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そのバトルは、はた目にも「血が騒」いだ。
プロレスマニアであるリョージは、観客への「見せ方」を知っている。
一方のチャンピオン、ミルメコレオの戦い方も王者らしい風格に満ちている。
──ミルメコレオという悪魔は、聖書の誤訳が起源ともいわれている。
上半身がライオン、下半身がアリの姿をしており、父の性質のため穀物が食えず、母の性質のため肉が食えないため、生まれてすぐに死んでしまう、という。
最初から最後までひどい扱いの妖虫だが、極限までレベルを高めれば、じゅうぶんにボスキャラになりうる、ということだ。
矛盾に満ちた弱い者が、強さを手に入れた。
これは、手ごわい。
「強過ぎはしませんか、あのミルメコレオとかいう虫。レベル3なのではなくて?」
ハラハラしたようすでリングを見上げながら、ヒナノが言う。
「初期レベルは3だけど、どんな弱い悪魔も、経験を積みスキルを増やせば、どこまでだって強くなれるんだよ。たぶんあのミルメコレオは、そうとう鍛え上げていて、現状たぶんレベル30超えてんじゃないかな」
チューヤの見立ては正確だ。
なにしろ、リョージが本気で戦っているにもかかわらず、押されている。
学んだばかりのカクエンのスキルも駆使し、すさまじいスピードでリングを飛びながら、多彩な飛び技で翻弄する。
観客を盛り上げる目的もあるのだろうが、そんなことをしている余裕は本来ない。
なにより問題は、敵がそれを巧妙に受け流すところだ。
「てめえ、きったねえぞ! それでもレスラーか、ちゃんと受け止めろ!」
チューヤは、いらいらと地団太を踏む。
だがブーイングを飛ばすのはチューヤと、大穴に賭けたらしい少数の虫くらいのもので、観客の大半は同族ミルメコレオを応援している。
ミルメコレオの側にも、負けられない理由というものがあるのだろう。
「くそ、こんなの噛ませ犬じゃないか!」
業界には、そういう慣習もある。
「介入しますか?」
その手に炎をまとい、いまにも飛び出しそうなヒナノ。
思わず同意しそうになるチューヤたちの視線の先、組み合うリョージとミルメコレオの動きが、どこか怪しさを増す。
なぜか試合を優位に進めているミルメコレオの足が、徐々に動かなくなっていく。
「おお、さっすがー。リョーちんの攻撃が足にきてるんだね」
「いや。なにやら上半身の動きに、下半身が逆らっているように見えるが」
同じ異変は、だれよりリング上のリョージが、いちばん感じている。
足にきている、わけではない。
視線を下げ、リョージは下半身のアリを、じっと見つめる。
そしてポンと膝を打った。
「……おまえ、あんときのアリか?」
うれしそうにステップを踏む下半身を、上半身のライオンは腹立たしそうに吠えて、いなそうとする。
どうやら上半身と下半身の意思に乖離があるらしい。
ロープに抛られ、近くにもどってきたリョージに問うチューヤ。
「なんだよおまえ、アリにまで知り合いいんの?」
「いや、水たまりで溺れかけていたアリを、救ってやったことがある。たぶん、あんときのアリじゃねーかな」
「カンダタか、おまえは!」
一匹の虫を助けたおかげでお釈迦さまが泥棒に救いの手を差し伸べたという話が、芥川龍之介『蜘蛛の糸』にある。
再びリング中央に向かうリョージ。
「そうか、おまえ、強くなったんだな」
ミルメコレオの下半身は、嬉しそうにステップを踏む。
リョージには、自分の勝ち負けなど、あまり眼中にない。ただ、目のまえの虫が知り合いだと気づいて、その相手と本気で戦えることが心から嬉しいようだ。
これはリョージにとって、お気に入りのストーリーだった。
彼が弱者を助けるのは、「もっと強くなってオラを楽しませてくれ!」というのが、もっぱらの理由だからだ。
「そういうこと、あんの?」
「まあ、合体生物だから、邪教がふざければ、そういうこともあるかもな」
すると、リングサイドで叫んでいた小人がふりかえり、チューヤに向けて言い放った。
「わっちが、そんなふざけたことをするとでも!?」
通常は「魂の時間」でのみ現れる、邪教テイネ。
自分の魔術回路が勝手に使われ、実体化の触媒になっていることに気づいたチューヤは、
