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状況は、コトシロヌシやサラスヴァティを経由して伝わってきた。
この場に流れ込んでいる因縁の強さ、深さ、濃さは、尋常ではない。
「どういう、ことだよ、じいさん」
ガーディアンから見捨てられた老人に、直接、食ってかかるチューヤ。
「さっさと出さねえか、サアヤをよ!」
高校生たちから問い詰められても、蛭子の答えは変わらない。
「ヒルガミさまが、そんなに素直に、簡単に、おまえらごときの軍門に下るはずが、ないのだ。たまたま本体は、ここではないどこかにいっていた。だから、取り残された甘っちょろい福の神の分霊だけが、ナガスネヒコの恫喝に屈したのだ。もともと、蛭子が負けるはずはないのだ……」
うわごとのようにつぶやき、それ以上、もうしゃべろうとはしない。
そのときだ、
「因果は応報したってことかな。災難だったね、おじいちゃん」
サアヤが扉の奥から姿を現したのは。
「無事だったか、サアヤ!」
この場にいる全員から愛されている少女、サアヤ。
彼女は取り巻かれ、照れたように笑った。
「うん。なんかね、ずっとトランプしてた」
その姿は、じつのところ蛭子の見ていた監視カメラの映像のどこかに、ずっと映し出されつづけていた。
言うなれば、彼女の「運」を利用した蓄財のモデル。
──運の総量は決まっている、という説がある。
その真偽は定かではないが、他人の運を集めて、強制的に大きなひとつの「幸運」をつくりあげることは、可能だ。
蛭子老人は、そうやって親族の運を吸い取り、肥大化させて、自分に降りかかる福と呪いをコントロールしていた。
それも、もう終わりだ。
「バカな、貴様、どうして……」
這うようにしてサアヤに手を伸ばし、問いかける。
「おじいちゃん、もうやめよ? こういうの、終わりにしないと」
優しい物言いだが、どこか冷たさを感じさせるサアヤの言葉に、蛭子は唇を噛んだ。
「はじめたのは、貴様らだろうが。蘇我氏が、ヒルガミを連れ、東へ逃れたのだ。北の蛮族を馴化して、この地に命脈をつないだのだ。そして、わが蛭子の血に、この地が応えた」
聞き手にある程度の素養と想像力を要求する言葉だったが、理解する気皆無の何人かを除いて、漠然とは想像し得た。
「闇の日本史、か。どうとでも言える、しょせん証拠はない」
サアヤを巻き添えに、引きずり下ろしたいだけだ、とチューヤは即断した。
「魂どもが、証してくれるわ。呪われた血の顛末を。その名をもってな。──貴様の血も、もとより渡来であろうが。ハタよ」
ぞくり、とマフユを除く一同の肩が揺れる。
──秦氏。
この名前が月刊『ヌー』でどれだけ頻出しているかを考えれば、メタファーとして余りある。
「なんのことか、知らないし。私は草加市生まれヒップホップ育ちだし」
サアヤは関係を拒絶して言い放つが、
「けひゃひゃ、語るに落ちたか。蘇我の血は争えぬわ。おまえも太古の、呪われた血族にあることを、忘れるな。草加とは、蘇我のことだ!」
蛭子は弱々しく笑った。
狂った老人、末期の妄言と、本来なら聞き流すべきところ。
が、あまりにもポイントをとらえすぎている。
「そ、草加市は、埼玉県だし」
ふるえ声で応えるサアヤ。
「我、蘇る。貴様の魔力は、蘇我の血に支えられていることを、忘れるな。ガーディアン・プレイスは、何度でも……」
恐喝的言辞を吐き連ねながら、蛭子の表情は、さらに憔悴し、もう生きた人間のようには見えない。
「黙っとけ、じじい」
マフユが一発蹴飛ばすと、ようやく蛭子は沈黙した。
──大化の改新、乙巳の変で、蘇我氏は歴史的に有名だが、関東で曾我氏といえば、相模の国を発祥とする武家の血族だ。
草加市の由来も別にさまざまあり、わざわざ蘇我氏とつなげる必然性はどこにもない。
ゆえに老人の妄言に耳を傾ける必要は、一切ない。
わかっていても、サアヤの表情に落ちた影はぬぐえない。
「ワヒャガルゥオェ」
と、サアヤの足元からゆらりと現れたポメラニアンが、すたすたと蛭子の近くへ行き、片足をあげてシャーッとやりだした。
「こら、ケルベロス。メッメだよ!」
サアヤに向けて、変な笑いを向けるポメラニアンの口元を見て、チューヤは気づいた。
こいつか……。
ケルベロスの口元から覗く、邪悪な霊魂の喰い散らかされた残滓。
チューヤは知っている。
この小動物の内側に隠された、凶悪な本性を。
──ケルベロス。
獰悪な地獄の番犬。主人である少女を守るためならば、なんでもする。
ヒルガミだろうがヨルガミだろうが、端から喰い尽くして平らげる。
