音の狭間で
漣の音が聞こえる。
懐かしい音。ここ何年か、この心地良い音を耳にする事はなかった。聞こえるのは人のざわめきばかりで、いつもどこかに逃げ出したかった。
『ねえ、聞いてる?』
「聞いてる聞いてる。大丈夫だって、ちゃんと考えてるよ。老後まで」
『でも結婚しないんでしょ?就職もしてないし、ずっとバイトで生活していけるの?』
「まあ、あんまり欲しいものないし、貯金も少しずつは出来てるし、大丈夫だって」
『お姉ちゃんの将来が凄く心配なんだよ?ずっとバイトじゃ、生活できなくなるんじゃないの』
「今は正社員も終身雇用じゃないし、そもそも転職のし過ぎて就職できてもブラックばっかだったからね、下手なとこ就職するくらいなら、責任もサービス残業もないバイトのがマシなのよ」
『またそんなこと言ってる、老後とか絶対大変になるんだよ!』
「まあ、何かしらのバイトはあるよ。それもなくなったら生活保護かもだけど、コンビニ、スーパー、娯楽施設って色々あるし、バイトはなくなんないよ」
『ずっと働ける訳じゃないんだよ?』
「まあ、それまでに安楽死が合法化してはもらいたいね。ていうか、そもそも結婚しない確率が高いってだけで、絶対しないって訳じゃないからね!案外あっさり結婚するかもだし、そんな気にしなくていーよ」
笑い話にしてしまえば、納得はしてなくてもそれ以上の追求はやめた。まだ未確定の他人の未来など、心配するだけ無駄だ。
「それよりそっちはどうなのよ。家、買ったんでしょ。おめでと〜、凄いじゃん!」
『ありがと、ちょっと田舎の方にはなるんだけどね』
「買うなら都会の狭い家より田舎の広い家でしょ、庭もあるみたいだし、素敵じゃん」
『うん、引っ越しが楽しみなの』
家族が嫌いな訳じゃない。年に一度は顔を合わせるし、年に4回位は電話もする。月に一度はメッセージのやりとりもある。ただ私は面倒くさがりで、筆不精で、基本的に一人が好きなだけなのだ。
電話が終わると、長く深い息を吐く。
「私も、引っ越し準備しなきゃなぁ」
電車で痴漢にあって、満員電車が嫌いになって、男に近付くのが嫌になって、人混みが嫌いになって、東京に嫌気が差した。
中年になる位までは東京で働くつもりだったのに、結局今は東京から逃げる準備をしている。一人暮らしの為に買い揃えた家具家電は全て売るか譲るかして、スーツケースとリュックに入るだけの荷物を入れて旅をしながら働くつもりだ。
住民票は実家に戻して、行政からの書類は実家に届くようにする。時々身内なんていなければもっと自由に生きるのにと思うけど、こういう時は実家があって良かったとも思う。そしてそんな風に考える自分は薄情なのか、それとも誰だってそういう風に思う事もあるものなのかもと考える。
そしてそんな事を聞けるような親しい友人もいない事に、自分はなんてさみしい奴なんだと思ったりしつつも、他人との距離があるからこそ、こんなにも縛られずに未練なく旅立つ事が出来るのだとも思う。
「あ、連絡来てる」
スマホのフリマアプリに通知が来ている。引っ越すにあたって、家まで受け取りに来る人限定で格安で家具家電を出品したのだ。まとめ買いで更に安くするという売出しだ。
思っていたよりずっと反応は良い。
「僥倖僥倖!」
受け取りの日にちは引っ越しの数日前。リサイクルショップの出張買取に来てもらっても良いのだが、業者は基本的に嫌いだ。あまりいい思い出がない。だからと言って個人が良いのかと言えばそうとも限らないが、業者に安く買い叩かれて高くで売られるより、個人に安くで売った方が個人的に気持ちが良いというだけだ。
「服も売れば良かったかなぁ」
ブランドものを買わないから、服はスーツケースに入る分以外は全て捨ててしまった。数回しか着ていない服も多かったので、捨てた後に安くで売るかタダで譲るかすれば良かったかもしれないと思った。かなり資源の無駄だった。
「家かぁ」
まだ学生だった頃は、まさか自分が地元から離れるとは思ってもいなかった。寧ろ実家から出ることも考えた事さえなかった。多分それは親に依存してたし、甘えていたのだ。
今が大人になったとは思っていないが、それでも昔の自分に比べれば随分と物事を考えるようになったし、自分の力で生活できてはいる。多分それでも自分には甘いけど、昔よりは多少はマシになっているのだろう。
