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30 : Day -49 : Shakujii-kōen


 放課後の学校にわざわざ登校したのは、もちろんあふれる向学心から、であるわけがない。

 帰りかけのクラスメートから、なんとなく事情聴取する。

 最近、欠席者が多いから、みんな個々の状況を把握などしていない。

 それでも、やはり鍋部の全員が欠席らしいことは理解できた。


「ケートたちはどうしてんのかな」


 もちろんチャットは飛ばしたが、反応はなしのつぶてだ。

 何度も返事を煽るようなことはできない。チューヤは、そもそもコミュ障の傾向がある高校生男子なのだ。


 とりあえず部室のほうに向かった。

 先週の件もあり、部室棟にもひと気はすくない。

 現場となっているらしい数理部のほうのキープアウトは、現在もまだ解かれていないという。


「そーいや逆数問題がどーのと、ケート言ってたな。あいつら連れてクリアしなきゃいけないミッションのような気が、しないでもないような気もしないでもな……」


 ぶつぶつとつぶやく声が、途中から消えた。

 通いなれた部室棟3階。

 民俗化学部、通称「鍋部」。


 そのドアが、薄く開いている。

 いや、問題はそこではない。

 内部から聞こえる音──声。

 チューヤは思わず呼吸を止めた。


 なんだ、この展開は。まさか、まださっきのリリムの影響が残っているのか……?

 そう問いたくなるような、この声は、()()()()()()


「……っは、く、うう……つっ」


 うめき声。あるいは、あえぎ声。

 女の、ややハスキーがかった、媚声。

 それ自体、高校生男子を刺激してやまない重大要素だが、それ以上に重大な注目点に、チューヤは高速で気づかずにはいられない。


「……マフユ?」


 よく知っている女だ。

 もちろん彼女がここにいることは、ごく自然なことではある。

 鍋部の部員として、残飯処理要員として、いつものように部活にやってきた。


 それだけなら、なんということもない。

 無事だったんだ、よかったなと、あいさつを交わすだけだ。


 だが、現状は……おかしい。

 なにやってんだよ、マフユ……。


 当然のように音をひそめ、細く開いたドアの隙間に目を向ける。

 ──そこに、彼女はいた。

 こちらに背を向け、いつもサアヤの座っている椅子の上で、マフユはうつむきがちに頭を垂れ、その手をみずからの股間に伸ばしている。


「……ぁーヤ、う、サー、やぁ……っ」


 疑う余地があるだろうか。

 いや、こんなエロゲみたいな展開、あるか?


 これは夢だろう。

 リリムのやつ、俺にこんな淫夢を見せるとは、どうかしてるぞ。

 脳内でひとしきり突っ込もうとして集中力が切れた。

 がたん、と膝がドアに当たる。


 ぴたり、と動きを止めるマフユ。

 硬直するチューヤ。

 ゆらり、とふりかえるマフユ。

 硬直の解けないチューヤ。


 どうする、どうしたらいい、どうすべきか。

 高速で思料するチューヤの身体は、沈着冷静を要請するナノマシンの恩恵であるかのように、ぎりぎりで動きをとりもどした。


 逃げたらドツボだ。

 ここは、ふつうに行動するにかぎる。


 ──俺はなんにも見ていませんよ。ちょうどいま、ここに着いたばかりですよ。

 やあマフユさん、きょうも楽しく鍋を囲みましょう。


 そういう態度を貫けばいいだけの話だ。

 チューヤは機械人形よろしく、目のまえのドアを開け、ぎこちなく右手を挙げた。


「や、やあ。マフユ。元気?」


 気の抜けたような言葉に対して、マフユは特段の反応も示さない。

 部屋に一歩を踏み入れた瞬間、その臭気に眉をひそめた。

 淫臭漂う室内、と言いたいところだが、どうもそういうピンクな雰囲気はあまりない。

 ピンクより、もっと濃い色。生臭くて、黒く濁ってさえ見える、血の色。


 ぴしゃっ、と床に液体が滴る。

 まさにその、深紅の液体が。


「マフユ……?」


 めまぐるしく視線を動かすチューヤ。

 理解した映像を、脳内で整合させなければならない。


 無表情のマフユ。

 右手には赤いナイフのようなもの。

 見たことがある、部室の備品だ。


 足元には血痕。

 なんだ、これは……。

 月経?

