62 : Past Day 1 : Ikegami
「たぶんだけどさ、このへんを、こーんな感じで走ってると思うんだよね、池上線!」
チューヤが楽しそうに、わけのわからないことを言っている。
鉄道に興味のない男子2名は、生ぬるい目で彼の所業を眺めながら、
「北がすこし高くなっているな」
見上げると、北へ向けて急激に高くなる台地が伸びている。
現在の東京に重ねれば、池上駅を降りて北に池上本門寺を望む状況だ。
歩いてみるとわかるが、まさに「お山」である。
「で、あっちが田園調布だね」
台地のつづき、西を指さして言うチューヤ。
「ほう。オレも昔、オヤジの工事に付き合って大田区うろついたことあったから、ちょっと懐かしいな」
優しいリョージは、チューヤの話に乗ってやる。
丘は広々としていて、いつか高級住宅地に成り上がる素質はじゅうぶんだ。
ふもとを流れる川は、おそらく暗渠に変わるだろう。東京であれば、埋め立てられる可能性も高い。
先ほどの岩陰が現代まで残ることはないだろう。
風雨による浸食と沖積は、驚くほど大きく地形を変えてしまうのだ。
「だいぶ先まで陸地のようだな。迷子にならなきゃいいが」
丘に登り、高いところから海のほうを見はるかして、ケートが言った。
「お嬢たちがついてるんだ、だいじょぶだろ」
「そう願うよ」
「それにしても、あれだけやたらと埋め立てていた東京湾が、埋め立てるまでもなく地続きってんだからな」
ケートの横に並び、チューヤたちも東を眺めやる。
──かなりの遠浅だ。
この事実が意味することは、言うまでもなく。
「氷河期って怖いね」
ブルッと背筋をふるわせて、チューヤは言った。
──最大最終氷期においては、現在の水準より120~150メートル、海水面が低かったとされる。
ヨーロッパやアフリカなどの海岸に立って、当時の海岸線が何十キロも先ということは、めずらしくない。東南アジア(スンダランド)やベーリング海峡は、ほとんど「大陸」の様相だった。
もちろん、ずっと寒冷だったわけではなく、何度も温暖期があり、現在はかなり温暖である印象を受けるが、すくなくとも海水面は数十メートル低い。
当然、陸地面積はかなり増えている。
東京湾も、ほとんど湿地か、湖のような状態だ。
「まあチューヤのおかげで、ここが東京とわかっただけで助かるよ」
ケートが言った。
「そうか? えらい過去に飛ばされてる時点で、インドでもアフリカでもいっしょだと思うが」
チューヤにとっては。
「その過去が、いつか知るために、現在地のだいたいの座標がわかってる、ってのは役に立つんだよ」
どう役に立つのかは、もちろんチューヤにはわからないし、説明されてもわからない自信がある。
「チューヤは、海にも出られないってことか?」
リョージがふと感じた疑問をぶつけた。
「それな。試してないからわからんが、たぶん水上も別の管区になるような気がする」
ということは、遠浅の干潟で潮干狩りをすることもできない。
──臨海部である東京は、海に面し、その利用を生活の一部としている。
が、近代の「領土的概念」からいうと、人が家を建てて住めない「水」の上は、優先順位としては低くなる。
「23区」という地方行政的な言語に翻訳された場合、「水域」の取り扱いはきわめて恣意的、弾力的だ。
河川などの場合は、中間地点を境界線とする場合が多い。
湖水、沼沢、海の場合、どうか。
「共有的な取り扱いが多いかもしれないけど、そこは〝区内〟とは言えないかもな」
「東京湾は、東京とはいえ、千葉や神奈川も接しているわけだし……」
「海にも出られないとか、やっぱり役立たずかな、チューヤは」
率直なケートの見解に、ぐう、とうなるチューヤ。
ひとまず彼は地上で、役に立つ道を模索しなければならない。
川沿いに遠浅の沿岸を目指し、採集しつつ進む女子。
拾う量はあきらかにサアヤに偏っている。
ふと、足を止めて河原の石を眺めるヒナノに、サアヤが声をかける。
「どしたの、ヒナノン?」
「これは……化石林ですね。おそらくメタセコイア」
ただの石にしか見えないが、ヒナノは自信ありげだ。
「どういうこと?」
首をかしげるサアヤに、
「メタセコイアは絶滅したと思われていましたが、20世紀、中国の四川省に生き残っている個体が発見され、現在ではよくある街路樹になっています。しかし日本では、150から200万年まえに一度絶滅していて、ときおりその化石林が発見されます」
