32 : Day -49 : Kita-ayase
どういう改造をしたらその速度が出るのかわからないが、とにかく環八から254、環七をぶっ飛ばしてたどりついた、北綾瀬。
警察に見つからなかったのは奇跡に近い。
途中、チューヤは何度か「オヤジ早く見っけて逮捕しろよ」と思った。
石神井公園から北綾瀬、所要時間30分は、じつのところ高速地下鉄である川の手線のほうが早い。
長い駅間を時速130キロでぶっ飛ばす、異常な路線だからだ。
が、駅から目的地までの時間などを考慮すれば、バイクのほうが早い。
なにしろ川の手線は大深度なので、もぐるのにも出るのにも時間がかかる。
「か、帰りは電車で帰らせて……」
息も絶え絶えのチューヤを、原チャリから引きずり下ろすマフユ。
「帰りだ? バカ野郎、生きて帰れると思うなよ」
「どういうことだよぉ」
マフユは無視して、電話を耳に当てる。
「ああ、あたしだ。いま、北綾瀬に着いた。ロキ兄は?」
電話の相手が代わったらしく、マフユの口調も変わる。
どうやらロキと、なにやら話しているらしい。
ほどなく、彼女が通話を閉じるより先に開いたのは、占い館のドアのほうだった。
昼間、チューヤを体よくあしらったオバサンが、へつらうような表情で揉み手しながら、マフユを迎え入れる。
俗物め……と思いながらも、小市民チューヤはなにも言わずマフユのあとにつづく。
──室内は、薄暗かった。
リリスの占い館『デルフォイ』。
別名「足立の母」。
入り口には「γνῶθι σεαυτόν」「μηδὲν ἄγαν」「ἐγγύα πάρα δ᾽ ἄτη」という格言が並んでいる。
汝自身を知れ、多くを求めるな、無理な誓いはするな。
現在も政治家が占いを頼り、大会社の経営判断まで左右することがあるが、それは太古からあった伝統ともいえる。
古代ギリシャの時代、デルフォイの巫女の神託を左右するため、各国の大使クラスが神殿の周囲に集結し、多額の献納、寄付金を集めて都合のいい神託を出させる、という一種の情報戦が展開されていたのである。
ギリシャ最古の神託所であり、ギリシャ神話のなかにも登場している。
この店を、駅を支配する悪魔の名は、リリス。
おそらくこの先にいる占い師は、悪魔の力を手にしているにちがいない……。
「ロキの紹介か。あやつめ、偉くなったものだな」
そこには、水晶玉をまえに、ひとりの女が座っていた。
背後には、古いものらしい絵画。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールによる17世紀の作品「女占い師」だ。
本物はメトロポリタン美術館所蔵なので、もちろん模写ではあろうが、この絵をここに飾るということは、非常な皮肉かつ含蓄に満ちている。
中央の若い男に、占い師の老婆がコインをもって話しかけている。
老婆の話術で男の気を引いている間に、まわりにいる3人の娘たちは、男が身につけている貴金属を奪おうとしている──。
いわゆる「だまし」がテーマであり、ひとりひとりの視線とその表情が状況をうまく表し、奪う側の緊張感さえも伝わってくる。
ふと、視線を下げたところで、占い師の視線とぶつかる。
チューヤは、ぎくりと背中を揺らした。
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
リリス/夜魔/96/紀元前/メソポタミア/ギルガメッシュ叙事詩/北綾瀬
重厚なローブで、すこしでも頭を下げると目線は見えない。
表情は能面のよう。濃厚な化粧のせいで年齢不詳。
ふいに、女の口元が不気味に歪むのを見た。
一瞬だけ覗いた舌が、蛇のようにチロリと赤く光った──。
蛇仲間同士でお話を、というわけでもないが、チューヤは最初、黙って部屋の片隅の椅子にちんまりと座っていた。
占いは、それほど複雑な魔術回路の行使を必要とはしなかった。
占い師はただ水晶玉に手をかざし、その奥を覗き込むようにしてから、短く答えだけを言った。占い師らしいのか、らしくないのか、経験値の乏しいチューヤにはわからない。
サアヤの居所を聞いた瞬間から、マフユは動き出していた。
チューヤが、ヒナノとリョージのことを聞き出すのに、しがみついて止める必要があった。
それから再びカタコトの、占い師の短い言葉が終わるのを待たず、チューヤの襟首をつかんで飛び出すマフユ。
答えを引き出せれば、こんなところに用はない。
一応、全員の居所だけは聞いた。
それにしても、どうやらマフユにとって、別の蛇の住処は、あまり居心地のいい場所ではないようだ。
「サアヤは恵比寿か。リョージとお嬢は……」
『デルフォイ』を背に、つぶやくチューヤ。
「うるせえな、そんなんどうでもいいんだよ」
やはりマフユにとっての優先順位は、サアヤ一択のようだった。
