に持っている「槍」が問題である。
それは海岸の岩陰にも置かれていた。
自分たち以外のだれかがつくったものであり、しかもそれはひとりやふたりではない。
「まさか、黒曜石の石刃とはね。驚くべき発見ですよ」
ヒナノの視線は、マフユの持つ槍の穂先にある。
見る人が見れば、ここでこの発見は、大きな意味を持つだろう。
一般に黒曜石は産出地がかぎられ、その利便性から、初期の輸出入品の主要な物品となっていた。
巧妙に細工された黒曜石の破片。
鈍い輝きを放ち、それで髭が剃れるほど研ぎ澄まされた逸品は、その土地にいた人類が、どれほどわれわれに近い存在であったかを推測させる。
「いるよね、なんか」
怯えをにじませるサアヤ。
「人類か、すくなくともそれに近い存在、ですね」
ヒナノの口調は冷静だ。
「首狩り族だったらどうするよ?」
へらへら笑って、最悪のことを言うマフユ。
あきらかに人類らしい痕跡を発見した以上、厳に警戒しなければならない。
戦闘になったら、マフユの出番だ。
それでも、サアヤたちもただの役立たずでいるわけにいかない。
自分には戦闘力がある、ということを主張したいサアヤのパフォーマンスは、かなり頼りない結果だったが。
「うーん、やっぱリョーちんみたいにうまくいかないかー」
ぽりぽりと頭を掻くサアヤ。
ぴくり、とヒナノが反応した。
「東郷くん?」
「あれ、ヒナノン知らないの? 最近、うちの近所のお寺で、リョーちん拳法の修行してるんだよ」
拳を握って格闘家のふりをするサアヤ。
「なんだよあいつ、あれ以上強くなってどうしようってんだ?」
天下無敵のマフユも、タイマンでリョージに勝てるとは思っていない。
サアヤは腰を落とした独特な構えを見せる。
形だけは、それらしい。
「なんかね、そこの和尚さんが原チャリで檀家をまわってたところ、パンクして困ってたら、通りかかったリョーちんに直してもらって、それ以来、弟子になったんだって。私もその和尚さん知ってたから、ついでに護身術を教わってるんだ」
「仏教徒というのは、不殺の誓いを立てているのではないのですか、あなたも含めて」
サアヤはもちろん、だれも殺さないスタイルだが、戦わないわけではない。
「仏教徒も、やるときはやるんだよ。和尚さんは、その筋では免許皆伝の腕前なんだから」
「ああ、そういえば中国仏教には少林寺拳法などもありましたね」
正確には少林拳であり、少林寺拳法とは関係がない。
「佛」の旗印のもとに戦う映画『少林寺木人拳』は、日本でもヒットした。創始者は中国の禅僧・達磨大師とされているが、もちろんただの伝説だろう。
「けっこう有名なんだよ、その和尚さん。カラテと太極拳をミックスしたような流派でね、ご近所の奥さんも健康のために通ってるんだ。この、腰を落としたスタイルが体幹運動になってて、出産のときに大事な筋肉も鍛えられるんだって」
いろいろな目的で格闘技を習う人々がいる。
ヨーガも太極拳も、突き詰めれば格闘技だが、必ずしも敵を倒すばかりがその目的ではない。
「近頃の寺は、そんな副業までしてんのか」
あきれるマフユ。
「あはは、坊主丸儲けって時代じゃないからねー」
同じ仏教徒として理解を示すサアヤ。
「そんなスポーツみたいな格闘技が、実戦で役に立つのですか? わざわざ東郷くんが学ぶような……」
ヒナノは懐疑的だ。
リョージのことを口にするときだけ表情が変わる(とサアヤは信じている)ヒナノを、いやらしい目で見つめるサアヤ。
「にょほほ。それがさ、なにしろその和尚さんはホンモノらしいんだよね。タケバヤシ和尚。私たちはシソン師匠と呼んでるよ」
武林至尊は、中国語で「最高の格闘家」を意味する。
本名はタケバヤシ・ヨシタカ。
仏門の例に漏れず、僧侶としてはシソンだ。
「シソン? そーいや、鉄砲玉のチャイナがそんな名前言ってたな。ボーズのくせにクソつえーらしい。ま、心配すんな。怪しいやつが現れたら、あたしが一撃でぶち殺してやる」
ふりまわされた鞭のような蹴りは、たしかに生半可の人間では相手になるまい。
「頼りにしてるよ、フユっち。だけどやりすぎないでね!」
サアヤの懸念はマフユより、むしろその相手にある。
「もしそれが人間であれば、必要な情報を引き出す必要があります。あまり急いで殺さないように」
同じ意図を共有するヒナノ。
「急がなくても殺しちゃメッメ! 歴史が変わっちゃうかもよ!」
というサアヤの発言は、見当外れのような気もする。
──そういう話なのだろうか。
まだ、いまいち状況がつかみきれない。
あくまでも夢の中、という気がしないでもないが、現実の延長線上にある、という漠然たる確信もぬぐえない。
魔術回路とは奥が深いものだ。
深く考え込むヒナノの傍ら、あいかわらずお笑い要員がへっぴり拳法を披露している。
「決着をつけてやる、フユの女王! ホォァタタタタァ! 獅子粉塵拳」
へなちょこパンチを繰り出すサアヤ。
「望むところだ、サヤの雌豹! テリャリャリャア! 蛇王龍神脚」
てきとうなキックで応じるマフユ。
「やーらーれーたー、オラーはしんじまっただー♪」
あっさり倒れるサアヤは、みずからエンディング・テーマを口ずさむ。
お気楽コンビがじゃれているのを、冷めた目で見降ろすヒナノ。
まったく緊張感のない女たちだ。
おかげで、危機感がちっとも育まれない。
それがわるいこととは言わないが。
「ま、私は健康のためにやってるだけだけどね。ヒナノンもやってみたら? あ、それともリョーちんから教わる?」
「わたくしは……べつに……」
ヒナノはハッとして、会話の流れを思い返す。
ヒナノももちろん護身術くらいは学んでいる。
それをリョージから学ぶことを想像し、妙な気分になる。どうなるか。
「ヤッ、トァア!」
サアヤのへなちょこパンチが空を切る。
虫一匹殺せまい。
こうはなりたくない。
おそらく、その師匠にとって最底辺に位置づけられるだろう弟子、サアヤ。
一方、頂点に位置づけられるだろう弟子も、同じ空の下にいる。




