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わしを溶かしてでも、水槽に入れたがった、忌まわしい連中に、鉄槌を──。
ジャミラコワイの意志が、チューヤのなかに浸みこんでくる。
しかし、他の膨大なデータの流れに押し流されて、詳しいことが認識できない。
数万ページのソースコードの針の山に埋もれた、一片の全角スペースを探すようなもの、と表現すれば目安となる。
「強制アップデートかかったざんすね」
テイネの声にも、サンプリングのフィルターがかかる。
「最近、不定期で更新かかるな、そういえば。境界以外では受け取れないから、累積分のセキュリティ更新が多いが」
魂の時間を極限まで圧縮している実感が、チューヤにもある。
「ジャバのバージョン情報見なんし。14.06βざんす」
テイネの指がヘルプの下段をフリックする。
「ベータ? 最新版というか、テスト版か?」
チューヤの視界に飛び込んでくる更新通知。
「たしかに、一般にはまだ実装されてないようでありんす。このへんの更新、ジャミラコワイ師匠の匙加減のところが、まだまだあるざんすよ」
期せずして視線を転じると、ジャミラコワイは再び言の葉の皮をかぶり、自分の樽にもどってしまっている。
その内側には無数のコンピュータが装備され、電脳の核心領域を形成しているらしい。
世界を席巻する悪魔相関プログラムに、個人でここまで影響力を持つ者は、ほとんどいない、という。
樽の隙間から見えた内部で、キーボードの上を撫でるジャミラコワイ。
見れば、樽は底まで、CPUと記憶装置とケーブルとモニターで埋め尽くされている。
「どんなプログラマも、やっぱりプログラミングは古典的な方法なんだな」
チューヤの率直な感想。
たしかに、ジャミラコワイはキーボードから文字入力していた。
しかし見れば指だけではなく、服だと思っていた葉までが、キーボードを撫でるごとに文字列が入力されていく。
「あれは最高級のマジックフォースざんすよ! たしか1台、安くても3万マッカインはするでありんす」
円換算でいくらになるかは不明だが、数万円の高級キーボードというジャンルは、たしかに存在する。
テイネによれば、1グラムの圧で入力され、ヒステリシスを設けてチャタリングのない、24個のキーの同時入力まで認識する、Nキーロールオーバーに対応した最高のキーボード、西プレ(メーカー名)のマジックフォース(商品名)であるという。
どんな早口言葉よりも早く入力できる、と誇るだけあり、信じられない速度で魔術言語が入力されている。
さらに驚くべきは、そのプログラムが最初から洗練され、最高に無駄のない、完璧なソースコードであることだ。
「なんか、すげえな」
「おそろしい才能ざんす」
ふるえるチューヤとテイネ。
「世界を知れ」
響くヒトコト。
──つぎの瞬間、チューヤの視界にポップアップが点灯した。
新たな更新がかかり、インストールが完了する。
意識を走らせ、追加要素を確認する。
「なんだ、これ」
チューヤの視界の隅に表示された文字列には、「0/5」とあった。
「ああ、そっちも実装されたざんすね」
訳知り顔のテイネ。
「どういうこと?」
「エリアスキャンの一種ざんす。あんさんがエントリーしたエリアに、どの程度の種類の悪魔がいて、あんさんがそのうちどんだけナカマにしたことがあるか、わかるざんす」
「なんで知ってんの?」
「ベータ版は、まず真っ先にお館さまのところに届くことになってるざんす」
ともかく、その意味を考える。
新しいフィールドにはいったとき、悪魔相関プログラムは自動的にエリアスキャンして、マップなどのデータを結合してくれる。
そこに、ナカマに関する新しい要素が追加された。
要するに、このエリアで、あとどれだけ頑張ればいいかの指標になる、ということか。
「……地味に便利!」
考えるまでもなく、チューヤの表情が明るくなった。
「ざんしょね」
よく見れば、テイネのイメージもクリアだ。
日々、更新される新機能により使い道を広げ、さらに全体的にも洗練されていく、悪魔相関プログラム。
並行的に、環境要因で不安定になる部分の強化も、着実に進められている。
一見してわかるような変化ばかりではないが、その進化はつねにどこかで実感できる。
それが「アップデート」の意味だ。
何者かに干渉を受けて不安定になる部分も、すっきりした。
「ついでにもうちょっと強い悪魔も使えるように」
「ズルしたらダメざんす!」
悪魔相関プログラムは、無数の人々の努力と才能で着実に強化、安定化しているが、やりすぎると危険である。
