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池のまえを通りかかったときだった、そいつに襲われたのは。
巨大な顎が、さっきまでチューヤのいた空間を切り裂く。
回避が一瞬遅ければ、肉片になっていた。
「な、なんだ……っ?」
「そろそろ慣れなさいよ。戦場ってこういうものよ。……あらら、セベクちゃん。お久しぶりーって、話せる状態じゃないみたいね」
ピクシーの目のまえ、咆哮する巨大なワニがいる。
──狂乱のセベクが現れた!
話にならない!
悪魔名/種族/レベル(現在)/時代/地域/系統/支配駅
セベク/聖獣/9(?)/紀元前/古代エジプト/ピラミッド・テキスト/大泉学園
チューヤの脳裏に、オートアナライザが起動する。
敵の一般データを表示してくれるが、個別のパラメータはすべてアンノウン。
唯一、参考になるのは初期レベルくらいだが、それも現在レベルが不明では、あまり意味はない。
素早く魔法攻撃の態勢にはいるピクシー。
だがチューヤは、敵の姿を見た瞬間、即座に判断していた。
「に、逃げる!」
エスケープ!
さっき覚えたこの選択肢が、意外に使えることを証明したいかのように。
ピクシーは頬を引きつらせ、
「バカじゃないの? ボス戦で逃げるとか、そんなん成功するわけ……」
チューヤは逃げ出した。
……成功!
「っしゃ! 逃げるぞこの野郎!」
唖然とするピクシー。
「……なんでよ。主人公に弾丸は当たらない補正とか、かかってるわけぇ?」
「それがワニの限界なんだよ!」
高らかに笑うチューヤ。
先週見た大自然系の番組で、こんな話を聞いたのだ。
ワニは30センチの浅瀬にも、その姿を全部潜らせることができる。
あとは獲物が近づくのを待つだけだ。
接近してきた獲物を捕まえれば、目的は達成される。
すさまじい攻撃力を持ち、必殺のデスロールをくらえばひとたまりもなく破壊され、食われるだろう。
とはいえ、ナイルワニの狩りの成功率は30%でしかない。
逆に言えば、7割は失敗する。
なぜか。
陸上を追跡する能力が、ほとんどないからだ。
ここは地上。
池に落ちでもしないかぎり、逃げ切れる。それが、
「自然の摂理!」
「そんなトリビアな理由?」
あっけにとられるピクシー。
だが、これが現実なのだからしかたない。
ボス戦の初戦、回避に成功する主人公。
チューヤは本能的に気づいている。
現状で、あの悪魔に立ち向かうのは無理だと。
「もうひとり、ナカマが欲しい」
「あーね。ほとんどの敵が、なぜか狂乱状態だから、話にならないんだけど。悪魔使いとしては、ナカマ増やすのは定石だよね」
まだ腑に落ちない部分を抱きつつも、半ば納得するピクシー。
なぜそうなっているのかもわからないが、とにかく現状は敵と会話が成立することが、ほとんどない。
だがピクシーとは会話できた以上、完全に無理というわけでもないはずだ。
「さっき、池の向こうに見つけた。話のわかりそうなネコ」
チューヤの言葉に、サアヤは否定的だ。
「ネコー? チューヤ、いくらネコ派でも、このさいネコなんて仲間にしてもさぁ」
が、ピクシーは即座に同意した。
「ああ、ケットシーもいたんだ? そうだね、考えてみればあのネコ、上石神井界隈を縄張りにしてるよね。いい考えかも。……見た目より強いよ、あのネコ」
三法寺池をぐるりとまわりこみ、ネコを見つけたという場所へ向かうチューヤたち。
そのとき子どもの泣き声を耳にしたサアヤが、一同を押しとめる。
「待って、子どもの声。……さっきの子だ!」
池の端、子どもが泣いている。
なにやら赤いものの手を、握りしめて──。
ママー、ママー、ママー……。
状況は明白だ。
悪魔たちに取り囲まれ、母子は餌食にされた。
いまや腕だけになった母親の痕跡にすがりつき、幼児はただ泣くことしかできない。
それでも、あの少年がまだ生き残っていることには、理由がある。
「ケットシー!」
群がる餓鬼の群れを排除して、少年を守っている者がいる。
「助太刀すんのね。なぜかあの子どもを守ろうとしている騎士道精神あふれる猫を、ナカマにするための打算的行為として」
ピクシーの身も蓋もない言いようを、チューヤは慌てて否定する。
「正義感だ、バカ野郎!」
戦場に参集する。
敵は餓鬼の群れでさほど強くはないが、数が多い。
ケットシー一匹で排除するのはむずかしかったが、チューヤたちの数の力によって、ひとまずは追い散らすことに成功する。
落ち着いたところで、ケットシーは地面に片膝をついた。
「かたじけない。貴殿らは命の恩人だ」
吾輩はケットシー、と騎士らしい挙措で自己紹介をする、気高いネコ。
ヨーロッパに伝わる童話にも登場する、有名なこのネコは、帽子をかぶり長靴を履いている。フェンシングの達人であり、前衛に出て先行、効率的な初撃を加える、という性能を期待される──悪魔。
かのネコは、強きをくじき弱くを助く、騎士道精神にあふれた結果として、少年を助けていたのだろうか?
