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【-9-】

 右耳の聴力については、ほぼ回復したと言っても良いが、後遺症とも言うべき耳鳴りは残ってしまった。

 僕はこの耳鳴りに苦しみ、外部との関わりを完全に断ち切っていた。携帯電話に入る大学時代の友達からのメールを完全に無視し、バッテリーが無くなっても部屋の隅に放置したまま、ずっとずっと孤独の中で生きていた。

 両親にも当たり散らした。「この耳鳴りの辛さが分かるわけない」と自分でも驚くくらい大きな声で言って、布団の中で、顔を枕に押し付けて大声で叫ぶこともあった。


 心が狭くなっていた。同時に心が壊れて行くような感覚さえ覚えた。いつぞやにあった不安感、そして離人感が体を支配し、食欲も減退した。たまに外に出掛けた際には、振り切ったはずの赤の他人に見られているのではという被害妄想も復活し、益々、家の中でしか活動しなくなった。


 正月になり、初詣に行くことになった。正直なところ、大きな声、騒音が聞こえる場所に長時間居ると耳鳴りが酷くなるので、常に静かさが傍にある家の中に居たかったのだが、毎年の家族での時間を無碍には出来ないため、仕方無しだった。神社でのお参りを終えたあと、両親にはベビーカステラを買って先に帰ってもらった。

 なんとなく、その日は清々しかったのだ。恐らくは久し振りに外出したことで鬱々としていた気が晴れたような気がしたのだろう。だから多少、耳鳴りが酷くなっても構わないという気持ちで、神社にあったベンチに腰掛けて、参拝客の列をボーッと眺めていた。


 参拝客の列に作られた僅かな隙間に見えた絵馬が気になり、列を乱すことの無いように大きく遠回りをして反対側に回り、掛けられている絵馬を眺めた。


 『高校に受かりますように』、『大学に受かりますように』。あとは『関係が上手く行きますように』。『告白が成功しますように』。学問の神様を祀ってはいないし、縁結びの神社ではないのだが、ありとあらゆる内容の絵馬が掛けられていて、そこにある願いの量が、その強さが、壊れ掛けていた心に沁み込んで行くのが分かった。


 そして僕は見つけてしまった。


 『どんな人生であっても、頑張って生きる。恵まれていると思えるように』。


 名前は書かれていなかった。それじゃ絵馬として効果があるのかどうか分からないが、そこにある文字に、僕は生きている証である、脈打つ心臓を確かめるかのように左胸を片手でギュッと掴みながら、車椅子の少女を思い出していた。この絵馬を書いたのが少女であるという確証は全く無かったが、その文字が僕を再び揺り動かした。


「いつもそうだ。いつもそうやって、先回りしているんだ……」


 苦しい時、辛い時、いつも車椅子の少女を思い出す。思い出すような事や物がある。


 会いたかった。ただ無性に、会いたかった。

 僕は恋い焦がれていた。恐らく、初めて車椅子の少女に声を掛けられた、あの日から。

 気付くのがあまりにも、遅かったけれど。


 僕は急いで家に帰り、まず放り出したままで埃を被っていた携帯電話を充電し、電源を入れた。途端、メールの着信を告げるバイブレーションが起こり、受信ボックスには僕を心配する友達のメールが大量に送られ続けていた。

 まだ忘れられていない。まだ、切り捨てられていない。そのありがたさを胸に秘めながら、僕は震える指で文章を打ち、嫌われるんじゃないかと思いながら片手で数えられてしまうくらいの数人だけの友達に、返信した。


 結果、僕は許された。むしろ安心された。そして、顔を合わせて食事をする事になった。


 一人は定職に就くことが出来たらしい。けれど、二人はまだ一向に仕事には有り付けていない様子だった。僕もまた、無職であったことを話し、ほぼニートであったことを打ち明けた。それを非難されることはなく、「飲もう飲もう」と言われ、途切れかけていた関係を陽気に再び繋ぎ直すことが出来た。


 間違いなくこれは、車椅子の少女のおかげだった。絵馬もそうだが、高校生の夏休みに、少女と会っていなければ僕はここで、力尽きていただろう。関係を繋ぎ直すこともできず、孤独に苦しみ、耳鳴りに一人だけで立ち向かい続ける人生に、諦めかけていただろう。


 けれど、そうはならなかった。


 たった一人が、昔に出会ったたった一人が、僕に再び人生を歩くチャンスを与えてくれた。未だ無職だ。けれど、死のうと思っていた日々が、少しずつ明るくなった。ようやく僕は、高校生の頃から持っていたクソみたいなプライドをここで捨て去ることが出来た。


 後日、両親と話をした。後遺症の耳鳴りのこと、『突発性難聴』で入院したことがトラウマであること、自身の健康状態が少しでも崩れていると、すぐに不安になってしまうこと、食欲が湧かないこと、なにもかもを打ち明けた。

 そしてその話の最後に、時間は掛かるだろうけれど絶対に仕事はする、と二人の目を見て、前を向いて、伝えた。両親は胸を撫で下ろし、「傍に居てくれるだけで私たちは幸せだから」と母親は言った。それがたとえ、僕の心を安定させるための嘘であったとしても、その優しい嘘に傷付くことなんてあるわけがない。僕は「ありがとう」と言って、部屋に戻った。


 会いたい想いは更に強くなる。

 大学入試のあの時、声を掛けることが出来ていたならば。

 そのように後悔するようになった。


 全ての人に初恋があると言うのならば、間違いなく僕は、その初恋に、悩まされていたのだった。

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