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「グッド! ゲームは選ばせてやろう。カードゲームなら、バカラ、ブラックジャック、ポーカー、ダイスならクラップス、大小、チンチロリンもある。ゲームマシンでもいいぞ。ルーレット、スロット、ビンゴ、キノもあるが……」
ギャンブルが開帳される。この場で、いまから。
その事実に、老人は少しく興奮していた。
「コインで決めよう。いま、この場で」
立ち向かうケートは冷静に、ポケットから1枚のコインを取り出した。
老人の目が冷たく光る。
──その金貨に刻印されているのは、プロビデンスの目。
アメリカナイズされたフリーメーソンの象徴といっていい。
「何者だ、貴様」
「ボクの正体なんか、問題じゃないだろう。ゲームは選ばせてくれるんだろう? いまさらケツまくるなよ、じいさん」
チューヤは空恐ろしげな眼で、老人とケートを見比べた。
どちらかといえば、ケートの正体もまだまだ不明なところが大きい。
そういえば、秘密結社がどうとか、まえにも何度か聞いたことがある……。
「コインの裏表で決めるんだ。かまわんよな?」
シンプルなのがベストだ、とケートは判断した。
老人は鼻白んだように椅子に座りなおしたが、すぐに首肯した。
「……よかだろう。だが、そのコインはダメだ」
「あんたが用意するコインを使えと?」
「ゲームは選ばせてやるが、道具まで選ばせると約束した覚えはない。むしろ私には道具を選ぶ権利があるくらいだが、文句を言われてもかなわん。……そこの女、ジャンプしろ」
蛭子は芋虫のような指で、マフユを指さした。
「あたしが? なんで」
不興げなマフユ。
「いいから跳べ」
なだめて跳ばせると、チャリンチャリンと音がする。
「まだ現金主義かよ、蛇女」
あきれたように言うケート。
「ざけんな、原チャのガソリンだって、ちゃんと兄貴のカードで払ってきたわ。この小銭は……自販機の下に落ちてたんだ」
「おまえ、そういうところあるよな。自販機のつり銭口、必ず探るし」
ため息交じりに言うチューヤ。
「うっせえ。ほっとけ」
言いながら、マフユは小銭をテーブルの上にじゃらりと放り投げた。
「おもしろい。小銭を大事にするのは、いいことだ。最近の若者にしては、見所がある。よろしい。……これを使おう」
紫檀のテーブルに広がった小銭のなかから、1枚の10円玉を選び出す蛭子。
設定されつつあるステージで、向かい合うケート。
「で、やり方だが」
「もちろん、シンプルなゲームだ。どちらかがテーブルで回転させる。回転中に、もうひとりのほうが表か裏を選ぶ。それだけだ」
「確率が発散することは、ないな」
思考実験ではともかく、0≦P≦1で振動する確率は、必ず収束する。
「回転させてから3秒以内にコールしろ。条件はそれだけだ」
蛭子は言って、テーブルの上、左手の人差し指でコインを立てる。
「いいだろう」
ケートがうなずくと同時に、ピン、とコインを弾く蛭子。
かなりの速度で回転している。
数十秒後の表裏を計算することなど、不可能だ。
「……裏」
法律で決められているわけではないが、一般的には発行年のある側が「裏」とされる。
「グッド! ゲーム成立だ。全員、その場を動くな。息もするな。これは運否天賦だ。神聖なギャンブルを妨害するものは、なんぴとであろうと許さない」
ゆらり、と蛭子の背後にガーディアンの影。
気づいた者はいない。
異常に長い。10秒、20秒……まだまわっている。
30秒……そろそろ止まりそうだ。
るるるるるる……しゃりん……。
チューヤは一瞬、ハッとして視線をめぐらせる。
高層階の窓の外に、こちらを見つめる目。
本来ありうべくもない視線の根拠が、瞬時に整合される。
「……ホルス」
息を呑むチューヤ。
賢く、己の力を信じるハヤブサは、圧倒的な視力をもって「瞬時」を見極める。
ハヤブサの降下速度は時速300キロ。
