13 : Day -64
父親の気配はない。
週に二、三回しか家に帰ってこない父親だ。
むしろ、在宅したら驚く。
ゲームをしながらゲーム動画を見る、という退廃と怠惰の極み。
無駄な時間の合間に流れてくるSNSのコメントに、石神井公園の文字はない。
それを理由に、あんなことはなかったのだと思い込もうとすることにも飽いた。
スマホが点滅しているが、わざと既読をつけない。
ゲームだけを立ち上げ、悪魔のコレクションを眺めながら、全部ゲーム内の出来事だったことにする。
『デビル豪』。
据え置き筐体ともリンクするが、チューヤがやっているのはスマホ版。
東京23区の駅に、およそ490の悪魔を配置している。
そこに赴けば悪魔のレベルやスキルが解放され、固定敵や近くにいる人間とバトルすることもできる、一種の位置ゲーでもある。
通勤通学に使っている路線の悪魔は育成しやすく、チューヤはとくに川の手線を日々、利用することから、川の手ラインの悪魔に造詣が深い。
ゲーム序盤を支えてくれる心強い仲間、4シーと呼ばれる妖精や魔獣たち。
ピクシー、ケットシー、リャナンシー、そしてジプシー。エジプト系の悪魔を便宜上こう呼ぶが、今回は強力な敵として登場した。
そういえば久我山にはリャナンシーがいる。集めに行こうか……。
顔を上げて、すぐに伏せる。
決めたんだ。
もう家から出ない。
この時期の少年に、時折やってくる駄々っ子モード。
反抗期を受け止めてくれる親が、家にいなかったせいもある。
サアヤの一家が近くにいた頃はよかったが、いまはワーカホリックの病理が深刻化した不幸な大人たちしかいない。
代わりに獲得した、拒絶の儀。
みんな俺にかかわるな、俺もみんなにかかわらない。
引きこもりという帳の内側に安住の地を認め、チューヤは逃避の奥に沈潜する。
眠りかけてハッとする。
眠ったらまた、あの悪夢が再開するのではないか。
恐怖ばかりが押し寄せる。生活が支配される。
いや、俺は自由だ。自由に引きこもると決めたんだ。
「ひゃんひゃん、くふぁうん!」
窓の外から奇妙な鳴き声が聞こえる。
あのアホみたいな鳴き声は、ケルベロス……いや、そんなわけない。
あいつは行方不明……いや、石神井に住んでいるんだ。
「ケルベロスは自由な獣だよ。自分の行きたいところへ行くんだ」
ここは、おまえの行きたいところなんかじゃない。
そうだろ、ケルベロス。
チューヤは毛布をかぶり、すべての音と光を遮断する──。
「うるさいぞ、ケル。もうちょっと待て。ちゃんとおまえの分もあるから」
いい香りが充満する部室。
……ああ、先週だ。みんなと、肉鍋を食ったのは。
うまかったな、リョージの料理。あいつ、ほんと天才だよ。
「おい、ケル! それはボクの肉だぞ!」
「ふぁん、ひゃうん! がるるる」
「犬に負けるチビ、底辺だな」
あいかわらず仲がわるいな、ケートとマフユは。
「黙れ、ヘビ女! くっそお、いつか犬鍋にしてやるからな……」
「ぶーっ! 冗談でもそういうこと言っちゃダメー」
いつもの部室。
楽しい会話。
先週までの自分。
明日から月曜日。
また、いつもどおりの日常がはじまる。楽しい日常をくりかえすことができる。
……そうしようと思いさえすれば。
「じっさい、犬肉を食うところもあるわけだが」
「絶対反対!」
だよな、サアヤ。犬好きだもんな。
「俺も賛成はしないけどさ、文化だからな。むずかしいところだ」
「あいつら猫も食べるのよ、チューヤ!」
「反対! ぬこを守れ!」
部室にゆるやかな笑い声。
本気で政治的主張をしているとは、だれも思っていない。
「まあ、足4本あるものは机以外なんでも食うからな、チャイナは」
「文化だから、とすべてを認めてしまってよいものか?」
「人肉以外はいいだろ、食っても。そもそもベジタリアンから見れば、犬を食うのもクジラを食うのも一緒だ」
「じゃあ牛や豚だって同じだろ。境目どこだよ」
たまにまぎれこんでくる、こういう微妙な話題に付き合うのも面白い。
「思想としてはわかる、クジラを食うなってのは、一種の宗教だ」
「捕鯨問題は宗教戦争だったのか」
「じっさいは、ほとんどビジネスのようなものでしょう」
「なんでもいいだろ。食えるもんは食えば」
ニュースを切り貼りした特集番組程度の知識しかない者が大半だが、頭のいいケートはいつも議論を先導、いや扇動してくれる。
「宗教をネタにしたビジネス、ってのが正解に近いな。そもそも論理破綻してるんだよ。星の数ほど牛とか豚を食い散らかしてるやつらが、どの口でクジラは食うな、だよ。
とくに子牛がうまい、いや子羊の肉が最高、餌を詰め込んで太らせた肝臓こそ至高、とか言ってるやつらだぜ。ほとんど虐待の果てにでっち上げられた食い物を、うまいのまずいのと、唾棄すべき妄言だと思うんだ。
そんな連中がだよ、他国の文化を残虐とか野蛮とか、ちゃんちゃらおかしいわ」
「それ言っちゃうとさ、ベジタリアンしか語る資格なし、って話にならね?」
「屠殺の方法が問題だとか、衛生状態がわるくて感染の恐れがあるとか、いろいろ問題はあるでしょう」
スープをすすりながら、壁際のテーブルに置かれた端末をたたいてデータを読み出すのはケート。
わきから覗き込むサアヤ。
「毎年2000万頭以上の犬が殺されています、だって」
「世界の動物屠殺数。牛1億5千万。豚13億。鶏376億……」
闇の世界から響く声。
たしかに、われわれはこういう世界に生きている。
この事実から目を背けることは、できない。
「人類、80億。毎年1億は安定供給が可能だな」
この言葉を発したのは、だれか。
いまとなっては、よく思い出せない。
ただ、先週どこかのタイミングでこの一連の会話が出てきたのは事実だ。
いまの段階で、それがメタファーになっていた可能性に気づくことに、意味はあるか。
そこに透けて見える何者の思惑を想定するのは、考えすぎだろうか。
「まあ、なんて魅力的な屠殺対象」
「やめろ。おまえら悪魔か」
「一度、食ってみたい気はするな。うまいらしいぞ」
「おいマフユ……」
「生きる資格のない方もおりますわね」
「死んで贖罪を果たせケル、その肉は美味しくいただいてやる」
「くわっ、がるるる」
みんなわかってる。もちろん、本気で言ってない。
冗談だ、ジョークを言ってるだけだ。そんな世界、ありえない。
だから、それもこれもあれもどれも、日常の会話のなかに埋もれて、永遠に過ぎ去ってしまうべき刹那の会話なのだ。
そんな世界、ある、わけが、ない……!