彼女の言葉が意味することを、サアヤは頭をひねりりつつ、徐々に理解する。
現代の東京においては、八王子市役所の北、浅川のメタセコイア化石林が有名だ。
ここから採取された標本が、上野の国立科学博物館にも展示されている。
「てことは、ここは過去は過去だけど」
「ええ、100万年よりも過去ということはないでしょう。現代とほとんど変わらぬ程度、化石化が進んでいます。あくまでも印象ですが、かなり近い過去の可能性もあります」
「どのくらい?」
問いを重ねるサアヤに、
「それはわかりません。父からもっと詳しく聞いておけばよかったですね」
立ち上がり、パンパンと手を払って歩き出すヒナノ。
彼女は考古学を趣味とする父親から、しばしば古い話を聞かされる。
かつては興味もなかったが、最近は地質学というものに興味を持ち、多少の知識を仕入れつつある。
「ふーん。地質に興味って、オヤジっぽいね」
「悠久の地球の記憶に性別は関係ありませんが、たしかに男性的な趣味ではあるかもしれませんね」
瞬間、により、と笑うサアヤ。
「ほほーん、なるほど。地質屋ですな?」
「……なんですか、そのいやらしい目つきは」
ヒナノは、サアヤの「ジョシコーセー」らしい眼光に、思わず空寒いものを感じた。
この点を掘り下げられるのは、不快な結論を導かれやすいという本能的危機感がある。
微妙な恋愛ゲームが、水面下では展開されている──かもしれない。
「等々力渓谷っぽいな」
台地に刻まれた水流を見わたし、チューヤは言った。
「昔はどこもあんな感じだったんだよ」
リョージが応じる。
「と、オヤジさんの書類に書いてあったか?」
ケートが引き取って、一同はせせらぎに足を止めた。
──ここがチューヤの予測した通りの場所なら、周辺には、目黒台、荏原台、久が原台といった台地が広がっているはずだ。
その先は多摩川低地であり、品川や皇居も、かつては水の底だった。
江戸時代以降、必死に埋め立てて現在の地形を築き上げたわけだが。
「埋め立てるまでもないよな。これだけ土地があるならさ」
チューヤが先へ進めなくなった場所は、おそらく東京と神奈川を隔てる多摩川の河口部だろう。
その先、サアヤたちが向かったのは東京湾だ。
埋め立て地や道路や橋など、足場がある場所はまちがいなく「東京」といっていい。
川や池など、水上に立つことはできないが、周辺が東京なら、そこは東京である。
しかし海は、東京というよりは日本の「領海」となる。
どのようなルールが適用されているのかはいまいちわからないものの、そこは東京23区という行政単位として判断されていない可能性が高い。
「けどさ、23区なんて、昔は存在しなかったよな?」
根源的な問いを投げるリョージ。
ケートもうなずいて、
「だよな。存在しないものが呼び出せないんだから、存在しない場所に縛られるってのも、おかしな話じゃないか?」
「……存在するんじゃないかな?」
チューヤの直観に、男たちは引き寄せられた。
「どういうことだ?」
「わかんないけど、呪いが継続してるってことは、近くに呪ったやつがいるんじゃないかなーって」
首をひねりながら、精いっぱいの考えで応じる。
「運命の女神だろ。過去、現在、未来を司る。しかし、そんな神々の概念が生まれたのは、ごく最近、ギリシャとかローマの時代なんじゃないか」
ケートに言われるまでもなく、はるかなる太古には存在するはずもない概念だ。
「単に影響力が残っている、ってだけの可能性もあるけど」
チューヤにも、じっさいのところはわからない。
考えて結論の出せる話ではないが、これは考える価値のある情報のような思われた。
「まあ、たしかに現代とつながる要素が、残ってないわけじゃないからな」
ピン、とピアスを弾くケート。
「うまく登り切ろうぜ、クモの糸」
うまいことを言ったつもりのリョージに、チューヤが喰いついた。
「カンタダ!」
「ははは……やめろチューヤ」
「カンタダ、カンタダ!」
不気味な踊りでミルメコレオを再現するチューヤ。
「なんだ、それは?」
当然、いぶかしげに問うケート。
チューヤは笑って、
「あとで教えるよ。おもしろいよ、リョージ・パパの話」
「せんでいい、くだらん話は」
リョージは疲れたように言って、大自然に向き直った。
このさきは、狩りの世界だ。