今回東京を出る事は言っていない。ついでに言うと地元に立ち寄る事も言ってない。役場で住民票と保険証の手続きを済ませて、気が向いたら実家に立ち寄る程度だ。保険証は実家に届くだろうから、それを受け取るために実家に寄った時に誰もいなければ、そのまま次の目的地に旅立つ予定だ。迎えはいらない。レンタカーを借りるからだ。
本当はちゃんと会ったほうが良いのは分かっている。家族は私が何をしているのかいまいち良く分かっていない。単発の仕事が多い上に、地元にはない仕事だから、想像が出来ないのだろう。だから余計に心配する。
安心させるつもりなら、正社員でもバイトでも、長期雇用のものを探すべきではあるのだ。でもそれが私には出来ない。ずっと同じ仕事をしていると、半年位で逃げたくなる。
多分、それは私の悪い癖。
誰も私を知らない場所へ。
数日暮らすだけで、そんな環境はすぐなくなってしまうのに、私は何度もそれを求める。馬鹿みたい。自分を記憶している人から逃げる。
適当に知り合って、適当に取り繕って、適当に付き合って、あまりの適当さに申し訳なくなって、そんな自分を覚えていて欲しくなくて、そんな自分が惨めで見ていたくなくて、嫌になって、全て投げ出して何もかも捨てて逃げる。
それにはちょっとだけ、家族も含まれていて、それが時々さみしいような気がして、いっそ苗字さえも捨てて名前だけになりたくなって、でも結局常識の檻に縛られて踏みとどまる。
だって私は苦労がしたい訳ではないのだ。ただぬるま湯の水槽の中で、誰にも咎められずに好きにしていたいのだ。
本当は自分でも良く分からない。ただそんな衝動に突き動かされて、私はそこから逃げ出す。
逃げた先に何もないのは分かっていても、多分期待しているのだ。今度こそ何かを見つける事ができるかもしれないと、期待しているのだ。
漣の音が聞こえる。
地元の海とは違う、貝殻が、珊瑚が細かく砕けてできた、あの白い砂浜の波打ち際の、透き通る様な美しい音。
私は、何をしていたんだっけ。
波打ち際で仰向けに寝転んでいるのはどうしてだろうか。燦々(さんさん)と照りつける太陽が肌を焼く。それを和らげるように、足元から波が体を冷ましてくれる。
「気持ちい・・」
のそりと起き上がれば、水に濡れた服が肌に張り付く。体のすぐ横には半分水に浸かったスーツケースと、その上で水没を免れているリュックサックと手持ちカバン。
「うわっ」
慌てて立ち上がりスーツケースにリュックとカバンを救出する。が、ヒールが砂に沈むので歩き難い。歩く度に靴の中に溜まった水が音を立てて溢れる。
「うへ〜、これ革靴なのに、海水って、大丈夫なのかな、うわ〜」
スーツケースのローラーも砂の上では全く役に立たない。だからと言って、結構な重量のあるスーツケースを抱えるのはちょっと辛い。持ち上げては前に振って落として、少しずつ運ぶ。
引き潮だったらしく、砂浜は水気を吸っていて硬く平らだ。乾いて波打っている砂浜を暫く進み、スーツケースを横にして開く。
中に余計な水分を落とさないように気を付けながらタオルを取り出し頭と手と上半身を拭いて、それから中身が濡れていないか確かめる。
「良かった〜、濡れてない」
中にはタブレットやパソコンも入れていたので濡れてなくて良かった。樹脂製とはいえチャック部分は布製だし、水に浸かれば普通に浸水する。隅々まで触ってみても、どこも濡れていない。
このスーツケースにはお気に入りの大事なものしか入っていないのだ。海水で駄目になったらそれなりに落ち込む。
スーツケースの無事を確認したら次は靴だ。薄い色合いの革のブーティーで、デザインも気に入っていてどの季節に履いていても違和感がないと思って、靴らしい靴はこれしか持ってこなかったから駄目になると困る。
今は砂浜だからスーツケースの端に入れていたビーチサンダルに履き替える。
「革が海水に浸かった時の対応、検索すれば出てくるかな・・」
スマホを取り出しキーワードを入力している途中で、表示が圏外になっている事に気付く。
「うわっ、もー!」
取りあえずタオルで水気を吸い取る。本当は真水で洗い流したいが、飲料水はそんなに多くない。
吹き終わって天日に干して、漸く一息つく。
「・・・ここ、どこだろ」
天然のキャンパスである白い砂浜には、私の残した足跡しかなく、目視できる範囲に人工物はないように見える。
「船が難破したにしては、荷物はきっちりあるし、そもそも船乗った記憶がない、かも?」
船に乗る予定ではあった。だが船着場に行った記憶もなければ、チケットを買った記憶もない。そもそも、実家には帰っただろうか。
地元に帰るために飛行機のチケットを予約した事は覚えている。はて、搭乗手続きは済ませただろうか。
