精霊の祠
その小さな祠の隣には、美しく澄んだ泉がある。風が凪ぎ泉の水面のさざ波が静まれば、水底まではっきりと見ることができる、美しい泉。
その泉のなかに命の息吹はなく、ただひたすらに静寂が支配する空間がある。飲めない水な訳ではない。ただ昔から、ここには精霊か住まうのだと伝えられている。
この神秘の場所は山道から少し離れた場所にあるものの、この近くを通るときには必ず立ち寄るようにしている。
「健やかなる旅路に精霊の祝福を」
まだ幼い頃、この場所を訪れる人達と顔を合わせることもよくあったが、ここ数年は殆ど人を見掛けなくなった。
「父さん、今日中に町に入りたいんだ。早く出発しよう」
「待て、祠の浄めをしてからだ」
私の息子も信仰心など殆ど持っていない。だがそれも仕方あるまい。年々精霊の加護や魔法の存在は不確かなものとなり、今の若い世代は殆どそれらを見たことがない。
私自身、これまでの人生で奇跡を見たのはたった一度きりだ。しかしそれだけでも信仰心を捧げるに足る奇跡であった。
「父さん・・」
困惑と不安、そんな表情を浮かべた息子の視線の先へ目をやれば、まるで空間が渦を巻くかのように歪んでいる。
「な、なんだ?」
「わからん、だが普通じゃない」
逃げよう、そう言葉にする前に急速に渦は終息しそしてチカチカと七色の光を発し、霧散するように消えた。と思えば、そこには人の姿があった。少女だ。
少女は歩けないはずの水面の上を数歩歩くと、力なく座り込み、ゆっくりと後ろ向きに倒れた。水面の上にあった体が浮力を失ったのか、少し沈んだのが分かった。
泉へ入ろうとして息子に止められる。
「何をするつもりだ?」
「あのままにはしておけん」
「あんな訳の分からないもの、関わらない方がいい」
「大丈夫だ」
あれは奇跡の光だ。一度だけ見た、あの奇跡と同じ輝き。
父の信仰の深さを知る息子はため息を深く長く吐くと言葉を紡ぐ。
「・・俺が行く」
泉の温度は低い。年を重ねた父には少し厳しい水温だ。
遠目から見れば、ただの少女。だが不思議な現象で突然現れた正体不明の存在だ。
出現した瞬間を見なければ、本当にただの行き倒れの少女にしか見えない。否、居る場所を考えれば自殺をしようとしているようにも見える。これは本当に生きているのか。
「・・・っ」
その体に触れる一瞬、無意識に体が強張る。