「待てマフユ、先に落合で話を聞いてきたほうがいいと思う」
あまひこ君の悲劇は、マフユもその目で見て知っている。
「サアヤの親戚ってやつか? あんなやつ、役に立つのかよ。自縛霊に捕まってて、一歩も店から出られないんだろ?」
「まあ、そうだけど、蛭子家の住所は彼に訊くのが早いだろ。それ以外にも、なんか役に立つ話が聞けるかもしれないじゃん」
「しかたねえな、住所がわからんことにはどうしようもない。行くぞ、さっさと乗れ」
原チャリに引きずり上げ、落合を目指す。
マフユがめずらしく部活後のイベントに付き合ったのは、まるでこのためであったかのようだ。
天彦は元気だった。
自縛霊たちに店に縛りつけられ、機械のようにベンサンを発送している姿を、元気と呼んでよいものならば。
いじめっ子気質のマフユに締め上げられるまでもなく、天彦は素直に答えた。
「蛭子家ですか、それなら恵比寿駅前の……」
チューヤは短くサアヤのことを話したが、天彦が従妹のことを心配しているような気配はなかった。
彼にとってサアヤは、死にたくても死ねなくしてくれた、おせっかいな親戚にすぎない。
長居はせず、再び引きずられるようにして原チャリに乗せられた。
目的地は非常にわかりやすく、チューヤほど地理勘のないマフユにも、説明するまでもなかった。
──蛭子家の当主は、有名なところに住んでいた。
まさに駅前ど真んまえ、恵比寿ガーディアン・プレイスのメグロ・セントラル・エステート、最上階ペントハウス。
大金持ちしか住めない場所に、蛭子家の当代当主がひとりで住んでいる、という。
じっさい、天彦をはじめとする家族一同は、マンションからやや離れた場所にある一般的なアパート暮らし。
蛭子家では、当主のみが絶大な力を握っている。それ以外の家族は奴隷に近い。
そういう認識でいいようだった。
「その爺さんに、サアヤが捕まってるってわけか」
「いや、占いによれば、エビスの血、としか」
その断片的ワードから、サアヤの血族で恵比寿に住んでいる人、という連想をしたにすぎない。
しょせん占いといってしまえば、占いなのだ。
「とにかく、なんか知ってんだろ。締め上げてやる」
「待てって。ここ、超高級マンションだぞ。セキュリティもすごいんだから」
部屋番号を押す。
しばらくして、召使らしい女の声。
来意を告げると、しばらく待たされ、
「お話しすることはないそうです。お引き取りください」
「ああ? ざけんじゃねえよ、てめえの孫のことじゃねえのか」
「正確には、ひ孫にあたるらしいぞ」
「どっちだっていいわ。そのクソ爺がなんか知ってることはわかってんだよ! さっさと開けないとヤクザ呼ぶぞ!」
「そのまえに警察呼ばれるぞ」
「なんだっていいから開けろ、このクソ……っ」
ぷつん、とインターホンが切れる。
警備員室の動きがあわただしい。
──立往生の気配。
顔を見合わせるチューヤとマフユ。
この場合、チューヤが問題の解法を導かなければならない役割を担わされている、ということなのだが、彼も万能ではない。
むしろ彼は、ただの一般市民だ。
「まったく、キミらはほんとに、なんにもできんコンビだな」
聞きおぼえのある声にふりかえった視線の先、小さな身体に巨大な存在感をまとわせて、ケートが立っていた。
いまにもマンションに向かって暴れだそうとしているマフユを、必死で押さえていたチューヤにとって、ほとんど救世主に近い。
「ケ、ケートー、待ってたよー、ホントだよー」
「なつくな。……おい蛇、あまり動くと死ぬぞ」
普段着のケートは、冷たい視線をマフユに転じる。
「あ? 礼は言わねえって言ったろ。脅しも聞かねえ」
制服のマフユは、そっぽを向いて言った。
「ふん。まあ、死ぬのは勝手だが。……よく見ろ、屋上を」
指さすケートに従って見上げ、情けない声を漏らすチューヤ。
「高すぎて見えないよ……」
「ナノマシンを起動しろ。あの場所だけ、常設の境界化だ。あきらかにおかしい」
ケートの指摘が当を得ている事実に、チューヤたちも気づく。
「そ、そうか。なるほど、たしかに。それで、どうすんの?」
「いちばん近いのは六本木のヘリポートだ。行くぞ」
ふりかえった場所、高級車が一台。
顔をゆがめるチューヤ。
「おいまさか、おまえ運転すんの」
「だれか呼んでもいいが、急いでるんだろ?」
飄々と言い放つケートが立ち止まる気配はない。
「六本木なら日比谷線で2駅じゃんかよぉ、それにケート無免許じゃんかよぉ」
アメリカの免許は、ケートが18歳になって手続きするまで、日本では無効だ。
「さっさと乗れ、野郎ども、モタモタすんな」
しかしサアヤを助けるためなら、どんな毒も食う覚悟のマフユの行動はすばやい。
結局、彼らはトントン拍子に、目的地の上空を目指すことになった。




