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ケートがひらひらと手を差し出すので、チューヤは黙ってトークンを手わたした。
受け取り、しばらく眺めてから、
「古代文字に詳しいやつ、いるか?」
ケートの問いに、
「いるわけないだろ」
即答のチューヤ。
「そーいえば、お菓子おねーさんが言ってたな。9000年もまえのものだから、大事に扱いなさいって」
大事なことをのろのろと思い出すのが、サアヤらしいところだ。
──文字は偉大な発明である、とされている。
かつてメソポタミアに、彗星のように現れた謎の民族、シュメール人が発明し、広めたものだという。
トークン自体は、先史時代からあった、数量を数えるための小型土製品だ。
人類最古の文字「楔形文字」が刻まれていたことでも知られる。
長らくこれが人類最古(前3400頃)とされていたが、エジプトでもアビドスの支配者の墓(前3200頃)から、大量の文字資料が発見された。
ヒエログリフの祖型と見られ、相互に影響を与えた痕跡もない(ヒエログリフは音素文字、楔形文字は音節文字)ことから、それぞれの土地で独自に発生、発達したと考えられる。
かつて「文字」は画期的な発明のようにも言われたが、人類の集団が大きくなるにつれ、数量や記録が重要な意味を持つようになると、物品管理や契約のため、ごく自然に発生するものだ、という意見もある。
必要こそ発明の母なのだ。
中国でも独自に甲骨文字が発明されているが、こちらは占いの結果を政治的に利用するためのものだったようだ。
いわば「神との契約」である。
「9000? 待て待て。どう遡っても6000がいいところじゃないのか? ──考古学に詳しいお嬢は、この文字をどう読む?」
ケートの言葉を受け、ヒナノに視線が集まる。
「わたくしは考古学者ではありません。父がその手の趣味を持っているというだけで」
言いながらも、ヒナノはまえに出て壁の文字を調べはじめた。
「ヒナノンかっきー! 女ジョンディ・イーンズ……みたいだね!」
あやふやな記憶で、パチン、と指を弾くサアヤ。
「考古学は理系と文系の中間地点だが、文字ができて以降は文系の出番だな」
ケートも、その役割分担を素直に認める。
有史以前のいわゆる「先史時代」では、理系の仕事が多い。
炭素年代測定、電子顕微鏡、遺伝子検査などによって、文字を知らないころの人類の姿が浮かび上がってくる。
が、文字が生まれ、古文書が積み重なった「歴史」の領域になると、そこからは文系のフィールドだ。
「で、なんて書いてある?」
「そんなもの、わかるわけがないでしょう。ただ、共通の原初的な文字のパターンは踏襲しているようです」
ヨーロッパの古い洞窟に刻まれた、古代の文字らしきものを解読しよう、という挑戦がある。
じゅうぶんな成果が出ているとは言い難いが、4万年まえの氷河期の洞窟に、人類が刻んだ初めての文字の痕跡がある、という研究にはロマンが満ちている。
その文字数はおおむね32文字で、まだ解読はされていない。
基本的には抽象的なイメージで、十字、線、三角形、といった記号論的なパーツによって成る。
古代の洞窟遺跡の研究では、もっぱら躍動的な馬や人間の線刻画、レリーフ、大小さまざまな手形や赤い陰画などが目を引き、話題にも上らないが、その傍らに謎の記号が添えられていることは少なくない。
単なる落書きとして閑却されるのが常だが、それに意味を見出そうとする人々もいる。
「この周囲に描かれている記号は、現在から考えるような『文字』としての用途はない、と考えたほうがいいでしょう。しかし『意味』は、あるかもしれない。中心に向かって、洗練されていきます。人類の進化を見るようですね。──これは東アジア、甲骨文字の文化圏につながる系譜のように見えます」
ヒナノの視点は鋭く、現状を解き明かしているが、まだ謎解きとしては不十分だ。
と、そこで意外なところから意見が出た。
「オレたちに読めないなら、読めるやつを呼べばいいんじゃねーか?」
人間には読めなくても、読める悪魔はいる、と主張するのはリョージ。
まず甲骨文字を解析すべく動いたのが、その系統に所縁あるガーディアンだった。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
カクエン/邪鬼/29/4世紀/東晋/捜神記/整備場