「あ、てめ、また勝手に俺の召喚枠、転用しやがって!」
「プライベートタイムざんす。仕事の話はよしなんし」
「そういうふざけた仕事しなかった!?」
「ノーコメンツ!」
そしてテイネは、当然のようにリングサイドのかぶりつきの席にもどっていく。
プロレス観戦するのが、いまの彼女の仕事らしい。
あんなやつはほっとこう、と視線をもどすチューヤ。
リング上では、あいかわらず上半身と下半身の意思がちぐはぐで、相手の技を受け止めようとする下半身と、いなそうとする上半身で動きがバラバラだ。
「どうやら、リョーちん、野良ライオンは助けなかったみたいだね」
「飼いライオンにも、あまり会ったことはないけどな」
「いや私ゃ、リョーちんなら助けててもおかしくないと思うよ」
「否めねえな。野生のリョーザンだからな」
「梁山泊?」
クエスチョンマークを飛ばすサアヤ。
「たぶん、ターザンにかけたんでしょう……戦いは終わっていませんよ」
ヒナノに言われて、慌ててリング上に視線をもどす。
「おまえと戦えて、うれしいぜ、み、みるころめお……!」
リョージの舌にとっては、ややむずかしい名前だ。
「ミルメコレオだ!」
不愉快そうに答える上半身のライオン。
下半身のアリは懐いている。
「ほんとに見ちがえたぜ、ずいぶん強くなれたじゃねえか、よかったなあ!」
心から楽しそうに殴り合う。
ライオンの顔は迷惑そうだが。
「ええい、これだからムシケラは……度し難い!」
自分もいまは妖虫の仲間なのだが、ライオンの上半身には、まだ百獣の王のプライドが拭いきれない。
「よっしゃ、本気でかかってこい、おまえのリングネームは、きょうからミルコ・ロメコップだ!」
うれしそうにその名を推戴し、踊るようにタックルを仕掛けてくる下半身。
血沸き肉躍るリング上。
一方、リング下では無力な仲間たちが駄弁を弄するしかない。
「どこの格闘家だよ……」
「わたくしたちにできることは、応援だけなのですか」
「うん、たぶんね。タイマンを邪魔されたら怒ると思うよ、リョージ」
「だから言ったじゃん。リョーちんは、だいたい、ひとりでどーにかしちゃうって」
ただの観客に成り下がっているチューヤたちは、なぜ自分がここにいるのか、心から悩みはじめていた。
リョージは楽しんでいるものの、その戦いはしだいに厳しさを増していた。
なにしろ悪魔の本体を支配するのは、あくまでも上半身のライオンだ。
クレバーな戦いまわし、ホームグラウンドの有利、審判の差別など、あらゆる面でリョージの不利が助長される。
それでも彼は文句ひとつ言わず、自分の戦いに没頭している。
ここが敵のホームである以上、敗北のロールを引き受けてもかまわない、とでもいうかのようだ。
それがプロレスという「プレイング」であるかぎり。
プロレスは基本、観客が喜ぶように「ゲーム」を運ばなければならないことになっている。
だが、たとえ結末が決まっていたとしても、レスラーはレスラーとしての「ロール」をこなし、せいいっぱい観客を楽しませなければならない。
ダウンしたリョージが、立ち上がろうとしている。
その瞬間、観客の投げ込んだビール瓶が、その頭部を痛打した。
膝をつくリョージ。
鮮血が溢れる。
「うぉおぉおぉーぉおっ!」
おそらく、血そのものに対する興奮をもっぱらとして、周囲は騒然となった。
レフェリーは「いけませんよ」的な注意を観客席に向けているが、本気度はまったく感じられない。
リョージの頭の傷は、ぱっくりと大きく割れている。
「くっ、これは……」
反射的に怒りの反撃魔術回路を起動しようとしているヒナノに先んじて、
「わかっちゃいるけど、これはもう我慢できないよ、チューヤ! 私は介入するからね、リョーちん、こっち来て!」
憤然とリングサイドに駆け上がり、回復魔法の準備をはじめるサアヤ。
「TKOだ!」
「ばかやろう、最後までやらせろ!」
「殺せ!」
「審判、カウント止めんじゃねえ!」
「殺せ、人間なんざぶっ殺しちまえ!」
囂々たる絶叫のなか、つぎの瞬間、
「お待ちなさい!」
マイクを通じた清冽な女の一声が、場の雰囲気を一挙に変えた。
ミルメコレオ側の花道にスポットライトが当たる。
