25
すたすたと、女がやってきた。
非常に化粧が厚く、個性的な顔立ちをしている、年齢不詳の女、という印象。
どこかで見たことがあるような気もするが、思い出せない。
一度見た列車なら忘れないのだが……。
彼女はまっすぐにリョージに近づくと、必要以上に近い間合いに立って、リョージを見上げる。
つぎの瞬間、
「好き」
と言って、彼の肩に顔を埋めた。
ぽかーん、とする同級生たち。
「え? あの、はじめて……」
「好きぃ。結婚して」
女はリョージの身体を抱きしめ、甘えた声で求婚した。
「リョーちんがまたやってるよ……」
「また……?」
「モテるんだからしょうがないよ、なーリョージ」
視線の先、どうしたらいいのかわからないリョージの足元が、ずぶずぶと埋まっていく。
なぜもっと早く気づかなかったのか、気づいてもなぜ行動しなかったのか、できなかったのか、このような結果を逃れる手段はあったのではないか。
さまざまなことを考えるのも、すべては後の祭り。
リョージの身体がさっぱりと見えなくなって、一同はどこか毒気を抜かれたように、茫然としていた。
そうしている間に、つぎの女がやってきた。
彼女はあたりまえのようにやってきて、あたりまえのようにヒナノの横に立った。
「おーとーこーなんて、バブリーシャスー♪」
少女は歌いながら、赤ワインのボトルを乾杯するように掲げる。
「あ、あなたは」
「やあ少年、久しぶり」
ちらりとチューヤを顧みる少女は、銀座の女神、アトロポスだ。
「きょう会ったばかりですけど」
「正確には、きのうだね。時の女神に、時をまちがえたらダメよ」
「だれですか、あなた。わたくし、存じませんわ」
「まあまあ、とりあえず一杯いかが?」
かぐわしいワインの芳香。
アトロポスは、自分の持っていたグラスになみなみと注ぐと、もうひとつのグラスをヒナノにわたした。
本能的に受け取ってしまうヒナノは、ヨーロッパでは「酒豪」と呼ばれているらしい。
「お、お酒はダメだよ、ヒナノン」
「あたりまえです。わたくし、法令は遵守いたします」
「残念、ここは境界だから、日本国の法律は通用しないんだなー。……うちの姉が、ごめんねー」
ごくごくとワインを傾け、うまそうに喉を鳴らすアトロポス。
「姉? もしかして、さっきの」
「クロト姉さんは、とても惚れっぽいの。許してあげてね。たぶん彼、初対面だから」
「そ、そうなのですか」
どこか安堵し、半ば心を許す。
その手のグラスに、アトロポスがどぼどぼとワインを注ぐ。
ヒナノは慌ててグラスのバランスを取りながら、
「ル・パンですか」
「そそ。こいつめは、とんでもないものを盗んでいきましたぞ。私の心です!」
アトロポスは楽しそうに言って、超高級ワインをごくごくと飲み干す。
「品のない飲み方ですね。こういうものは、もっと品よく傾けるものです」
ヒナノはグラスをまわし、手慣れた所作でテイスティングする。
ボルドー・ポムロール地区のシンデレラワインとして有名な、高額ワインだ。
「いいねー、まあ男のことなんか忘れて、ぱーっと飲もうじゃないの」
「いえ、わたくしは……」
「まあまあ、こっちにいいラウンジあるから」
見る間に、姿を消すヒナノとアトロポス。
唖然として、言葉も出ない。
つぎにやってきた、甘ったるい空気。
「やれやれ、姉さんもアトロポスも、困ったものね」
ハッとして声のほうをふりかえれば、もう予想通りとしか言いようがない。
きのう、杉田時計店で見た、お菓子のにおいを漂わせる時の女神、おそらくは、
「ラキシスよ。あなたもいかが?」
ジェリービーンのたっぷりはいった袋を差し出すと、お菓子大好き女の子は本能的に受け取り、頬張った。
「おいしー。チューヤも食べる?」
「甘いのはいいや、俺。……てか、なに落ち着いてお菓子を食ってるのかね!? ちょっとあなた、ええと、ラキシスさん? あなたの姉と妹さん、もしかして、というかあきらかに、俺の友達ふたりを連れ去ってるんですけど!? どういう事情があるかわからないですが、とにかく仲間を返してもらって、それから……」
「あら、このオレオもおいしい。特殊製法かしら。もぐもぐ……」
「ちょっとサアヤ、餌付けされるの早すぎだよ!」
サアヤとラキシスは並んで、ばくばくとお菓子を食べつづける。
──なにかがおかしい。
こんなアホみたいな展開、それも予定調和のように流れていく、この一連の「運命」のごときシーンのつながりは、最初から用意されていた映画のフィルムのようだ。
運命の女神は、予定を調和させる──。
「私たちを、失望させないでね」
ラキシスはそう言いながら、消えた。