 そう露骨な物言いができるほど医学的ではないし、現状、ちがう、と即座に否定できた。


「どういうことなんだ、マフユ」


 直接、問うにかぎる。


「傷口を、掻きまわしたんだよ」


 彼女は言って、べろりとその血を舐めた。

 もちろん経血ではない。


「傷? じゃ治療しないと。えっと、救急箱……」


「うっせえな、めんどくせえから教えてやる。……おいチューヤ、あたしを抱きたいと思うか?」


「げほっ、げふん、ごふっ。な、なにを言ってるのかな、マフユくん。だっておまえ」


 怖いし、無理、と言ってしまうと失礼に当たるのではないかと思いながらも、男だから結局はやっちまうのかなと現実的なことを考えてみたりする。

 もちろん、そんな低劣な思考を、彼女はとっくに超脱している。


「まあ、おまえがどう思うおうがどうでもいいが、世の中には、女と見たらガッつくクソ野郎が多いんだよ」


「それは……まあ、否めないな。マフユ、モデルみたいだし、怖がられてるけど、でも一部ではモテるよな」


「うっせえ。あたしは男なんかに」


「興味ないんだろ。知ってるよ。だから、むしろ商業科で女にモテてる現状は、バッチコイなんじゃね?」


「ふん、どうでもいい。……あたしの内ももには、呪いがかけられてるんだよ。だからあたしを抱こうとした男は、全員呪われる。この傷を見て後悔するがいい。おまえたちは、女の呪いを引き受けて死ねばいいんだ」


 ぐちゃり、とマフユの指が肉を掻きまわすような音を立てて、内ももに埋まる。

 自傷行為、とようやく気づいた。


 駆け寄りかけたチューヤは、やおら足を止める。

 傷口の場所が、局部に近い。下半身に手を出せば、ただちにセクハラ扱いされる。


 ──まるで罠のようだ。

 腐臭を放つ、ラフレシアの。


 マフユは見透かしたように笑う。

 危機管理能力の高い男だ、とチューヤにある種の敬意も感じている。

 冒険的な男は、まずここで一撃を受ける。

 9割の「やさしさ」と、1割の「やらしさ」で股間に目を向けた男は、マフユの長い足で蹴り返されるか、あるいは踏み込んだ先で、忌まわしいものを見る。


「……なあ、()()って()()だと思わないか?」


 足の長い彼女は、机の上に腰掛けながら言った。


「知らなかったよ。おまえ自殺願望とかあったの?」


 警戒しつつも、マフユとの距離を詰める。


「いつも感じてるよ。楽だろうが。死ねば」


「それは、ちがう」


「ちがくねえよ。まあ、サアヤと仲良しのおまえが、そういうキレイゴトで育てられたんだろうってのはわかるし、むしろ陳腐すぎてあくびが出るが。

 もし本気で言ってるとすれば、おまえの頭はほんと、お花畑だな。サアヤなら、かわいいねえ、って頭を撫でてやるところだが」


「いいよ撫でてくんなくて。まずはその血を拭け」


 チューヤは壁の棚から救急箱をもってきて、そこからガーゼを差し出した。

 マフユは鼻白んだように肩をすくめ、ガーゼを受け取ることなく、手慣れたしぐさで太もものサポーターをきゅっと締め上げた。

 何千回も圧迫止血をくりかえされた傷口は、刺激を受ければすぐに火山のように肉塊を開いてマグマを吐き出すし、かきむしられることで肉体の所有者が求める痛みを伝えてくれる。


 そうして彼女は自分が生きていることを確認し、一種の快楽とともに、絶望も感じる。

 この傷口で、自分以外のだれかも不幸になればいいと思う。


「もうよせ、そういうわるい癖は。治したほうがいい」


「治らない傷だってあるんだよ。いや、治しちゃダメなんだ。これが本来の、ヒトの姿なんだよ」


「この世は真っ暗だ、ってその思い込みさ」


 するとマフユは、不思議そうにチューヤを見て、それから首を振る。


「平和な脳みそで、うらやましいよ。地面に横たわって、のたうちまわる痛みがないんだな」


「……片頭痛もちか? いや、つらいらしいけど」


「痛みはどうとでもなる。手段を択ばなければな。もちろん選ぶつもりなんかないが」


 彼女は懐から取り出したカプセルを飲み込む。

 彼女の細い肉体は、さまざまな物質を無作為に、ほとんど無尽蔵に飲み込んでいく。

 チューヤは恐ろしい連想とともに、彼女の行為を見つめる。


「おまえ、それ」


「うるせえよ。どんな天才だって、痛みには耐えられないんだ」


「おまえ天才じゃないだろ」


「そうだな。だが、どんなバカでも、痛みを止めてもらう権利はある」


 あらゆる姦計を企て、バイコディンを入手しようとする天才診断医の海外ドラマもあった。

 人間は、痛みに耐えられるように、できてはいない。


「そんなに、痛いのか」


 なにが? という問いは、あえて呑み込んだ。


「痛い? バカか、てめえ。見ただろうが、痛みは自分で起こしたんだよ。これ自体が目的だし、苦しさをごまかす役にも立つ。

 ──()()のと()()()のはちがうんだぜ、チューヤ。パニック発作とかなんとか、てんかん持ちじゃないかと言われたこともあるよ。医者によっちゃ、トラウマだとか、フラッシュなんちゃらとか、くだらん言葉を使いたがるがな」


 PTSDによるフラッシュバック。戦争帰還者によくある症例だ。

 たぶん、マフユの心は、壊れている──。



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