地球で最速の生物が、ともかく窓の外を降下している。その一瞬を認識できているという時点で、モードは決まっている。
──魂の時間。
邪教を起動した覚えはないが……。
同じ経験は、先週の喜多見でした。
ホルスは勝手に、こちらを魂の時間に引き込むことができる。
英知を意味する「ホルスの目」の残像が、ケートの取り出したコインの図案に重なる。
どこまで意図されたものか、あるいはすべて偶然なのか。
チューヤが深い考えに陥るまえに、ホルスの目は消えていた。
窓の外にハヤブサの姿はなく、時間の隙間に空気が押し寄せてくるような一瞬の錯覚だけを残して、時は動き出す。
いや、最初から時間が止まることなど、ありえない。
ただ、その一瞬が驚くほど濃密に、脳細胞とともに加速して感じられるだけなのだ。
脳裏をよぎる、かわいい女子高生鷹匠に思いを巡らさなかった、とは言えない。
雑念を振り払うように、チューヤは、このギャンブルをいかにすべきか決めた。
その永遠の一瞬──時速300キロのものが高さ1メートルの窓を通過する刹那──秒速にすれば約83メートル、わずか0.01秒のあいだ姿を見せたホルスの目に、チューヤはひとつの真実を読み取った。
このギャンブル狂いの老人の身体から湧き上がった黒い煙のようなものが、ぞわり、とテーブル上に回転するコインのうえをなぞった姿を。
それをイカサマとして確保することは不可能だったが、なんらかの作為が影響した事実を疑う余地はない。
ケートなら、それを「同様の確からしさ」に対して生じる疑義、と表現するだろう。
──なぜ、ここにホルスがやってきたか。
周囲に並ぶ考古学遺物から、神話の時代を想定するのは、ゆえなきことではあるまい。
神武天皇の弓に黄金のトビが止まり、勝利をもたらしたという伝説にはじまる、日本の放鷹の歴史。
仁徳天皇が百舌野で狩をしたのが、公式の猟としてよく知られる。
あのかわいらしい女子高生鷹匠が、どんな思いでハヤブサを放ったのかは、まだわからない。
あるいはホルスの独断か。
それとも、すべては偶然──いやまさか、それはない。
つぎの瞬間、チューヤの手が、テーブル上のコインを叩き落した。
一瞬、何事が起ったか判じかねる一同の視線は、即座に厳しさを増す。
「……ごめん、わるいけど俺、まだ同意してないよ」
結果が出るまえに、テーブルをひっくり返せば、勝敗は決しない。
ご破算。
ゲームは結末を迎えるまえに、破綻した。
「どういうつもりだ」
ケートは一抹の安堵を感じつつも、表面上は不満の態度を示す。
「ごめん、ただ、いやな予感がしただけだよ」
チューヤには、それ以上のうまい言い訳が見つからない。
高校生たちのやり取りに向ける蛭子の目は、さらに厳しい。
憤怒と言ってもいい。
「ギャンブルのテーブルをひっくり返すことは、最低の行為だ。たとえまだ結果が確定していないにしろな。貴様らと話すことは、もうない」
「……確定」
しばらく考えたケートは、立ち去ろうとする蛭子の背中に呼び掛ける。
「今回は、こちらが悪かった。そちらに有利な条件でいい、もう一度、勝負してくれ」
「なぜ、貴様らの遊びに何度も付き合わねばならんのだ」
憎々しげに言いながらも、蛭子の挙措には、まだ後ろ髪を引かれるような気配が嗅ぎ取れる。
「金なら払う、さっきの分も」
「もう金など要らん。そんなもの、そもそも必要ではない」
「だろうな。だから……命を賭ける。それならどうだ?」
蛭子の動きが止まる。
金持ちが惹きつけられる要素は、もうこれしかない。
「おい、ケート」
あわてて割り込もうとするチューヤを、こんどは蛭子から強い語調で遮った。
「ほう。どういうことだ?」
「契約書だ。魂を支払う」
ケートはナノマシンを起動し、かぎりなく透明に近い魔術回路を立ち上げた。
「──青の契約か。この書式は強力だぞ。冗談では済まさぬが」
蛭子はにやにやと笑っている。とても福の神の笑いではない。
ナノマシンの仲介により、デジタル署名された契約書の文言が確定する。
ケートに勝算はあるのか──。