……サアヤを連れて。
ぽつねんと、チューヤ。
せきをしても、ひとり。
広大な地下空間。なにもない空間に、自分だけが立ち尽くしている。
だれかの名を呼ぼうとして、思いとどまる。
味方が来るとはかぎらない。むしろ、つぎに用意されているのは、
「いやな予感がする、というか、いやな予感しかしない……」
ふりかえった視線の先から降ってきた、巨大な氷の柱。
ぎりぎりで回避し、地面を転がる。
「邪魔な人間が、片づけてくれる!」
名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
ヘル/死神/30/中世/北欧/散文エッダ/大塚駅前
北欧神話の冥界の女王。その名から英語のHELL(冥界・地獄)が派生したとされる。
一説には、中世の伝説でブリュンヒルデと呼ばれており、「燃え盛るヘル」を意味するその名は、ヴァルキリーたちの首領の名でもあるという。
また古代においては、豊穣とも関連づけられていた。
「ヘル、か。まずい、かな」
これは運命の戦いである、と押しつけられたような気がする。
逆らいようもなく、強い力で。
「いけるのか、俺の力だけで」
いくしかない。
とりあえず現有戦力の最強をかき集めるが、顔ぶれを見て思った最初の感想は、古式ゆかしい、だった。
序盤のパーティをなんとか引っ張って、中盤まで通用するところまで育て上げたが、さすがに現状、力不足を否めない。
──退路を探る。
攻撃を避け、反射的に逃げられそうな道に飛び込んだ瞬間、目のまえにヘルがいる。
まえに進んでいたつもりが、まったく逆を向いている。
「ヘルか? いや……」
方向が転じる一瞬、時の女神の顔がよぎった気がした。
是が非でも戦え、ということらしい。
……なるほど、これは強制戦闘で、逃げる選択肢が最初から存在しない。
当然、ゲームの進行上なら、そういう都合もあるだろう。
「こんなとき、邪教が使えたら」
先週の日曜日、最終的に問題を解決できたのは、邪教の力だった。
悪魔合体という戦略を駆使してこそ、悪魔使いはその力を十全に発揮できる。
邪教を使えない悪魔使いは、片翼をもがれた鳥のようなものだ。
それでも、ないものは使えない。
いつもの通り、弾力的に戦域を展開しながら、なんとか戦線を維持するが、じりじりと削られる。
無理だ、もたない。
ヘルから、強烈な一撃が飛んでくる。
死ぬ──。
その瞬間、視線が泳いだ。
横に立つバステトが、どうするの? という顔で見つめている。
どうせ、そうするんでしょ? という顔にも見える。
チューヤはピクリと指を動かし、それからポケットに入れた。
バステトは驚いたように、チューヤを見つめる。
──この男はイヌガミを犠牲にし、その死体からバステトを合成した。
それ自体、悪魔使いならよくやることであり、非難されるべき点はそれほど多くない。
だが、それは二流の悪魔使いのやることだ。
悪魔の信頼を集める本物の悪魔使いは、可能なかぎり悪魔を犠牲にしない。
それでも自分の命が危険にさらされたら、さすがに別だろう。
──私は、こんどはおまえのために死ねばいいのか。
バステトのなかの狗神が、そう言っているような気がした。
チューヤは薄く笑って、バステトから視線をそらした。
助けてくれなくてもいい。
こんなふうに、悪魔を犠牲にしなければならないとしたら、しょせん俺はここで死ぬ。
なら、さっさと死んで解放してやろう──。
悪魔は最期まで、それを見つめた。
両眼を見開いて、悪魔使いが、悪魔を犠牲にすることなく、みずから致命傷を受けるさまを。
強烈な一撃が、チューヤを貫いた。
致命傷。
チューヤは自覚した。自分の「死」を。
その一瞬、彼の目が見たものは。
「じいちゃん……?」
祖父が、じっとチューヤを見つめている。
最高の仕事をする、貨物の運転士。
鉄道員の幽霊を召喚して、仕事をさせる、というヘルの選択が、チューヤにもたらした連想。
祖父は手元のなにかを見て、指差喚呼している。
三途の川で、こっちへ来るな、とでも言われるのかと思ったが、よもやの指差喚呼とは。
どこまで行ってもぽっぽ屋だな、じいちゃん……。
一瞬、祖父と視線が合う。
そして考える。ぽっぽ屋が最大に尊重するものは、なにか。
安全はもちろんだが、時間だ。
時間──鉄道、時計。
無意識で動いた身体が探ったのは、オーバーホールしたばかりの懐中時計。
祖父の形見であるこの時計が、自分の形見になって、だれかの手に受け継がれていく、という順序を想起したからかもしれない。
かちり、と違和感のある音。
瞬間、時が止まった。




