特別のない世界で
もしこことは違う別の世界に行けたなら、私はきっと特別な人になれるんだ。そんな都合の良い事ばかり妄想しては、現実から目をそらしていた。
その日私はあるはずの地面を失い、暗闇にのまれた。有り得ない現象に戸惑う間もなく訪れたのは生温い液体が体に纏わり付く感覚と溺れ死ぬかもしれないという恐怖。恐ろしさに必死に手を伸ばせばひんやりとした空気が液体を冷やす。この方向に空気があるのだと藻掻き足掻けば、呆れたような声が耳に響いた。
「・・またか」
「ゲホッガハッ、ゲェッ!」
声は聞こえても驚きで飲み込みかけた液体を吐いて苦しく返事が出来ない。トロミのある液体が鼻の穴に入ってしまい、酷く痛い。鼻をかみたいけれども人前なのであればみっともない事をするのは恥ずかしい。しかし鼻から喉にかけて液体を吸い込んでしまったらしく、酷く息苦しい。背に腹はかえられない。諦めて鼻をかんでしまおう。そう決めたものの、直ぐに手荷物がない事に気が付く。そして次に服さえ着ていない事を知る。諦めようか一瞬迷ったものの、鼻の痛みに耐えきれずに素手で鼻をかんだ。
ああ、最悪だ。
「落ち着いたならこれで顔を拭いてあっちで風呂に入れ」
そうやって渡されたのは、タオルかと思いきやただの布だった。それでも拭ける事は有り難かったので、端っこで手を拭いて、真ん中辺りで顔を拭いた。
男が指差した先には猫足の浴槽があって、何やら最新型の追い焚き機みたいなものがくっついていた。
「そのタオルは体を洗うのに使え。無闇に物を触るなよ」
「ば、ばい・・」
鼻が痛いのと、喉あたりにまだ液体が残っているような感覚があって上手く声が出ない。
男は何も気にしてはいないようだが、私は裸で女だ。一応浴槽の所には衝立も用意されているが小さいので心許ない。このままここに居続けるつもりなのだろうが。
そんな視線が伝わったのか、男は大きな溜息を吐いて言葉を続ける。
「ここに配置されるのはゲイだ。お前の裸に興味は無い。さっさとしろ」
「・・・」
それが本当かどうかはさておき、興味がないのは本当だろう。声に苛立ちが含まれているのを隠そうともしていない。ここは素直に動いた方が良いだろう。頷いて恭順を示して直ぐにお風呂へと向かう。
「その液体は水に溶ける。洗わずそのまま入れ。横についている遺物の作用で湯も汚れないように出来てる」
最低限の説明で終わらせたいのだろう。短い言葉で要点を伝えてくる。疑心暗鬼で湯の中に入れば、体に纏わり付いているとろみのある液体がサラリと溶けた。それなりに汚れると思った湯は変わらず綺麗なままだった。男の言う通り、本当に汚れない水なのだ。確認できたところで頭まで湯に浸かり隅々まで綺麗に撫でるように洗う。
「液体を落としたら石鹸で全身を綺麗にしろ。泡は湯の中ですすげよ?」
心情的には外で流したいが、このお風呂の原理上そうする方が理にかなっている。




