【-4-】
車椅子の少女と出会った次の日、そしてその次の日も高校の補講を受けた。そして更に次の日――出会ってから三日目は生憎の雨だった。
図書館カードの発行の申請書と備え付けのボールペンを渡したあとは、特に滞りが無い様子であったので、「僕はこれで」と小さく呟いて、足早に推理小説を元の棚に戻し、図書館を出た。人に話し掛けられた場所で落ち着いて時間は潰せるわけがない。それどころか、僕をただの扱いやすい相手と受け取られ、色々と頼まれてはたまらない。だからその日は駅近くにあったファーストフード店でハンバーガーを食し、ゲームショップと書店を歩き回り、午後二時に帰宅した。
あのあと、車椅子の少女がどうなったかは知らないが、恐らくは僕が居なくなったことに気付いても、また別の誰かに手助けを求めたに違いない。
僕とは違い、車椅子の少女には物怖じせず、知らない人に声を掛ける勇気がある。そんな、強い心の持ち主に、僕は不釣り合いだ。
そのように、イジメというものに遭いながらも、自身の環境に酔っていた。ネットスラングから世間一般に知られるようになった『中二病』の時期は、僕にも等しく訪れていたということだ。
なんとなく、そう、本当になんとなくなのだが僕はこの日、図書館に向かった。母親にはぶっきらぼうに「出掛けて来る、お昼は要らない」と言い、そそくさと家をあとにした。
雨は朝方ほどの強さを薄めてはいたが、弱くシトシトと降っていたので傘を差し、水溜まりを避けながら、坂を下って行った。図書館に着き、まず靴の湿気をシートで拭き取り、続いて閉じた傘をビニールに突っ込み、雨水や湿気から出来る限り本を守るように努めつつ、推理小説の棚を見てから、読書スペースに向かった。
そこに車椅子の少女は居なかった。なにかを期待していたかのように、深い溜め息を落としたことを憶えている。そして同時に、振り返った時の僅かに鼓動が強く跳ね上がった驚きも。
「また会いましたね、柳井さん」
朗らかな微笑みを携えながら、車椅子の少女は僕の後ろに居た。
「柳……井?」
「違いましたか? この前、見せてもらった図書館カードにはそう書かれていましたけれど」
この前、というのは車椅子の少女と初めて出会った時のことだろう。確かにあの時、図書館の閉館時間を教える時に自身の図書館カードを取り出して見せた。その時、名前を見られてしまったのだろう。
「合っています……けど」
「この前は途中で居なくなったので、どうしたんだろうと思いました」
「……別に、それは……僕の、勝手です。頼まれれば断らないことを、利用して、パシリみたいにされるのは、嫌です、から」
「あ……あー、そういう風に思われちゃいましたか。気を悪くされたんですね……御免なさい、反省します」
謝らせる気は無かったのに、謝られてしまった。
「気を付けるようにします。それで、柳井さんは今日はどうして図書館に?」
「なんとなく、ですけど」
「それは奇遇ですね。私もなんとなくです」
「あれから毎日、来ているんじゃ?」
「いえ、二日ほどリハビリがあって、今日は気晴らしに外へ。それで、ここに。けれど、雨の日はなかなか大変でした。割と近いんですが、バスを使ってしまいました」
偶然の一致ではあったが、僕はそれを運命と感じ取れるだけのロマンを抱えてはいなかった。この時、僕はまた面倒な事になったと考えていたはずだ。折角、時間を潰しに図書館に来ているというのに、車椅子の少女のせいで立ち去らなければならなくなった。そう思って、踵を返して図書館を出ようとしたところで「すみません」と声を掛けられた。
「ひょっとして、避けられてます?」
「あっ、いえ……そういう、ことでは、なくて」
どんな人であっても、気に障る、癇に障るような事はある。それは、この車椅子の少女であっても当然の如く備わっているものだ。僕の態度、口調、物腰が少女の不安に触れたのだ。
これはただの想像だが、車椅子の少女は人の動向に酷く敏感であったのだと思う。自身を見る目に対する不安、自身に対応する人に対する不安、そして、自分自身への不安。
