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64 : Past Day 1 : Tenkūbashi


 11月の寒空とはいえ、きょうはほどよく暖かい。

 いや、不気味なほどの暖気だ。


 平均気温が上がったり下がったりは、大局的には重大な問題だが、個別の日に最高気温や最低気温を更新することとは、あまり関係がない。

 温暖期にも寒い日はあるし、寒冷期にも暑い日はあったのだ。


 周囲は広大な干潟と、一部にはいりこんだ入り江には海水。

 よく見れば透き通り、泳げそうだ。


「小春日和だね!」


 朗らかなサアヤの言葉に、


「泳ぐには寒いでしょう、さすがに……」


 それをやりそうな女に視線を向けるヒナノ。


「お、いいもん見っけた!」


 やや遠くからマフユの声。

 自販機の下に小銭を見つけるのが得意なマフユは、当然のように、木に立てかけられているその棒を見過ごさなかった。


「……槍? まさか」


 ヒナノだけが、その事実の重みに気づいている。


「お、さっすがフユっち! アイテム、ゲットだね!」


 喜ぶサアヤに、


「しゃおら、魚獲りまくるぞ!」


 服を脱ぎはじめるマフユ。

 嬉々として遊び半分のサバイバルに耽る低偏差値の女たちを、高偏差値の女は黙然と見つめている。


「……そんなもの、あるはずが……ということは」


 突き詰めて考えるべき問題だが、低偏差値の女たちと話になるとは思えない。

 先に水際まで駆け寄ったサアヤが、パシャパシャと水を跳ねる。

 口に指を当て、しょっぱい、と短く言う。

 マフユは海に近づきながら、すべての着衣を脱ぎ捨てる。

 海ではなく、サアヤのほうに向かっていきそうなところが、やや怖いところではあった。


「……あなた、すこしはたしなみというものを」


 眉根を寄せるヒナノに、


「あ? 原始時代だろ。だれも見てねえよ。ま、見られてもいいけどな」


 それでもサアヤの良識ひとつ、腰布ひとつで海へ飛び込む。


「女は海~♪」


 アジアのほうから風は吹いてくるのだ、と歌いながら、くるりと踵を返すサアヤ。

 ヒナノと並んで、広大な海の突端をまえに座る。

 海面を眺めれば、マフユはぬるぬると泳ぎ、魚たちを串刺そうとしている。


「ウミヘビのように泳ぎますね、彼女」


「フユっちは運動神経ぬるぬるだよね!」


「ぬるぬる……」


 ひとしきり泳ぎまわってから、ぬらり、とウナギのように上体を起こし、べろっと長い舌を嘗めずるマフユ。

 まさに悪魔的な罪深いその肢体は、多くの人々の嫌悪を誘うと同時に、一部の好事家から絶賛される。


「このぬるぬるでサアヤも大喜びだぜ」


「あははは、よくわかんないよ、ぬるっち!」


 アホな女子たちが大喜びしている別世界から、精神的な距離をとるヒナノ。

 手足が長く、鞭のようにしなる。体重が軽い分、速い。

 リョージと同様、前線にも出られる格闘タイプだが、突進して力ずくで相手を倒すインファイトのリョージに対し、長い手足を生かした典型的なアウトファイターだ。


「私たちは貝とろう、貝!」


 くるりとふりかえったサアヤが、ヒナノを誘った。


「潮干狩りですか。まさに採集ですね」


 否やはない。黙って従う。

 ──海岸域での採集については、きわめて古い証拠が世界各地に残っている。

 それでも、全体のごく一部であろう。海産物を採っていた証拠は当然「貝塚」という形で残されるが、その場所は海岸線近くに集中する。


 寒冷期の海岸線はかなり沖合にあり、温暖化した地球では、ほとんど水没していて見つけることができない。

 よって、彼女らが集めてきた貝をどんなに積み上げたところで、後世、東京の人々がその痕跡を発見することはむずかしいはずだ。

 「大森貝塚」レベルの痕跡を残すには、かなりの温暖化の時期を待たなければならない。


「おそらく現在は氷河期ですが、そのなかでは比較的暖かい温暖期にあると思われます」


 ぬるい汽水域の水に手を浸し、ヒナノは言った。


「ふーん、ヒナノンはそんなことまでわかるんだねー」


 海岸の砂洲に座り、ぱしゃぱしゃと海水を跳ねながら、サアヤが感心したように応じる。


「わからないことがわかった、というだけです。父の部屋で見たMIS(海洋同位体段階)のチャートを、もうすこしおぼえていられれば良かったのですが」


 腕を組んで、短く吐息するヒナノ。

 そんなものをおぼえている女子高生がいたら、逆に恐ろしい。


 マリン・アイソトープ・ステージは、窒素・炭素の同位体を用いた海洋の生態系構造研究で、深海のコアサンプルから得られたデータにより、おおむね海水準の高さから、その時代の気候などを定義している。

 史上屈指の温暖期である21世紀現在は、MIS-1であり、この数字が増えるほど過去を意味する。

 たとえばMIS-2や4といった偶数段は、高レベルな酸素18を示すことから、寒冷な気候である。一方、奇数段は温暖な間氷期を意味する。

 現在が、どの間氷期に当たるかは、まだわからない。


「これだけ海が低いってことは、氷河期なんでしょ?」


 サアヤにもその程度の知識はある。


「いえ、おそらく現在は、間氷期にあたります。先ほどまでは、だいぶ海水面が低いように見受けましたが……いえ、事実低いですが、さほど歩かずに入江まで出られました。氷河期には、東京湾は東京海底谷と呼ばれる深い場所を除いて、ほとんど湿地や淡水湖の状態だったと聞いています」