そこには、端然と和服をまとったひとりの妖虫が、楚々としてリングサイドに向かう姿。
──片手にはマイク。
ひらり、とリングに上がると、眉目秀麗なその双眸でぐるりと周囲を見まわした。
年齢不詳だが、30代でも50代でも驚かない化粧の力に守られている。
和服はいかにも高級そうで、銀座のママの雰囲気が横溢する。
「姫……」
「虫姫」
「虫めづる姫君、このようなところへ」
どうやら有名人らしい、とチューヤたちは理解する。
チャンピオンのミルメコレオも、ややかしこまった表情で、虫姫と呼ばれた和服美人に敬意を表している。
観客の態度は、さらに如実だ。
ほとんど整列し、直立不動の姿勢をとる者もいる。
虫姫が片手を挙げ、しゃべる気配を示した瞬間、場は静寂に包まれた。
「ここにいる者どもは、『殿』のことをお忘れか?」
ほとんど全員が首を振る。
姫がいる以上、殿がいてもおかしくはない。
「それでは『殿』の名は?」
さっきよりも多くの者が、首を縦に振っている。
虫姫は満足げにうなずくと、リングの片隅で額から血を流し、膝をついているリョージの傍らに歩み寄って、問うた。
「ご貴殿の父君の名は?」
リョージは、しばらくあっけにとられて目のまえの着物美人を眺めていたが、すぐに質問の意味を理解すると、向けられたマイクに向かって短く言った。
「東郷寛太、だけど」
しーん、と周囲が静寂に包まれる。
それから、ざわざわとざわめきが広がっていく。
「かんた……」
「カンタダ……」
「まさか、あの虫めづる殿の」
「なんということが、存ぜぬこととはいえ」
「ご無礼の段、平にご容赦、ご容赦!」
「なにとぞ!」
虫たちを見まわし、リョージは首をかしげる。
「虫めづる殿?」
便宜上、人間の姿をしているが内実は妖虫であるレフェリーが駆け寄り、問うた。
「お父上の、お名前は、東郷寛太殿でございますか」
静かにリョージがうなずくのに合わせて、観衆の空気は進むべき確実な方向をとらえ、動き出す。
蜘蛛の糸から落下する勢いで、連呼される名。
「カンタダ!」
「カンタダ! カンタダ!」
「カンタダ! カンタダ! カンタダ!」
レフェリーは感涙をこらえつつ、リョージの右手を挙げ、勝利を宣告する。
対戦相手のミルメコレオは膝を屈し、頭を垂れている。
「カンタダ! カンタダ!」
やまないコール。
「たしかに、オレのオヤジは寛太だけども……」
意味のわからない勝利を受け取り、リョージはまだいぶかしげに周囲を見まわしている。
「寛太でよかったね、はい、リョーちん動かない」
こっそりと回復魔法を施すサアヤ。
観衆の盛り上がりは頂点に達し、どうやらきょうの興行は大成功と呼んでいい結末に達したことだけは理解して、リョージにはそれほど不満もない。
「まさかオヤジも、こんなふうに自分の名を呼ばれるとは思ってなかっただろうな」
セコンドにもどり、チューヤと手を打ち合わせるリョージ。
「お釈迦さまでも気づくまい」
その大きな手のひらに、同じ男として敬意と信頼を寄せるチューヤ。
「どうやら無事のようで、なによりです」
男の友情というより、その友情の片側をまぶしげに見つめるヒナノ。
「結果オーライだね!」
サアヤの笑顔が、すべてを象徴していた。
「カンタダ!」
いぜんカンタ・コールはつづいている。
カンダタは救われなかったが、カンタの息子は救われた。
「それでは、お父様によろしく……」
丁寧に頭を下げ、しゃなりと踵を返す「虫姫」。
入れ替わるように、ミルメコレオたちがリョージをリングの中央に押しもどす。
勝者として、派手な胴上げが開始されていた。
一方、虫姫はチューヤたちの横を通り過ぎるとき、如才なく名刺を差し出して、
「あたくし、四ツ谷麹町のほうでお店をやらせていただいております。ぜひ一度、お越しくださいませ。お待ち申し上げておりますわ」
地味に営業された。
こっそりとアナライザを起動したチューヤの目に、その実力が垣間見える。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ムシメヅルヒメギミ/妖虫/67/平安時代/日本/堤中納言物語/田端
そのまま周囲の境界は、暗闇の向こう側へ溶けていく──。