その長い戦いが終わるのと、チューヤたちの戦いが終わるのが、たまたま重なっただけだ。
「バウゲワラッフゥ」
それでも、あいかわらず意味不明の吠え声を発するポメラニアンを見て、一同のなかに、ようやく日常への帰還が等しなみ意識される。
境界が、溶けていく──。
帰りはふつうにエレベーター。
「はい、これ。チューヤにって」
そのなかでサアヤは、手のひらに乗るくらいの、小さな細長い印鑑のようなものを差し出した。
「なんだそりゃ?」
受け取り、矯めつ眇めつするチューヤ。
「さあ。私を連れて行った、あのお菓子だいすきおねーさんがくれたよ?」
「あいつか……」
敵なのか味方なのか、いまいちわからない。
チューヤとしては、進行上の重要な役割を担っていることを疑う余地はないのだが、試練を与えるにしても過酷すぎるきらいがある。
「んなことよりよォ、もう眠くてしゃーねーんだ。あたしは帰らせてもらうぜ」
マフユがめずらしく死にそうな声を出した。
時刻は午前零時をまわっている。
夜の東京を徘徊するタイプのマフユだが、きょうのところは眠いらしい。
「ボクもだ。わるいが帰らせてもらう」
エントランスから出て、左右に分かれて行こうとするケートとマフユの首根っこを、背後からむんずと捕まえたのは、サアヤだった。
「友情は? ねえ、ケーたん、フユっち?」
「ゆ、友情……?」
サアヤはチューヤに視線を転じ、問うた。
「で、つぎはどこ?」
「本気かよサアヤぁ、腹減ったなぁ」
マフユはぐずぐず言っている。
ケートはあきらめたように、
「目黒から行こう。リョージを先に助けたほうが、戦力が増す」
「ってことは、目黒にリョーちん、いるんだね」
「ってことは、白金台にお嬢ってことね」
すかさず補足情報を付け足すチューヤの思惑とは。
「どうでもいいだろ、なあ、帰って寝ようぜ」
「もう、フユっち。友達なんだから、そういうこと言ったらメッメだよ!」
「はーい」
暗黒のマフユも、サアヤに対してだけは忠実を貫く。
「で、どうするんだチューヤ。目黒か、白金台か」
ケートの問いに、南のほうへ身体を向けながら、チューヤは頭をひねる。
またしても選択肢が提示された。
シナリオ分岐ってたいへんだね、と思いながら問いを投げる主人公。
「諸君の意見は?」
「飯を食いたいからな。リョージを助けておけば鍋が食える」
マフユらしい。
「私はどっちでもいいけどー、んー、どうせチューヤが選ぶのは決まってるしなー」
サアヤの目は、見透かすように細められている。
「どういう意味ですかね、サアヤくん」
表情を引きつらせるチューヤ。
「ふん、なるほど。エロ河童めが」
ケートが答えを先まわりした。
「ちょっと! 俺の選択を、勝手に先読みしないでもらえます!?」
「じゃ目黒行くか?」
ぐっ、と言葉に詰まるチューヤ。
「……まずは白金台から。ほら、リョージ強いじゃん。あいつならひとりでも、なんとかなるって」
「お嬢もべつに、ひとりでなんとかするだろ。プライド高いし」
「いいから飯を食わせろ」
「チューヤはそういう男だよ。しかたないよ、もう」
三者三様、やれやれと嘆息気味だ。
「ため息つかない! なんなの、その不満そうな顔は? 白金台には、おいしいレストランあるよ!」
ゆらり、と身体を起こしたマフユは、ポンとチューヤの肩を叩いた。
「しかたねえな。どうしてもオゴリたいってんなら、食ってやるよ」
「お三人さま、ご案内~」
先に立って歩きだすサアヤ。
「ちょ! 俺はなんも」
自分で決めておきながら、びっくりするチューヤ。
「ボクは出さないからな。そんな蛇の餌代なんか、絶対」
ぶーたれるケート。
この流れは、彼にとっては本意ではない。
ともかく、進路は決まった。
「お金持ちでしょ、けちなこと言わない!」
「使い道によっては、ドブに捨てたほうがましなこともある」
割り込んで、¥の目をチューヤの懐に注ぐサアヤ。
「いいじゃん、チューヤ、そのカードにためこんでるでしょ、どうせ」
「あんた勝手に使っちゃったでしょ! もうダメだからね、これ俺の!」
自分の胸を抱き、防御姿勢。
「チューヤのものは私のもの、私のものは私のものだ! 行くぞ、皆の衆!」
パワフルに歩き出すサアヤ。
考えてみれば、彼女がいなければ、今夜はこのまま解散、という流れになっていた。
引きずられるように歩き出す、マフユとケート。
ふたりともサアヤのことが大好きなだけに、まったく逆らうことができない。
それをしばらく見守ってから、チューヤは静かに言った。
「あのー、サアヤさん。方向、逆なんすけど」
「早く言えよ!」
さらわれた部員たちを助け出す。
第二のミッションが、はじまった。