「武闘派かと思ったら、意外に字も知ってるんだね。さすが漢字の国」
拍手するサアヤ。
ナノマシンによって実体化したガーディアンが、リョージの背中から何事か言う。
「中華の力を見せてやる、ってよ」
カクエンは、中国の伝承にある妖猿で、単性社会を構成するとされる。
子孫を残す手段として、人間の女性をさらい、子を産ませるという。
生まれた子どもは、ふつうの子となにもちがわず、人間社会でふつうに成長を遂げる……。
──と、アナライザから引っ張った悪魔のデータを確認するチューヤの視線の先、壁に張り付くようにして文字を読み込んでいたカクエンが、くるりとふりかえった。
チューヤとカクエンの視線がぶつかる。
ぎくっ、として身を引くチューヤ。
仲間たちが何事か話し合い、ケートが代表して、片手にトークンを持ち、チューヤのまえに立った。
「な、なによ」
思わず腰を引くチューヤに、
「動くな。RPGの主人公。がんばって集めたアイテムだろ。……見ろ。この文字は『エビス』だってよ」
言いながらケートは、チューヤの額に印面をぺったりと押しつける。
蒐集した「トライアンフ」の意味は、凱歌、勝利。
刻み込まれる魔法陣は、知恵のトライアンフ。
つまりチューヤは、おでこに昔の文字で「エビス」と印字されたことになる。
「……なに、ふざけてんの?」
ケートは無視して、さっさと歩きだした。
まだ裏口の鍵のひとつを開けたに過ぎない。
なんとなく状況を察した一同、すたすたとケートのあとにつづく。
額に文字をスタンプされたチューヤが間抜けな顔でついてくるのを、一同、他人のフリで無視している状況は、修学旅行で「肉」と書かれたまま歩く男子中学生に似た構図だ。
2つめの角にたどり着くと、動いたのはマフユのガーディアンだった。
きのうのマフユを知っているチューヤたちは、そこに出現した悪魔に驚かざるを得ない。
「おい、きのうナガスネヒコに付け替えたばっかだろ、おまえ。きのうの今日で、まためずらしい神さま連れてんな、マフユ」
ナノマシンを起動した目には、カエルのような悪魔がうつる。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ヘケト/聖獣/19/紀元前/古代エジプト/ピラミッド・テキスト/篠崎
「とくに縁はないが、さっき寝起きに知り合いの葬式に行ったら会った。この先、回復系のスキルも需要ありそうだしな」
マフユの周辺では、よく人が死ぬ。
──ヘケトは、夫クヌムがつくった泥人形に命を与える、古代エジプトの神だ。
カエルの姿をした女性で、イシスのホルス出産を助けたり、ホルスが毒蛇に咬まれたとき、その治療を行ったとされている。
ヘケトが読んだ壁の文字は、もちろん神聖文字ヒエログリフ。
再び悪魔から話を聞いたケートは、どうやら「シロカネダイ」と書かれているらしい印面を、チューヤの右手首にぺたりと押した。
あとはルーティンワークだ。
一同、連れ立って3つめの角へ。
最後に、気は進まないが、といった表情で動き出したのはヒナノのガーディアン。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
イルルヤンカシュ/龍神/28/紀元前/ヒッタイト/ハットゥシャの粘土板/水天宮前
「きのうの今日は、こっちもだっけ。すごいの連れてんね、お嬢。どういう関係?」
アナライズしながら、チューヤはヒナノの背後にいるドラゴンを眺める。
──古代ヒッタイトの神話に登場する龍神で、凶暴な性格で強い力を持ち、海を支配していたとされる。
鉄で有名なヒッタイトは、前1595年、バビロンを陥落させるなど、当時、圧倒的な軍事力を誇った。
文化面では、ヒッタイトからエジプトに送られた楔形文字粘土板文書群として、つとに有名な、いわゆる「アマルナ文書」がある。
「考古学的遺物の収集には、この手のリスクがつきものなのですよ」
ヒナノ的には、これは恩恵ではなく負担であるらしい。
近親者が収集している、アラビア半島あたりの古代の遺物のせいで、彼女は大変な状況に陥っている──。
パズズとの関係もうかがえるが、いま、その点を掘り下げている間はない。
魔術回路が複雑に組み立てられ、ひとつの回答へ流れ込んでいく。
必然、最後の「メグロ」は左手首だ。
「よし、これで、おまえは鍵になった」
ケートの言葉に異論を唱えるまえに、チューヤの脳髄に「理解」が訪れた。
魔術回路とは、いろいろと便利だ。
トークンは3つ。