 東京湾アクアラインの内側は、せいぜい20~30メートルの水深しかない。

 当然、氷河期には完全に干上がる。

 が、現在、部分的に貫入した入江だけとはいえ、おそらくは日比谷の間近まで海水が流れ込んでいる。

 ということは、それほど海水準は低くない。


「うーん、それってどういうこと?」


 首をかしげるサアヤに、


「考古学を趣味にする素人学者の父が話していたことなので、どこまで信じていいかはわかりませんが。……最大氷期には100メートル以上、海水面は低いはずです。しかし現在、おそらく品川のやや沖くらいまで海水を受け入れる、湾の状態にある。ということは」


「そのお父さんを信じるかぎり、現在は、寒いとはいえ暖かい時期なんだね!」


 ポンと手を叩くサアヤ。


「そこです。直近の氷河期、海水準が低下して陸橋ができたとしたら、多くの動物や人間がそこをわたってこられたでしょう。とすれば」


 ──人間がいる。

 氷河期を乗り越え、南ルートか北ルートかはわからないが、ともかく日本列島に人間がわたってきた。

 これが、どこから来たか? という問いへの答えなのだろうか。


「おい、気持ちいいぞ、泳がないのか?」


 と、思考を中断する能天気な声に、女たちは視線を向ける。


「フユっち! いまマジメな話してるから!」


「ふーん、あ、いてて!」


「ちょ、どしたのフユっち、つった!?」


「野郎、このクラゲめ、食ってやる!」


「だ、だめだよフユっち、おくちイタイイタイしちゃうよー」


 慌てて駆け出すサアヤ。

 女たちは、どの時代にも騒がしい。




 ひゅう、と吹き抜ける秋の風に乗って、テストステロンがあふれ出す。

 間合いを取って向かい合うのは、リョージ、そして、イノシシ。


 巨大に成長したイノシシは、あきらかにリョージよりも大きい。

 憤然と蹄を鳴らし、いまにも襲いかからんとしている。


「いよいよ狩りだね、どうする、リョージ」


 リョージをリーダーと認め、戦術的指揮系統の麾下にはいる気満々のチューヤの問いに、


「いらねえよ、黙って見てな」


 ゆっくりと重心を落とし、構えをとるリョージ。

 チューヤは、ぽかーんとしてその背を眺め、横にいるケートに目配せする。

 ケートは、さっきからしょりしょりと削っている木の枝から目を離し、あわてず騒がず、リョージの戦闘を観戦しようとする態度だ。


「リョージ、ナイフ、ナイフ!」


 さすがに武器はわたすべきと判断したチューヤだが、


「あ? いらねえよ。こいつだって持ってねえだろ、ナイフなんか」


 リョージは平然と言い放ち、再びイノシシに向き直る。

 たしかに、イノシシがナイフを持って戦ったら大変だ。


 リョージは、どこにでも転がっている石を拾って武装を固め、臨戦態勢だ。

 自然にある石や棒を使うのは、リョージの価値観にとって許容範囲ということか。


「それがあいつのスタイルなんだろ。ま、黙って見ててやろうぜ」


 この期に及んで、さして興味もなげに、ケートは言った。


「リョージ! 俺たちは人間だぞ、道具を使え、道具を!」


 それがチューヤのスタイルということだが、


「こいつらが、オレたちのテリトリーにはいってきたら、オレたちの道具を使ってもいいさ。だが、ここは、こいつらのテリトリーだ。こいつらのルールで戦う。……手ェ出すんじゃねーぞ、おまえら。これは、オレとこいつの戦いだ」


 あくまで我が道を行くリョージ。

 巨大な鯨偶蹄目イノシシ科と、手ごろな花崗岩を握りしめたホモ・サピエンス。

 タイマン(?)の準備は完了だ。


 ──この戦いには、非常に象徴的な意味がある。

 アフリカのサバンナ。

 無数の捕食者たちの食い残しである「骨」を主食とした、二足歩行を開始したばかりの初期人類。


 彼らがつねに()()()()()()()()のが、()だ。

 たかが石、と思われるかもしれない。

 だが、その用途は広範なのだ。

 主食の骨をたたき割ることができ、他の動物への攻撃や防衛の武器にもなる。


 チンパンジーとイノシシの戦闘について記録した文献によれば、チンパンジーは相手を押さえ込むと「イノシシの顔に何度も肘鉄砲をくらわせて弱らせた」という。

 リーダー雄が、その戦闘能力によって敵を倒し、支配を固める構図は多くの生物種において共通している。


 では、その「強さ」の位置づけは。

 おそらく、石を自在に使うことができるようになった時点で、人類の戦闘力は他の大型類人猿を凌駕した。

 事実、初期人類は機会さえあれば、中型以上の草食獣に対しても狩猟行動をとっていた。


「壊れてもすぐに交換がきく。ある意味、最強の武器だよな」


「そ、そうなのか。石すげえな」


「まあ、相手によるだろうが。ライオンが相手だと、ナイフは必要かもしれん」


「最強のぬこだぞ、らいよん……」


 ライオンとの肉弾戦など非現実的と思われるかもしれないが、マサイ人は21世紀現在も、槍一本でライオンの雄を倒さないと一人前の男として認められないという。

 そのくらい、武器は人類の戦闘力を拡張する。


 人類進化の道のりが、いま目前で繰り広げられている戦闘から、克明に浮かび上がってくる。

 これはヒトとサルが分かれた、その原点に重なる戦いだ……。



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