あらゆるオペレーションシステム、アプリケーションと同様、全体のバランスがつねに重視されなければならない。
「リスクは紙一重」
ジャミラコワイの声が、不意に遠くなる──。
ハッとして目を見開いた。
気づけば魂の時間から、境界の時間へともどっていた。
目のまえには、樽。
持ち主の姿は奥に隠れて、ほとんど見えない。
しかし、まだ彼はそこにいて、くぐもった声で言った。
「知りたいなら、はいれ」
いやそんな狭い樽にはいるなんて、無理でしょ、と言いかけてテイネに肘を突かれた。
見れば、ジャミラコワイの樽の横の奥に、竪穴式住居がある。
看板に書かれているのは、
「悪魔合体の真相……」
ごくり、と息を呑むチューヤ。
「うわあ、ヤバいもん見っけちまったざんす……」
テイネも、その文字列の意味合いについて考え、ドギマギする。
悪魔合体を完成させたいと願っている者は、一定数、世界じゅうにいる。
多くの人間たちが、合体のテクノロジーを追及してきて、現在の形まで仕上げた。
その合体の真相を知りたいなら、この家にはいれということか──。
「でも、死ぬんでしょ?」
当然踏み出せないチューヤに、
「そう……ならば伝えよ」
ジャミラコワイは言った。
その声に反応して、テイネが、いいんすか、と声を漏らした。
チューヤの視線を受け、彼女はしかたなさそうに言う。
「ご本人が許可してくれてるざんすにより、お伝えしんすが……。師匠の顔、あんなにしたやつのこと、業界ではけっこうなタブーでありんすよ」
テイネによれば、こういうことだ。
言うまでもなく天才であるジャミラコワイは、20世紀の一時期、いちプログラマーとして悪魔相関プログラムの完成に尽力した。
当時、まさに天才と呼ぶべき綺羅星のごときプログラマーが集い、壮大な「才能の無駄遣い」が展開されたという。
結果的に無駄にはならなかったわけだが、それを「邪教」と排斥する人々もいた。
彼らにとって、邪教の味方は無駄以下の代物であった。
一方、それに熱中している人々にとっては、プログラムの完成こそが存在理由であり、至上目的だった。
その完成を急ぐ最短距離を採ろう、という意見が強くなりはじめた。
ジャミラコワイは否定的だったが、全体の流れには逆らえなかった──。
「なにがあったのよ?」
「粛清ざんす」
ジャミラコワイは、悪魔合体を乱用する狂人たちの犠牲になったのだ、という。
彼は救いを求めたが、無視された。
水を飲みたかった。
正義の味方とやらがやってきて、スペシャル水流とやらで大量の水を胃袋に入れられた。
破裂して、ばらばらになったものを、合体で集めた。
「よくわからんのだが、ともかく彼には、いろいろと悲惨な過去があるということか」
チューヤの不満そうな問いを、
「わっちも、これ以上の詳しい話は年齢制限でNGざんすによって、このくらいで勘弁してよかろうもん」
テイネは不満足な結論で片づけた。
核心の部分はなんとなく流されたが、枝葉の「作業」がまだいくらか残っていた。
「残りのアップデート? あいあい、実験プログラムもざんすね? 了解、ぶちこむでありんすよ」
樽の師匠と、なにやら言葉を交わすテイネ。
チューヤのいやな予感は、感じる間もなく実現した。
インストール後、強制的に再起動したナノマシンから、データの濁流が送り込まれてくる。
「ま、またかよ!? アップデート多くね?」
「これは欠損データの収集リクエストざんす。さしあたり邪教月齢、エッジムーン・ガイガーベルト、多層性の困難、それから信頼性問題について、素材を集めてくるだけの簡単なお仕事でありんす」
「なんのことだよ!?」
「タダで最新の拡張機能をもらえるなんて、思ってなかろうもん。そもそも悪魔を合体するごとに、統合作戦ビッグデータ完成プログラムに参加しているざんすよ。──代価を支払うがいい、この小僧めが! ありがたく請け負った仕事、やっつけるでありんすよ」
こんどは小僧かよ、どの立場から言ってんだこの野郎、と思ったがチューヤはヘタレなので黙って呑み込んだ。
どうやらチューヤの鉄道時計にもあるムーンフェイズの邪教システムを、月齢邪教理論に基づいて構築したのも、このジャミラコワイ博士であるようだ。
信頼性問題はわかる。悪魔使いにとっては、きわめて重要な問題だ。
悪魔との交渉において、つねに協力、コミュニケーション、騙しという関係性のなかで浮き上がってくる。
悪魔相関プログラムにとって、もっとも重要なキーテクノロジーといっていい。
悪魔はどう考えても、ヒトを騙そうとする。
神ですら騙す。聖書では「試す」と表現されているが。
説得力のある脅しと約束の実行能力によって、信頼性の問題は語られる。
