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「つらいこともあるかもしれんけど、もうやめろよ、そういうことは」
言っていて、チューヤは自分の言葉にまったく重みがないことを感じる。
「哀れみか? やめとけ。あたしは泣き言を漏らしたつもりはない。ただの事実だ」
見透かしたように応じるマフユ。
チューヤは唇を噛んだ。
「だけど、そんなことしてたら、そのうち死んで」
「うれしいねえ。死は救いだ。早めに頼むよ」
「それじゃ、ただの自殺志願者じゃないか。らしくないぞ、マフユ」
「そう思うとしたら、まず、でっけえ誤解があるな。もう一度、言っておくぜ。
死は救いだろうが、あ?
延々と死ねずに、ベッドのうえで生かされている、くそ老人どもには吐き気がすんだろ?
生きるのが苦痛だとしたら、死ぬのは救いでしかないんだよ。
おまえもわかるよ、頭がどうかなっちまうような、この不快感の檻に閉じ込められたらな。
──だからって、あたしは死なないよ。まだ対策のあるうちは。
痛みに対抗して、生きる喜びを見つけ出すことが、まだできるうちはな。
だから、ごちゃごちゃ言うんじゃないよ。
あたしがなにを食おうが、飲もうが、キメようがさ」
彼女の長台詞は、先週からの顛末を包含したうえで、言い放っているのだと理解する。
その罪は確信的で、なんぴとの容喙も許さない。
チューヤはしばらく考えてから、決意を込めて一歩、踏み出した。
「わるいが言わせてもらう、ごちゃごちゃと。いや、言うだけじゃない」
そして、いつもなら絶対にしない行為をした。
マフユのスカートに手をかけ、それをわずかにめくる。
即座に蹴り飛ばされてしかるべき状況で、しかしマフユは動かなかった。
侮蔑的な視線でチューヤを見下ろしながら、
「似たようなことをやった男の頭蓋骨がどうなったか、知りたいか?」
チューヤは消毒薬とガーゼと包帯を用意して、淡々と応じる。
「教えてくれてもいいけど、あとにしてくれ。……これは、こんなふうに傷つけていいもんじゃないんだ」
「あたしのもんを、あたしがどうしようと、あたしの勝手だろ」
つまらなそうに言うマフユ。
「せっかくサーヤが助けたもん、勝手に壊すんじゃねーよ」
チューヤは鋭く言い返した。
ぴくり、とマフユの肩が揺れる。
「気味のわりいもん見て、あとで文句は聞かねえぞ」
それから肩をすくめ、だらりと力を抜く。
チューヤは一瞬、頬を染めてから、半ばめくられたスカートのあいだにうずくまる。
ひどい傷だが、表層だけだ。
「なんでだよ……」
「見たままだ。股のあいだ、内もも、でこぼこのギザギザだよ。見たくもねえだろ? ははは、そうよ。クソみてえな男がヤル気なくすために、わざとしてんのさ」
彼女がどんな世界を生きてきたか、チューヤはそれほど多く知らない。
それでも、彼女の言葉から予想できるシチュエーションはある。
彼女の言うとおり、見た目だけを気持ちわるくしたい、それで避けられる状況がある、ということだろう。
ここに顔をうずめようとした男が、悪寒をおぼえるように、だ。
「反対の足もやってんの?」
「見たきゃ見ろよ」
「いや、けっこうです……」
めくられた左足の破れたスパッツを押さえ、傷ついた皮膚に消毒薬を噴霧する。
垂れる血をガーゼで拭い、新しい脱脂綿で傷口を押さえ、テープを貼る。
「ここにサアヤがはいってきたら、おもしれーな。女の股間に顔を埋める男、大発見だ」
チューヤは一瞬、動きを止めてから、
「趣味わりーな、おまえ」
包帯を手に、やや強めに巻いていく。
「それにしても、だれもこねーな。せっかくチューヤの醜態を見せてやろうと思ったのに」
ドアのほうを眺めて、ぼやくマフユ。
どうやら彼女は、あれ以来の状況を知らないらしい。
ケートが、その点を懇切丁寧に説明してやる姿はとても想像できないから、そういうことだろう。
「おまえの醜態を見せられたじゃないか、俺が」
「あ?」
「いててて、とにかく帰って寝ろよ。よく見れば、あちこち生傷だらけじゃないか」
マフユの白い肌には、ミミズばれのような傷があちこちに浮いている。
「だって月曜じゃないか」
当の本人にとって、傷よりも大事なのは、食い物だ。
「きょうは、鍋、ないぞ……」
「あ? なんでだよ、先週もなかったんだぞ、あんまり。おまえのせいで」