刻まれている文字は、それぞれ楔形文字、古ヒエログリフ、そして甲骨文字。
既知の文字であるということは、わかる人間に訊けばわかるし、当時を舞台にした悪魔にもわかるだろう。
その意味は──。
「文字……か。人類が、人類であるゆえん。その歴史の象徴。このトークンは……」
自分がある種の「鍵」になっていることを、チューヤは徐々に自覚する。
「歴史大好き中国人もびっくりだってよ」
額の文字が漢字(の原型)であることは、リョージにとっては親しみやすい。
どこかのマンガのキャラのようだが、その原点には、甲骨に記号を刻んだ鑿の力が注がれている。
──甲骨文字は、古代の文字としては比較的新しいもの(前14~前11世紀頃)とされているが、その原型はさらに遡ることができる。
龍山文化(紀元前3000~前2000年頃)だ。
一定の文明段階に達した社会は、一定の統治機構を持ち、城砦を持った都市国家を形成する。
そこに、文字は自然発生し、使用されるものと考えられる。
現在のところ、龍山文化に文字使用の痕跡はない、とされている。
が、ごくかぎられた範囲のみで使用される特殊な文字の存在まで、否定することはできない。現に殷墟で発掘された大量の甲骨文字も、ほとんど一か所から見つかっている。
あくまでも仮説にすぎないが、説得力のある推論として、龍山文化を形成した民族は、甲骨文字の原型となる文字体系を完成させていた。
異民族に圧迫され、その誕生の地から追われながらも、散り散りになる過程で他民族と混淆し、金石文や甲骨文といった形で「文」化を伝えた可能性はある。
「学者たちが歓喜するような、偉大な意味を持つらしいな、このトークン」
完全に理解しているとは言い難いが、チューヤにもそのくらいの予測はついた。
この3つのトークンが、人類の発明した偉大な3体系を意味する、とすれば。
表音文字、表意文字、そしてその両方を含む文字。
人類「文」明の来し方が刻まれた、これが「鍵」だ──。
「みたいだね……なんか、すごいことなってるっぽいや」
惚けたようにつぶやくのはサアヤ。
多くの仲間たちには理解できない速度で、人類の「歴史」というイメージが、魔術回路に乗って流れ落ちていく。
われわれが目にしうる、たかだか数千年の「歴史」が。
その向こう側に広がる未知の地平が、暗がりからこちらを見つめているような気がする。
歴史が語らない、その何十倍もの長さの「先史時代」について、われわれはあまり多くを知らない。
そして、われわれの前方に、その何十倍もの未来が伸びているかどうかは、さらに知らない。
道はうしろにも、まえにも伸びている──はずだ。
偉大な歴史の流れに浸る。
チューヤの皮膚の表面をなぞって、謎の感覚が滑り落ちていく。
ナノマシンを起動して目を凝らすと、他の面々にも、チューヤに絡みつく魔術回路がうっすらと見える。
それはたしかに、かちり、かちりと鍵をまわして、つぎつぎとロックを解除していくイメージを垣間見せた。
そうして、大きな何事かが成し遂げられようとしている気配。
ともかく、物語は転がりだしたのだ──。
数分後、どうにか状況が落ち着いたところで、あたりを静寂が満たす。
まず動いたのは、ケートだ。
「おい鍵、理解したら、そこに三点倒立しろ」
ケートのイメージでは、さかさまになった鍵人間が地面に突き刺さっている姿がある。
「はあ? どこの芸人だよ! ふざけんな、やってられっか!」
にわかに受け入れられず、地団太を踏むチューヤ。
「ふむ、そこまでやらんでもいいようだな」
あっさりと引き下がるケート。
すでに壁は光り輝いている。
最後の魔術回路が、かちり、と壁の向こう側で回転した。
ゴゴゴゴゴゴ……。
低いうなりとともに、どこかでなにかが「開いた音」がする。
「なんなの、ケート? 説明してくれるよね!?」
鍵自身にも、まだ多くは理解できていない。
「もどるぞ、チューヤ。入り口は、地上の国立科学博物館附属自然教育園だ」
ケートに導かれるまま、一同は踵を返す。
お使いRPGの宿命であるかのように、来た道をてくてくともどる6人。
いつもなら不平たらたらの面々だが、なぜかこの壁の先から感じられる荘厳な雰囲気が、容易に軽口をたたかせない。
「ところで、ねえ、さっきなんで三点倒立させようとしたの?」
「ほんとにやったらおもしろいから」
「でしょうね!」
平然と言い放つケートに、憤然と足踏みするチューヤ。
一部、例外もいる……。