そう、僕は勘違いをしていたのだ。車椅子の少女の行動理念は勇気から奮い立たされるものではなく、全て不安から引き起こされるものだった。中二病の時期に入っていた僕であっても、そこに思い至ることが出来たのは、僕が高校への不安、自分自身への不安、将来への不安から逃げ出していたからだろう。
「本を読む時に……話した人が、近くに居ると、集中できない、かも知れない……ので」
「あっ、なるほど。話し込んじゃいますもんね。図書館でそれは駄目ですから」
「いえ……個人的に落ち着かないってだけ、なんですが」
小説の世界に没入しようにも、見知った相手、話したことのある相手が同じく本を読んでいたなら、僕にしてみれば沈黙が気まずくて仕方が無い。
だから、見知った相手の居ない、赤の他人だらけの空間であった方が、僕にとっては望ましいのだ。
「でしたら、読書は一先ず後回しにして、お話をしませんか?」
「は……あっ、え?」
「どうして私が車椅子に乗っているのか、気になりませんか?」
それは、僕に身の上話をしたいということなのだろうか。それこそ、御免被る話である。
お涙頂戴の話は小説の中だけで充分だ。悲恋の物語は一時期、馬鹿みたいに恋人が不治の病に冒されているものばかりだった。そんなあからさまな話を初めて読んだ時は感動したが、数が増えるに連れて飽いてしまった。それはこの頃だけでなく、今も尚、小説の中でも読みたくないジャンルとなっている。だから、車椅子の少女が語るだろう、「私ってかわいそうな人生を歩んでいるでしょう? 慰めて下さい」とでも言いそうな話に、全身が拒否感を露わにしていた。詳しく言えば、顔を固くし、やや車椅子の少女との距離を離した。
「いえ、共感して欲しいわけではなく、柳井さん、ちょっと気にしてませんか?」
「あ……はい、少しだけ」
素直に答える。なんで車椅子に乗っているんだろうという、相手の気持ちも考えない疑問をそのままぶつけるわけにも行かなかったのだが、どうやら車椅子の少女はそれを察してしまったらしい。
図書館の外に出て、駅地下の休憩スペースまで移動した。
「ぶっちゃけて言いますと、自転車を漕いでいた時に車に巻き込まれました。両足の神経が傷付いていて、現在は不随です。ですが、お医者さんが言うにはリハビリすれば、いつかは歩けるようになるそうです。実際、少しだけですけど動かせるようになって来ましたし……歩けるようになるには、程遠いですけど。この長い靴下――サイハイソックスって言うんですけどね、これを脱いだらそれはもう、自分でも目を背けたくなるくらいの傷痕があるんですけど、見ます?」
「見ません…………それと、場所を移した意味が、あまり無いような」
「自転車での事故は私の不注意でしたし、生きているのが奇蹟みたいなものなんです。さすがに両足が動かないって言われた時は、死にたくなりましたけど、足が動かないと死ぬのも一苦労ですから。病室の窓から飛び降りるってパターンもドラマじゃよくありますけど、私が入院中は個室で、そこの窓には転落防止のための柵がありましたし」
あっけらかんと言ってはいるが、この境地に達するのにどれほどの時間を要したのだろうか。およそ一年間ぐらいは、まともに生きることを放棄したくなっていたはずだ。
「まだマシなんですよ? お手洗いに行きたくなっても、我慢できますから。下半身不随ですと、そこの筋肉を動かすことが出来ない方もいらっしゃるそうなので……だから、私は恵まれているなぁと」
僕はその言葉に、酷く動揺した。なにせ、交通事故に遭いながらも、両足が動かなくなっても――リハビリで動かす苦痛、苦悩に苛まれながらも、それを不幸だと思いながらも、この車椅子の少女は、「恵まれている」と言ったのだ。それが僕にはどうしても納得することができなくて、歯はガチガチと鳴り、体中の筋肉は変に強張り、言いようのない離人感に襲われた。
「柳井さんは、どう思いますか? 自分の人生を、恵まれていると思えますか?」
その問いは、まるで僕の現状を見通しているかのようでいて、答えることができなかった。