「すいませんでしたね! てか、やっぱ、そのために来たのかよ。見てのとおり、シェフがいないだろ」
「リョージがサボるなんて、めずらしいじゃねーか。くそ、あの野郎、しばいてやる」
「ご随意に」
「言っとくが、サアヤはあたしのもんだからな。勝手に彼氏づらしてんじゃねえぞ」
話がぶっ飛ぶなあ、と思いながら、チューヤはどうしたもんかと考え込む。
そのチューヤの態度を誤解したマフユは、自分がいかにサアヤにとっても特別な存在か、説明してやることに決めたようだった。
「いいか、モブキャラ野郎。あたしは特別なんだ」
「そうでしょうとも。自分は自分の世界の主人公」
「そうじゃねえ。サアヤにとってだ。呼び方ひとつでわかんだろ」
「呼び方?」
マフユはやれやれと首を振り、ご丁寧に持説を開陳した。
「サアヤはチビを、なんて呼ぶ?」
「ケーたん」
「お嬢は?」
「ヒナノン」
「リョージは?」
「リョーちん」
「で、あたしは」
「フユっち……あの、なんなんすか?」
マフユの言わんとすることが、さっぱりわからない。
すると彼女は、あざけるようにチューヤを見下して、言った。
「わからんのか、おまえはモブのうえにバカなんだな」
「バカにバカと言われるとは……」
「あ? いいか? とにかく、この3人は共通してるんだ。呼び方のパターンがな」
「ノンちんタン?」
「リズミカルに言ったところでかわいくないぞ。そうだ、こいつらは全員『ん』で終わっている。だが、あたしはフユっちだ。つまりサアヤにとって、あたしは特別なんだ!」
ぽかーん、として無言のチューヤ。
特殊な脳細胞の持ち主だと思っていたが、ここまでとは。
チューヤは、彼女がそう信じているのに、あえて口をはさむのもはばかられたが、告げないわけにもいかなかった。
「あのー。俺、だいぶまえからチューヤなんすけど。ちなみに本名はシンヤ」
マフユは、その青天の霹靂に、微動だにしなかった。
ザコキャラが右手から左手に移った程度にも、眉を動かさなかった。
そして、言った。
「おまえは、きょうからチューヤンだ」
チューヤン……。
唖然としてマフユを見つめる。
冗談ですよね、という視線に対して、首を振るマフユ。
本気らしい……。
「やだああ! そんな怪しげなエセ中国人みたいな名前、やだああ!」
「うるせえぞ、ザコはザコらしく、身の程を知れ。まあ本人にそう呼んでもらえば、あきらめもつくだろ。で、当のサアヤはどうした?」
ぴたり、とチューヤは動きを止めた。
やはり、その問題を解決しないわけにはいかない。
「あの、それが……」
説明する。昨夜からの顛末を。
──お嬢が消え、リョージが拉致され、サアヤまでが連れ去られた。
話を聞いたマフユの逆上は、すさまじかった。
「てめえ、黙って行かせたのか」
チューヤの喉元を締め上げ、絶叫する。
「黙ってもなにも、なんも言う暇なかったんだよ!」
「だからあたしは昔から言ってたんだ、てめーみてーな甲斐性なしにサアヤは任せておけないって」
「おまえね! そういうおまえこそ、きのうはだいたい敵にまわってたじゃないか、おぼえてる!?」
マフユにも、自分がどんなことをしでかしたか、という記憶くらいはあるようだ。
「くそ、どうしたら……」
チューヤを放り出し、頭に手を当てて考え込む。
「一応、北綾瀬の母って人に、みんなの行き先を占ってもらって」
どうするつもりかをチューヤが口にした瞬間、
「行くぞ、くそ野郎」
弾かれるように立ち上がる、行動派のマフユ。
「は? いや、営業は夜からで」
そのためにリリムに話を通して、などという努力の痕跡を語って聞かせる間もなかった。
「寝てやがったら、たたき起こしてでも占わせる。好きな女を守るのに、必死にならない男に価値あんのか?」
「う、その、えっと……」
引きずられるように、裏庭に出る。
駐輪場に、堂々と禁止されている原チャリ。
こんなことが平気でできるのは、もちろんマフユくらいだ。
「さっさと乗れ」
「……は? いや原チャ2ケツはまずいっしょ、やっぱ電車で」
「あたしの原チャは、地下鉄なんかより速え」
「それ原チャじゃねえから、っで、原チャじゃないから2ケツしていいって理屈でもねえから、あ、あぁあぁーっ」
連れ去られるチューヤ。
当然、そうなるべき方向へ。
マフユが思い込んだら、命がけ。