「俺はチューヤ。と、その仲間たち」
「ざっくりした紹介だなおい」
「その子は?」
泣きじゃくっていた幼児を、いまはサアヤがその手に抱いて慰めている。
ケットシーは、その様子を感慨深げに眺めながら、
「……吾輩の同位体であるネコを、この少年は死ぬまで大切に、かわいがってくれた。守らぬわけにはいかぬ。たとえこの身が滅びようとも」
ピクシーは納得したようにうなずいた。
「そういうことね。まあ、こちら側とあちら側は、意外なところでつながっているからね」
サアヤも感心して、
「立派な猫ちんだー」
チューヤは周囲を見まわしながら、
「それに比べてサアヤの飼い犬ケルベロスはなんだよ? どこぞに消えたきり、さっぱり姿を現さん」
「飼ってません。無事でいてくれたらいいけど」
「もう食われてるだろ」
「チューヤのバカ!」
いつも通りの夫婦漫才を聞きとがめて、割り込むピクシー。
「てかさ、そのレベルでケルベロスって、ある? 最強レベルの魔獣だけど」
「いや、ケルベロスはただの名前。じっさいは野良ポメラニアンだよ」
「あーね。そりゃそーか」
ケットシーは、静かにチューヤに歩み寄ると、改めて膝をつく。
「騎士として、あなたに従う。あなたは私の恩人だ。あなたが必要とするかぎり」
「こちらこそ、頼む。いっしょに戦おう」
ネコ派のチューヤが、こうしてケットシーと出会うのは運命の必然であるかのようだった。
「これで、戦える? セベクと」
「……なに? サレオスではないのか?」
ピクシーの言葉を聞きとがめて、ケットシーが問い返す。
「だよね。あたしも最初はそうだと思ったんだけど、さっき現れたのは正気を失ったセベクだったよ?」
「石神井公園はサレオスの領土であるはずだが、大泉学園のセベクも近いからな。大事をまえに領土争いをしている場合でもあるまいと、さしあたって共同管理的な取り扱いとは聞いていたが」
悪魔たちの会話を、チューヤは黙って聞くしかない。
「ワニつながりで、仲良くやってるものとばかり思っていたよ」
「いや、聖獣と堕天使で仲良くはなれぬであろうが」
「聖獣らしくはないよね、現状」
ここで、悪魔たちの会話に、一応はリーダーのチューヤが割ってはいる。
「ちょい待っておくれでないか? 石神井公園とか、大泉学園とか、それ駅のこと?」
「なにをいまさら。こちら側のゲームも、同じ設定で動いておろうが」
ケットシーの口から「ゲーム」という単語が出てくるに及んで、いくつかの事実を整理しなければならない段階だと認める。
チューヤはこめかみを押さえながら、錯綜しかける情報の整理を試みた。
「ゲーム? 『デビル豪』のこと? そっち側にもあるの?」
「あたしは知らなーい。ゲームとか興味ないしぃ」
首を振るピクシー。
「吾輩も詳しいわけではないが、少年が、デビル豪ごゴー! と、しょっちゅう言っていたものでな」
その少年は泣き疲れたのか、サアヤの腕のなかで静かな寝息を立てている。
「待って。おまえらの言う〝侵食〟って、こっち側でふつうに遊ばれてるゲームと、けっこうリンクとかしてんの?」
「そのゲームに、いかようなストーリーがあるのかは知らぬが、悪魔の配置はかなり現実を模していると聞いた。むしろ悪魔のだれかが、そのゲームをつくったのではないか、とさえ言われている」
チューヤは何気なく、電波のつながらないスマホを見つめる。
「いや、デビル豪はソーシャルゲームだから、ストーリーというストーリーはないんだよ。各駅に配置されている悪魔を集めて、強くして、だれかと戦わせて遊ぶ、ってだけの。一種の位置ゲーではあるかな」
ケットシーはひとつうなずき、
「ならば、その設定だけを、どこかから嗅ぎ取ってゲーム化したのであろう。吾輩の縄張りは、上石神井駅周辺である」
「あたしたちは西荻窪だね」
スマホを取り出すまでもなく、チューヤのゲーム認識とリンクする部分が多い。
「大泉学園にセベク、石神井公園にサレオス……。たしかに、ゲームと同じだ」
「ねえねえ、チューヤ。そのゲームさ、なんで駅なんかに悪魔を置いてるの? ってまえから気になってたんだけど」
サアヤの声にふりかえり、
「いや、俺はただ鉄ヲタを取り込むための単なるマーケティングの一種だとしか思ってなかったけど」
すると、ピクシーたちは大仰に肩をすくめ、あきれたような声を出す。