悪魔との契約は、人類が高度に進化するモデルのなかで形成し、獲得していった「コミュニケーションの問題」によって、説明することができる。
わかりやすい素朴心理学のモデルが、魔術回路の基盤にプリントされている。
チューヤはあらためて、悪魔相関プログラムというものの本質に触れた。
悪魔使いなら、もっと早く至らなければならない境地だが、いろいろあって手間取った。
──悪魔合体は、自然淘汰に近い。
この概念を生み出した人物は、自然の理を知っていたか、天才かだ。
生物のDNAは、ウイルスの断片で組み立てられている。また、生物そのものにウイルスや微生物が無数に寄生している。
その総体として考慮されなければならない。
両者はひとつの統一体、いわば「ホロゲノム」なのだ、というコンセプトを提唱したのは20世紀末、リチャード・ジェファーソンという生物工学者だった。
生物とは、工学である。
個々が変化すること(レベルアップ)、それらの変化が継承できること(合体)、そしてそれらの変化が適応度(生き残る能力)に影響すること。
これらのチェックボックスが埋まることで、進化のエンジンがかかる。
自然淘汰の単位として、生物叢を総体として考えるべき、という上記のコンセプトは、まさに「種族」の概念に近い。
魔術回路の寄せ集め、ツギハギの上に浮かんだ絵柄が、たまたまその悪魔になったという経験則を、ひたすら積み重ねたシステム。
「邪教」。
悪魔使いが当然に学ぶべき理論は、果てしなく奥が深い。
「生物は、DNAを切り貼りして、たまたま生み出された形象にすぎない」
遠くから聞こえたと思った声を、自分が発していることに気づいて、チューヤはハッとした。
高度な偶然性のたまもの。
それを、可能なかぎり必然の方法に、意図的に改竄してやるのが、悪魔使いの仕事だ。
ホログラムのように浮かんでは消える悪魔のイメージに、脳内のナノマシンが感応する。
「というわけで、あんさんのシステム、強化するでありんすよ」
ドルビーのように天井から響くテイネの声。
「はあ? どういうわけだ、ばかたれ」
文句を垂れたところで、否やはないと知っている。
「礼はいらんざます。あんさんが博士の役に立つかぎり、博士からも重要な情報を受け取れるやよし、ウィンウィンの関係を築けるぞなもし」
さらに言葉を返す間はなかった。
新たなプラグインが、チューヤのナノマシンにアップロードされていく。
ぞわぞわっ、と脳細胞が総毛立つ感覚。
一挙に複数のシナプスが解放され、莫大な情報の濁流にさらされる。
エッジムーン・ガイガーベルト。
月が放つ放射線によって、悪魔合体が影響を受けること、またその関係式。
月輪の稜線が重要な役割を果たす。
多層性という困難。
最新の悪魔召喚プログラムについて考察を深めるための手法。
多くの悪魔の召喚には高度な認知能力が必要であり、魔術回路の管理が大脳新皮質の行使限界に依存する点については、準拠すべき標準モデルがすでに存在する。
天才と呼ばれた少年Nのケースから、同プログラムを演繹した多層構造の悪魔召喚行為について、想定可能なかぎり数値に落とし込んだ。
配線済みのモジュールで管理できない部分を、疑似的に顕在化させ、批判的な深層学習にさらしつづけた結果、膨大な数に及ぶ進化的な情報処理の問題が、脳地図上につぎつぎと特定されていった。
狩猟・採集にかかわる遺伝子が、魔術・執行の遺伝子に重ねられたとき、その歴史的価値と変遷のプロトコルには、非常に興味深い並進性を発見される。
集合的表現式は以下の通り──。
「な、なんだ、こりゃああ」
悲鳴を上げるチューヤ。
脳内にあふれる情報に、まったく処理が追いつかない。
「計算された標準的な描像の延長」
聞こえたのは、こんどはジャミラコワイの声らしい。
意味はよくわからない。
新規プラグインが突きつけてくる認識によると、それは「ダイナミクスM理論の環境処理問題」に関係するらしい。
「うえ……っ」
ケートにでも教えてやるべき話だぞ、と思ったが嘔吐感がひどくてしゃべれない。
「──それから有明で外道を見つけたら、すぐ国に帰るよう伝えてくれ、ざんすね? あいあい、新規古生物概念の統合は次期アップデート、合点承知。お館さまにもよろしく伝えるでありんすよー」
テイネの声が、さらに遠くから聞こえてくる。
ぷつん、となにかが切れるような音がする。
ぷちぷちぷち、とそれは連続する──。
目がまわるような情報にさらされつづけて、チューヤは、いつのまにか意識を失っていた。
気がつけば、周囲にはだれもいない。
遠くで、チューヤを呼ぶ声がする。
なんだったんだ、いったい……。