「事故の衝撃で記憶喪失とか?まさか私が?」
そんな映画のような出来事が現実に有り得るのだろうか。
残念ながら、湧き上がる疑問を解決してくれるものは見当たらない。諦めて何かしら行動するしかないのだ。
「取りあえず、着替えて、寝床確保かな?」
幸いにも引っ越しの時に捨てるか送るか持ち歩くかで悩んで、結局持ち歩くことに決めた非常持ち出し袋を荷物に入れている。賞味期限5年の非常食や買い揃えた品々は捨てるに偲びなかったのだ。
「こんな事ならキャンピングチェアも持ってくるべきだったなぁ」
サイズ的にキャリーに入らなかったのだ。非常時はあれがあれば睡眠確保が容易だと思っての購入だったが、結局使う事もなく売ってしまった。キャンピングチェアがなくとも、エアマットやエア枕にピクニックシートもあるので比較的良質な寝床にはなりそうだ。
それにしても非常持ち出し袋を入れていて良かった。これには十徳ナイフも入っているし、虫除けも救急セットも裁縫セットも入っている。パニックにならないのは備えがあったからだ。
「ナイフは小さいけど、まあ、無いよりはね。え〜と、まずは日焼けしないように着替えて、そしたら薪の確保、かな?」
寝床の準備は戻ってきてからだ。こういう場所は夜が冷え込む。薪の確保は必要だろう。しかし日焼けを甘く見ていると痛みで動けなくもなるし、何より脱水症状の懸念が高まる。
ああ、そうだ。水も確保しなくては。
水の確保は水気を含む層まで砂場を掘って、真ん中に入れ物を置いて、その上に入れ物に当たらないようビニールシートを広げて固定して、ビニールシートに付く水滴が鍋に落ちるように重石を乗せるんだったよね。確かビニールシートは冷たい方が良かった筈だから、重石と水を入れた方が良いんだよね。太陽光で水は温まるだろうけど、温まった分は蒸発しそうだし、そのまま入れても大丈夫かな?
荷物は一番砂浜に近くて数本木々が生えている場所にまとめて置く。そして薪を拾いに行く前に、ササッと水を確保する為の場所を作ってしまう。これで一度は失敗しても焦らずに済む。
「出来れば手前で済ませたいな」
こういう所で気を付けなくてはいけないものは虫だ。蚊はマラリアの媒介だし、噛まれたり刺されるのも嫌だし、毒を持っている虫も多い。それに藪の中は蛇とかいても気付き難い。
対処仕切れる自信がない。
カバンを斜め掛けにして、中には水やいくつか使えそうな道具を入れ、手には仕舞った状態のナイフを持つ。いざという時に直ぐに使えるようにだ。
森と砂浜の境目を歩き続けていると、幸いにも流木や枯れ木をそれなりに見つける事が出来た。帰り際に拾う予定で砂浜側に寄せる。途中でいい感じに硬くて軽くて、比較的真っ直ぐな棒を手に入れた。生身で触りたくない場所を突くのにもってこいだ。
探索では沢山の丈夫な蔦と細かい流木や枯れ木、大きめの流木とヤシの木の葉など含めた数種類の葉っぱを回収した。荷物を置いた場所の木々の間に寝床を作るためだ。最初はハンモックにしようかと思ったのだが、それよりも木で椅子にもなる高さに寝床を作る方が現実的だと思ったのだ。
生えている木も利用して流木などを丈夫な蔦で何重にも巻いて固定していく。工作は好きだ。上に乗っても崩れないか確認しながら木材を組み立てていく。楽しい。
完成した土台は多少デコボコしているが、拾ったモンステラの葉を敷き詰めればエアマットに穴が開くこともないだろう。ヤシの葉は編み込んで壁に利用するつもりなのだが、もう随分と日が傾いている。先に火起こしをした方が良いだろう。
寝床には使えないくらいに小さな木々や脆い木々を組み上げる。火をつける前に竈を作る事を思い立つ。忘れていた。海辺はそれなりに風が強い。竈は必要だろう。今日はもうそんなに時間がない。そこまで立派な竈でなくても良いだろう。組み立てた木々を崩して、砂浜を少し掘る。幅を決めたらそこを大きめの石で軽く囲んだ。今日はこれで良いだろう。
拾っていた枯れた松の葉を燃焼材に、焚き火を始める。
「明日は、食料も探さなきゃ」
非常食は一日一食にすれば一月分はある。ただ水分は1リットルもない。雨でも降ってくれれば良いのだが、それでも溜められる量は限られている。
「あ、でもスーツケースに溜めれば結構な量確保できるかも・・」
中身を出す為にもやっぱりある程度家を優先するべきか。とりあえず、服も汚れないような置き場所を葉っぱとかで作って、スーツケースはなるべく早く空にしよう。