「はあ? バカじゃないの、あんたら。あらゆる悪魔が、先を争って〝駅〟という〝場〟を支配したがっている。理由は明白よ。むしろ、駅以外を支配する意味がわかんない。悪魔が欲しいのは、なに? 人間の魂、生命エネルギー、激しい感情、生体エキゾタイトでしょ。人間がいないような場所を支配して、どんな意味があるっての?」
悪魔は人が集まるところに位置して、そこにいる人間たちから、なにかを奪い取る。
そうして生きている「概念」なのだ、と理解するところから、チューヤは自分の悪魔学入門情報を更新していくことにした。
要するに「駅」は、悪魔にとって効率のいい「餌場」ということか。
「そ、そうか。なるほど、そりゃそうかもしれないが、だったらもっと悪魔に親和性の高い宗教施設とか、学校とか、ホールとか、いろいろあるだろ」
「悪魔に親和性の高い宗教って怖くね……?」
ぼそっ、と突っ込みを入れるサアヤ。
ピクシーはうなずきつつ、
「もちろんそれもアリだけど、最近の人間はお盆とか年末年始とかしか、まともにお参りしないでしょ。学校は決まり切ったメンツのうえに土日休みだし、ホールのイベントとかは平日が閑散だし。
もっと日常的、効率的、量的に豊富な生体エキゾタイトを集めたいとしたら、どうする? ねえ、駅ってなに? 人が通るところ、人が集まるところ、さまざまな人間の魂と感情が交錯するところでしょ? そこを支配せずして、人間界を支配したとは、とうてい言えないわよね?」
理屈としては筋が通っている、と言えないこともない。
たしかに、駅は人間が集まる場所だ。
それに、同じ場所に静かにとどまっているより、移動中のほうが、多かれ少なかれ感情は起伏しやすい。
じっさい変な人、おかしな状況を見つける確率が高いのは、駅の周辺が多かったりもする。
感情の「動き」をエネルギーとして吸い取る、というのが悪魔の目的であれば、やはり真っ先に支配すべきは移動の拠点、すなわち駅、ということか。
あらゆる駅で待ち構え、ぱっくりと口を開けて、その構(口)内に人間を飲み込んでいく悪魔たち。
その姿、なんと想像しやすいのだろう。
「悪魔の、エサ場」
そんなものをありがたがって、必死にゲームを進めていた、ということか。
……じつにおもしろい。
「なに笑ってんの、チューヤ」
「いや、いろいろ腑に落ちたというか、なるほどなあ、と。そりゃそうだよな。俺が悪魔を使役するように、悪魔だって、なんらかのメリットがないと集まりゃしないよな」
ピクシーはすこし驚きつつも、納得の表情。
「物分かりいいね。だからこそサモナー体質なのかもしんないけど」
「ふん、ただの鉄ヲタきっかけではじめただけのくせに。悪魔の口車に乗せられるバカちんチューヤ!」
「うっせ、サアヤうっせ」
放っておくと夫婦喧嘩を始めるふたり。
「問題は、これはゲームではない、ということだ」
まじめな口調で言い放つケットシー。
このぬこ、真摯な狂言まわしの役割を任せて安心だな、とチューヤは思った。
「でもチューヤなら、大丈夫だと思うよ。そーとー強いからねぇ」
「たしかに、そのことは吾輩も存じおる。四倍体などという悪魔使い、聞いたこともない」
悪魔たちにとって、とりあえずあちら側のチューヤは、尊敬に値する強さを持っているらしい。
だん、と手近の壊れかけた手すりをたたきながら、チューヤは断固とした口調で、
「だから、なに! その四倍体って、なに!」
「ああ、そうだっけ」
肩をすくめるピクシーに、ケットシーがいぶかしげに問いかける。
「どういうことだ。有名な西荻の悪魔使いだからこそ、おぬしは行動を共にしておるのだろう?」
「最初はそうだと思ったんだけどねえ。あんたと同じ、チューヤの同位体もこっち側にいたらしいよ。じっさい、ナノマシン持ってなかったし」
ケットシーは驚きの表情でチューヤを見つめた。
「……なんと。このチューヤ殿は、あのチューヤ殿ではないのか。生まれも育ちもこちら側の同位体であると。そのようなことが、よもや度重なってありうるものであろうか」
「あろうかって言われても、あるんだからしゃーないわ」
再び、だん! と手すりをたたくと、壊れた木枠がそのまま池にぼちゃん、と落ちた。
いっしょに落ちそうになったチューヤは、慌てて陸にもどりながら、
「だからなに! 四倍体って!」
ピクシーはやれやれと肩をすくめ、
「あんたの遺伝子のことよ、チューヤ」
それはチューヤの出生にもかかわる秘密──。